最終話 自由
朝だった。
目を開ける。
見慣れた天井。
見慣れた壁。
そして。
見慣れた布団。
「……」
俺は。
しばらく。
天井を見ていた。
何か。
夢を見ていた気がする。
長い。
とても長い夢。
名前。
番号。
選択。
M。
R。
S。
三十二。
そして。
何人もの。
“レイン”。
「……」
胸に手を当てる。
鼓動。
一つ。
また一つ。
ちゃんと。
鳴っている。
「レイン!」
階下から。
ミラの声がした。
「起きてる!?」
「……起きてる」
「朝ご飯!」
「今行く」
「早く!」
「分かった」
俺は。
布団から出た。
窓を開ける。
朝の空気が。
部屋に入ってくる。
町は。
いつも通りだった。
昨日までと。
何も変わらない。
……いや。
少しだけ。
違う。
俺には。
それが分かった。
道を歩く人。
パン屋を開ける店主。
眠そうに欠伸をする子供。
誰も。
番号を持っていない。
誰も。
役割を表示されていない。
ただ。
生きている。
それだけだった。
「レイン!」
「今行くって」
階下へ降りる。
ミラが。
テーブルの前で待っていた。
「遅い」
「まだ五分だろ」
「五分は長い」
「お前は朝から元気だな」
「当然」
ミラが。
パンを俺の前に置く。
「食べて」
「何で?」
「今日は仕事だから」
「……」
俺は。
パンを見る。
「仕事?」
「そう」
「昨日まで世界が再構成されてたんだけど」
「でも今日も仕事はある」
「……」
「遺体回収人でしょ?」
「まあ」
「なら」
ミラが。
笑う。
「行こう」
俺も。
笑った。
「ああ」
外へ出る。
朝の町を歩く。
昨日までの。
白い世界は。
どこにもない。
システムの文字も。
数字も。
扉も。
見えない。
ただ。
空がある。
道がある。
人がいる。
そして。
俺がいる。
「……レイン」
「何だ?」
「何か」
「変わった?」
「分からない」
「そっか」
ミラは。
それ以上。
聞かなかった。
少し歩いたところで。
俺は。
足を止めた。
道端に。
一枚の金属板が落ちている。
拾う。
表には。
何もない。
裏にも。
何もない。
「……」
俺は。
少しだけ笑った。
そして。
その金属板を。
道端に置いた。
「捨てるの?」
ミラが聞く。
「いや」
「じゃあ?」
「置いておく」
「何のために?」
「誰かが」
「必要になるかもしれない」
ミラが。
首を傾げる。
「番号は?」
「ない」
「名前は?」
「ない」
「役割は?」
「ない」
「じゃあ」
ミラが。
笑う。
「ただの板?」
「そう」
「それ」
「ちょっと好きかも」
「俺もだ」
二人で。
歩き出す。
その時。
後ろから。
声がした。
「――レイン」
俺は。
振り返った。
誰もいない。
「……」
ミラも。
振り返る。
「今」
「聞こえた?」
「ああ」
「誰?」
「分からない」
少し。
沈黙。
そして。
ミラが。
笑った。
「じゃあ」
「行こう」
「ああ」
俺たちは。
また歩き出した。
その声が。
誰だったのか。
俺には。
分からない。
最初のレインかもしれない。
Mかもしれない。
Rかもしれない。
Sかもしれない。
第五存在かもしれない。
あるいは。
これから生まれる。
まだ名前のない誰かかもしれない。
でも。
もう。
確かめる必要はなかった。
名前は。
誰かの所有物じゃない。
番号でもない。
役割でもない。
誰かが呼んで。
誰かが応えて。
その繰り返しの中で。
少しずつ。
形になっていくものだ。
だから。
俺は。
今日も。
レインと呼ばれたら。
答える。
「レイン」
「何だ?」
ミラが。
笑う。
「呼んだだけ」
「……そうか」
俺も。
笑った。
町の向こうから。
朝日が昇る。
昨日。
世界は。
99%まで。
作り直された。
残り1%は。
明日へ。
委ねられた。
きっと。
その1%は。
永遠に。
埋まらない。
世界は。
完成しない。
人も。
完成しない。
名前も。
人生も。
きっと。
完成しない。
だから。
面白い。
俺は。
遺体回収人だ。
今日も。
死者を迎えに行く。
そして。
今日も。
生きている。
それだけで。
十分だった。
「レイン」
「ああ」
「今日」
「何食べる?」
「朝飯食っただろ」
「昼」
「気が早い」
「じゃあ」
ミラが。
少し考える。
「明日は?」
俺は。
空を見る。
雲一つない。
青い空。
昨日まで。
誰かが決めようとしていた世界。
でも。
今は。
誰のものでもない。
俺は。
少しだけ笑った。
「分からない」
「また?」
「ああ」
「でも」
俺は。
歩きながら。
続けた。
「明日になれば」
「きっと」
「何か決まる」
「誰が決めるの?」
「さあな」
「レインじゃないの?」
「俺だけじゃない」
「そっか」
ミラが。
笑う。
「じゃあ」
「明日も一緒に考えよう」
「……ああ」
その言葉を。
聞いた瞬間。
胸の奥で。
小さく。
鼓動が鳴った。
ドクン。
それは。
システムの音ではなかった。
誰かに命令されたものでもない。
番号でも。
役割でもない。
ただ。
生きている。
その証だった。
俺は。
歩く。
ミラと。
一緒に。
朝の町を。
どこまでも。
そして。
空の上。
誰にも見えない場所で。
一つだけ。
文字が浮かんだ。
――世界再構成:99%。
その下。
今まで存在しなかった文字。
――残り1%:未定義。
さらに。
もう一行。
――更新予定:明日。
最後に。
小さく。
こう書かれていた。
――名称:レイン。
――状態:生存。
――役割:なし。
――選択権:本人。
そして。
最後の最後。
記録ではなく。
一人の人間の言葉として。
俺は。
心の中で呟いた。
――明日も。
俺は。
俺でいる。
それで。
十分だ。
朝日が。
町を照らす。
ミラが。
先を歩いている。
「レイン!」
「待てって」
「早く!」
「今行く!」
俺は。
走り出した。
昨日までの俺ではなく。
誰かに作られた俺でもなく。
何者かになる前の俺でもない。
ただ。
今日を生きて。
明日を迎える。
俺。
――レインとして。
そして。
この物語は。
ここで終わる。
けれど。
世界は。
終わらない。
明日という。
まだ誰にも決められていない場所へ。
俺たちは。
歩いていく。
――完




