第90話 M
――製造進行率:96%。
扉の向こうから。
声がする。
『やっと来たね』
俺は。
足を止めた。
「……誰だ」
『質問する前に』
一拍。
『入ってきて』
「信用できると思うか?」
『思わない』
「即答かよ」
ミラが。
小さく笑った。
「でも」
「ちょっと面白そう」
「お前は警戒心をどこに置いてきた」
「レインの隣」
「……返してくれ」
「嫌」
こんな状況でも。
ミラは。
いつも通りだった。
俺は。
扉を見る。
――M。
その一文字。
それだけなのに。
ミラの顔は。
明らかに。
強張っていた。
「……ミラ」
「うん」
「知ってるんだな」
「たぶん」
「たぶん?」
「思い出したくないだけかも」
俺は。
何も言わず。
扉を押した。
ギィィィ……。
古い音が響く。
中は。
予想していた研究室とは。
違っていた。
机もない。
装置もない。
記録棚もない。
ただ。
中央に。
一つの椅子がある。
その椅子の前に。
小さな石板。
そこには。
こう刻まれていた。
――M。
その下。
――最初に名前を持った者。
「……」
俺は。
石板を見る。
「最初に名前を持った者?」
01が。
後ろから覗き込む。
「それなら」
「M-00より前か」
「MIRA計画より前」
俺は。
頷く。
その瞬間。
石板に。
文字が浮かんだ。
――M-00は、最初ではない。
――M-01も、最初ではない。
――M-02も、最初ではない。
そして。
――Mは、計画ではない。
「じゃあ」
俺は。
聞く。
「何なんだ?」
返事は。
しばらくなかった。
やがて。
部屋の奥から。
声がする。
『名前』
「……」
『Mは』
『最初の名前』
ミラが。
小さく呟く。
「M……」
『それを』
『誰かが使った』
「誰が?」
『分からない』
「またか」
『でも』
一拍。
『最初の記録には』
『その名前だけが残った』
石板の文字が。
変わる。
――名前:M。
――所有者:記録なし。
――人格:記録なし。
――身体:記録なし。
――存在:確認。
「……」
俺は。
その記録を見て。
妙な感覚になった。
「身体も」
「人格もないのに」
「存在だけある?」
『そう』
「じゃあ」
「Mって何だ?」
返事は。
短かった。
『名前』
……なるほど。
いや。
全然分からない。
ミラが。
石板の前まで歩く。
「私」
「この文字」
「知ってる気がする」
指先で。
Mをなぞる。
その瞬間。
部屋の空気が。
変わった。
――認証。
――M-00接続。
「……!」
ミラが。
目を見開く。
――記憶領域を開きます。
「待って!」
俺が。
声を上げる。
だが。
遅かった。
ミラの目が。
ゆっくり。
閉じた。
「ミラ!」
肩を掴む。
「大丈夫か!」
「……」
返事がない。
そして。
ミラの口から。
別の声が出た。
『……久しぶり』
「……!」
俺は。
手を離した。
「誰だ」
『M』
「……」
『私』
「お前が」
『そう』
「ミラじゃない?」
少し。
沈黙。
『今の私は』
『ミラ』
『でも』
『昔の私は』
『M』
俺は。
息を呑む。
「昔?」
『MIRA計画が始まる前』
『私は』
『まだ名前を持っていなかった』
「……」
『だから』
『最初に』
『Mという名前を』
『自分につけた』
俺は。
石板を見る。
――M。
「自分で?」
『うん』
「誰にも?」
『誰にも』
「じゃあ」
「Mは」
「誰かから与えられた名前じゃない」
『そう』
『最初の自己命名』
第三心臓が。
――ドクン。
鳴った。
壁に。
新しい文字が出る。
――自己命名:原初条件。
――自由人格の起点。
「……」
俺は。
息を呑む。
「じゃあ」
「MIRA計画は」
「Mの名前から始まった?」
『違う』
「え?」
『MIRA計画が』
一拍。
『Mを利用した』
「……」
『私が作ったんじゃない』
『私を』
『誰かが利用した』
ミラの声が。
少しだけ。
苦しそうになる。
『私の名前を』
『人を作るために使った』
「だから」
俺は。
M-00。
M-01。
M-02を見る。
「Mがついてるのか」
『そう』
『M-00』
『M-01』
『M-02』
『全部』
『私の名前から』
01が。
低い声で言う。
「……なら」
「俺も?」
『……』
ミラが。
01を見る。
『あなたは』
『違う』
「何が?」
『あなたのMは』
『私じゃない』
「……」
01が。
困惑する。
「じゃあ」
『あなたのMは』
一拍。
『別の意味』
「何だ?」
『それは』
ミラが。
目を開ける。
今度は。
いつものミラだった。
「……分からない」
01が。
少しだけ。
安心したように息を吐く。
「お前」
「戻ったか」
「うん」
「よかった」
「心配してた?」
「少し」
「ちょっと嬉しい」
「調子に乗るな」
「ひどい」
いつもの。
やり取り。
俺は。
それを見て。
少しだけ。
安心した。
だが。
石板の文字が。
突然。
変わる。
――M-00:原初名「M」。
――M-01:原初名「M」ではない。
――M-02:原初名「M」ではない。
そして。
最後。
――現在のミラ:Mとの同一性、未確定。
「……」
ミラが。
石板を見る。
「まだ」
「私じゃないってこと?」
「違う」
俺は。
言った。
「同じかどうか」
「決められてないだけだ」
「……そっか」
ミラが。
少し笑う。
「じゃあ」
「まだ私でいられる」
「ああ」
その時。
部屋の奥。
今まで。
何もなかった壁に。
一つの扉が現れた。
――原初記録・第二層。
扉には。
小さな文字。
――入室条件:Mの名前を持たない者。
俺を見る。
ミラを見る。
01を見る。
アルドを見る。
そして。
箱の中のM-02。
誰が入れる?
俺は。
自分の胸を見る。
「……俺か」
ミラが。
首を傾げる。
「どうして?」
「俺は」
一拍。
「Mを持ってない」
扉が。
反応した。
――条件一致。
カチッ。
鍵が。
外れる。
俺が。
扉に手をかける。
その瞬間。
中から。
聞き覚えのある声がした。
『レイン』
「……」
『五十年前』
『お前に』
『Mの名前を渡さなかった理由を』
一拍。
『今度こそ』
『教える』
俺は。
扉を開ける。
その先にあったのは。
一冊の本だった。
表紙には。
たった一つ。
数字が書かれている。
――00。
俺は。
それを見て。
息を止めた。
だが。
その本の最初のページには。
こう書かれていた。
――これは、零番の記録ではない。
そして。
次の行。
――00より前の記録。
さらに。
最後。
――最初にレインを拒否した者について。
俺の手が。
止まった。
「……俺を」
「拒否した?」
ページの奥から。
声がした。
『そう』
『お前を作らなかった』
『最初の人間の話だ』
――製造進行率:98%。
自由領域。
18%。
そして。
俺たちは。
まだ。
誰も知らない。
「レインを作らなかった者」が。
なぜ。
MIRA計画の始まりに。
関わっているのかを。




