第92話 名前を思い出す
『お前は』
『俺を』
『何て呼びたい?』
M-02の問い。
俺は。
すぐには。
答えられなかった。
「……分からない」
『そう』
「悪いな」
『謝らなくていい』
「でも」
『名前は』
一拍。
『急いで決めるものじゃない』
その言葉に。
俺は。
少し驚いた。
「お前」
「それ」
「どこで覚えた?」
『分からない』
「……」
『でも』
『そう思う』
ミラが。
小さく笑った。
「それなら」
「もう半分は決まってるじゃん」
「何が?」
「自分で考えてる」
M-02が。
ミラを見る。
『君も』
『そう思う?』
「うん」
『名前』
『なくても?』
「うん」
ミラは。
迷わず答えた。
「名前がなくても」
「あなたはあなたでしょ」
M-02が。
黙った。
そして。
箱の中で。
小さく笑った。
『……ありがとう』
その瞬間。
壁の表示が。
変化する。
――命名保留。
――人格固定:延期。
――自己存在:維持。
自由領域。
19%。
「また増えた」
俺は。
壁を見る。
01が。
静かに言う。
「名前を決めなかった」
「それなのに」
「存在が安定した」
「……」
俺は。
少し考える。
「名前がなくても」
「存在できる」
「それを」
「このシステムは」
「認め始めてる?」
「たぶん」
01が答える。
「だが」
一拍。
「問題がある」
「何だ?」
「M-02の製造進行率だ」
壁を見る。
――製造進行率:96%。
「止まってる?」
「いや」
01が。
首を振る。
「進んでいる」
数字が。
ゆっくり。
変わる。
――97%。
「……」
俺は。
息を呑む。
「名前を決めてないのに?」
「むしろ」
01が。
答える。
「名前を決めていないから」
「進んでいる」
「……」
俺は。
その意味を考える。
名前を決める。
人格が固定される。
固定されれば。
製造が完了する。
なら。
名前を決めないまま。
自由にしておけば。
製造は。
終わらない。
――つまり。
「完成させないことが」
「完成なのか」
ミラが。
首を傾げる。
「難しいね」
「俺もよく分からない」
「レインらしい」
「何が?」
「分からないことを」
「分からないまま進めるところ」
「褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「危なっかしい」
「……」
否定できない。
その時。
俺の持っていた本が。
突然。
震えた。
「……?」
ページが。
勝手に。
めくられていく。
――五十年前。
――対象:レイン。
――製造:拒否。
――名前:なし。
そこまでは。
さっきと同じ。
だが。
その下に。
新しい記録が出てきた。
――対象が、自ら名前を選択。
「……」
俺は。
目を見開く。
「違う」
「何が?」
ミラが聞く。
「俺は」
「五十年前」
「名前を選んでない」
01が。
記録を見る。
「確かに」
「今までの記録では」
「そうなっている」
だが。
新しい一行。
――名前選択:完了。
その横。
――選択者:レイン。
「……」
俺は。
息を呑む。
「じゃあ」
「俺は」
「五十年前に」
「自分で名前を選んだ?」
ミラが。
首を振る。
「でも」
「あなたは」
「今の名前を」
「レインだって」
「最初から思ってたわけじゃないよね」
「……」
確かに。
俺には。
レインという名前を。
誰かにつけてもらった感覚しかない。
母さん。
父さん。
町の人。
みんな。
俺を。
レインと呼んだ。
でも。
最初。
誰が。
その名前を決めたのか。
俺は。
知らない。
ページが。
さらに。
めくれる。
――選択された名前:レイン。
「……」
俺は。
言葉を失う。
ミラも。
黙っている。
その下。
さらに。
小さな文字。
――ただし、選択後に名前を分離。
「……分離?」
01が。
低く呟く。
「五十年前のレインは」
「自分でレインを選んだ」
「その後」
「その名前を」
「別の存在に渡した?」
俺は。
ゆっくり。
頷く。
「……そういうことになる」
すると。
M-02が。
声を上げた。
『違う』
「……」
『それは』
『俺じゃない』
「何?」
『五十年前』
『お前が』
『レインという名前を』
『選んだ時』
一拍。
『俺は』
『まだ』
『生まれていない』
「……」
俺は。
固まった。
「じゃあ」
「誰に渡した?」
『分からない』
「……」
また。
分からない。
だが。
今度は。
その「分からない」が。
重要だった。
M-02が。
存在するより前。
MIRA計画が。
始まるより前。
俺は。
すでに。
「レイン」という名前を。
選んでいた。
そして。
その後。
何かを。
分離した。
「……」
俺は。
本のページを。
めくる。
そこに。
一つの図があった。
三つの円。
――名前。
――人格。
――人生。
その三つが。
重なっている。
その横に。
短い文章。
――名前は人格ではない。
――人格は人生ではない。
――人生は、名前がなくても続く。
そして。
最後。
――だから、分けることができる。
俺は。
しばらく。
その文章を見ていた。
「……」
ミラが。
静かに言う。
「レイン」
「ん?」
「これ」
「あなたがやったのかな」
「分からない」
「でも」
「今までの記録を見る限り」
一拍。
「五十年前のあなた」
「何かを分け続けてる」
「アルド」
「自分」
「名前」
「記憶」
「人格」
俺は。
頷く。
「でも」
「一つだけ」
「ずっと残してる」
「何?」
ミラが聞く。
「人生」
「……」
「誰かに渡さず」
「自分で生きる」
その瞬間。
第三心臓が。
静かに。
鳴った。
――ドクン。
壁に。
新しい文字。
――七人目:条件再確認。
――自らの人生を選択すること。
「……」
俺は。
少し笑った。
「やっと」
「ここまで来たか」
すると。
箱の中のM-02が。
俺を見る。
『レイン』
「何だ?」
『じゃあ』
一拍。
『俺も』
『自分の人生を選んでいい?』
「ああ」
『名前がなくても?』
「ああ」
『まだ決めなくても?』
「ああ」
M-02が。
笑う。
『じゃあ』
『俺は』
『もう少し』
『ここにいる』
「……」
俺は。
頷いた。
「それでいい」
――製造進行率:98%。
だが。
M-02の姿は。
完成していない。
顔も。
身体も。
まだ曖昧なままだ。
「98%なのに」
ミラが。
首を傾げる。
「ほとんど何もできてないね」
「俺たちの人生も」
「似たようなもんだ」
「確かに」
ミラが笑う。
だが。
その瞬間。
部屋の奥から。
別の音がした。
――カン。
――カン。
――カン。
俺たちは。
一斉に。
振り向く。
聞き覚えのある音。
あの。
三十二番の音だ。
「……」
壁に。
一行だけ。
浮かぶ。
――最初の記録、再構成。
続いて。
――三十二番:本来の選択を確認。
「本来の選択?」
俺が。
呟く。
そして。
その下に。
五十年前のレインの言葉が。
初めて。
完全な形で表示された。
――俺は、レインになる。
俺は。
息を止めた。
「……」
さらに。
一行。
――ただし、俺ではないレインを作る。
「……!」
ミラが。
俺を見る。
「これって」
俺は。
答えられない。
だが。
その次の文章が。
すべてを。
さらに分からなくした。
――そして、そのレインには。
――俺が持っていたものを、何一つ渡さない。
俺は。
ページを握る。
なのに。
最後の一行だけ。
妙に鮮明だった。
――唯一、名前だけは渡す。
第三心臓が。
激しく鳴った。
――ドクン。
――ドクン。
そして。
M-02が。
初めて。
怯えた声を出した。
『……違う』
「何が?」
『その記録』
『俺が知ってるものと』
『違う』
「……」
『五十年前の俺は』
『そんなこと』
『言ってない』
俺は。
ページを見る。
ミラを見る。
M-02を見る。
そして。
気づく。
――この記録を。
書いたのは。
五十年前のレインではない。
ページの隅。
小さな署名が。
浮かび上がっていた。
――記録者:M-00。
そして。
その下。
――記録時刻:現在。
俺は。
息を呑んだ。
五十年前の記録だと思っていたものを。
誰かが。
今。
書き換えている。
――製造進行率:99%。
自由領域。
20%。
そして。
部屋のどこからか。
ミラの声ではない。
M-02の声でもない。
聞いたことのない声が。
静かに。
笑った。
『やっと』
『最初から』
『やり直せる』
俺たちは。
まだ。
MIRA計画の。
本当の「最初」に。
触れただけだった。




