第27話 バチン!
「け、桂花?」
「いやです。私は一緒に暮らしたくありません」
その言葉に、お父さんの目が大きく見開かれた。いや、お父さんだけじゃない。僕たちのやり取りを黙って眺めていたお母さんまでも、まるでありえないものでも見たかのように目を丸くしていた。
背中にいた里見さんが、僕の横に並ぶ。
「勝手に浮気して、お金も全部持って逃げて。今更戻ってきて一緒に暮らそうだなんて虫が良すぎます。そもそも、昨日から私たちは一言も謝罪を受けていません。どうして謝るくらいのことができないんですか? どうして自分語りしかできないんですか?」
「おま……親にその口の利き方は」
「親? 私はもう、あなたを親だとは思っていません。お母さんと、渡辺君……ナベ君だけが、私の大切な家族です。部外者は、あなたの方です。部外者と一緒に暮らすなんて、私は死んでも御免です」
里見さんが、僕の手を握る。震えていた。まるで怯える子供のように。僕は、優しくその手を握り返す。
ずっと我慢していた。ずっといい子を演じていた。そんな彼女の告げた、わがまま。そこに恐怖と葛藤があることを、僕だけは知っている。だから僕は、彼女の支えになりたい。彼女がわがままを言えるように。彼女が彼女でいられるように。
「分かったら、さっさと出て行ってください。ここは、私たち家族の家です」
「こんっっっの! ガキどもが! 黙って聞いてりゃ!」
耳をつんざく叫びと同時、お父さんの目が吊り上がった。どうやら、里見さんの言葉がとどめになったようだ。右手が勢いよく振り上げられる。
まずい!
僕は里見さんの手を引き、お父さんから遠ざけた。そうして自分の体を前に押し出す。むき出しの敵意を、真正面から受け止める。
運動神経平均以下の自分ができるのはここまでだ。歯を食いしばり、痛みに耐える準備をする。人に殴られるのって何年ぶりだろ。現実逃避を求めた脳が、どうでもいい思考をよぎらせる。
そうして、お父さんの手が僕に振り下ろされ――
「ぐえっ⁉」
――ようとしたところで、なぜか彼が後ろに吹っ飛んだ。
「「え?」」
僕と里見さんの声が重なる。
幻かと思った。
鬼気迫る表情のお母さんが、倒れたお父さんを見下ろしていた。
「あんた! うちの子とその旦那に何しようとしたの⁉」
お父さん以上の叫び声が部屋中にこだまする。怒りのせいか、お母さんの顔は驚くほど真っ赤になっている。ふり乱れる黒髪は、まるで一本一本が怒気をはらんでいるかのようだ。怒髪天を衝くなんて言葉があるけれど、それがこんなにも似合う場面はそうそうないだろう。
「お、お前まで? な、なんだよ。お前ら二人とも、あのガキにたぶらかされたのか? 洗脳か? も、もしかして、体の関係を――」
「あんたみたいな節操なしとは違うわ!」
バチン!
倒れているお父さんの頬を、彼女がものすごい勢いでひっぱたく。
「桂花にあんなこと言わせて! 暴力まで振るおうとして! もう私は目が覚めた! 優しかった昔のあんたは死んだ! 出ていきなさい、この邪魔者がぁぁぁああああ!」
子供のためなら、母っていうのは超絶強くなれるのよ。昔聞き流した母さんの言葉を、僕は身をもって体験していた。
♢♢♢
お父さんが去り、玄関扉が力なく閉まる。最後に見た背中には、まるで生気が感じられなかった。これは当分立ち直れそうにないだろう。まあ、それはそれで別にいいんだけど。
室内に訪れる静寂。仁王立ちで扉を睨み続けるお母さん。目を丸くしたままの里見さんと、恐怖でちょっぴり腰が抜けそうになっている僕。誰も何も言わない。テレビ後ろの壁に取り付けられた時計が、カチカチと一定のリズムで音を刻む。
「はぁぁあああ」
突如、緊張の糸が切れたかのように、お母さんがその場にしゃがみこんだ。
「お、お母さん。大丈夫ですか?」
里見さんが慌てて彼女に駆け寄る。肩に手をまわし、その体を支える。
「桂花、ごめんね」
「え?」
「あなたが『いや』なんて言うの、何年ぶりに聞いたかしら。お父さんのこと、かなり無理させて……」
そこまで言ったところで、お母さんは小さく首を振った。
「違うわね。お父さんがいなくなってから今日まで、ずっとあなたは無理してたのね」
「それ、は……」
バツが悪そうに視線を逸らす里見さん。お母さんは、そんな彼女の頭をゆっくりと撫でる。
「お母さんのせい、よね。本当に、ごめん」
「…………」
「お母さん、もう大丈夫だから。ちゃんと、元気だった頃に戻るから。あなたは、あなたのままでいなさい。いい子にならなくてもいい。嫌なことがあっても我慢しないで」
まるで全てを理解したかのようにお母さんが微笑む。里見さんの告げたわがまま。時間にすればたった数秒。けれどその数秒が、お母さんの中の何かを動かした。
これはきっと奇跡なんかじゃない。五年間積み重ねてきた里見さんの努力と、お母さんを想い続ける気持ちが、この結果を生んだんだ。
「桂花は、桂花なんだから」
「っ!」
優しく告げられた一言。それが合図だったかのように、里見さんがお母さんの胸に飛び込んだ。
「う……おか……っ……おかあ、さん……うぁ……うぁぁぁぁあああああ!」
「桂花。ごめんね。ごめんね」
子供の様に泣きじゃくる里見さんの頭を、お母さんが撫で続ける。何度も何度も、撫で続ける。
歪んだ五年間を埋めようとする親子の姿がそこにはあった。
♢♢♢
「渡辺香也さん、でしたよね? 今日はありがとうございました」
ちゃぶ台を挟んで、お母さんと向かい合う。僕の隣では、里見さんが腫れあがった目元をクシクシと拭っている。
「い、いえいえ。こちらこそ、勝手に乗り込んでしまって申し訳ありません」
「渡辺さんが来てくれたから、あの人を追い出すことができました。桂花をこれ以上傷つけないでいられるのも、渡辺さんのおかげです。感謝してもしきれません。何度でも言わせてください。本当にありがとうございました」
「あ……えと……」
言葉に詰まる僕。これまでの人生、こんなに人から強い感謝を向けられたことはない。まるで自分が正義の味方であるかのよう……なーんて思えるはずもなく。
お母さんのおかげなんだよなあ……。
僕がやったことといえば、嘘をついて話し合いの場に乗り込んだことと、お父さんをひたすらに煽ったことだけだ。彼の本音を暴き出し、里見さんやお母さんから不信の目を向けられれば、気まずくなって逃げるに違いない。当初思い描いていたそんなストーリーはどこへやら。結局お父さんを追い出せたのは、お母さんの覚醒があったからだ。
あれ? というか待って? お父さん、里見さんに暴力振るおうとしてたよね? まあまあ僕のせいじゃない? 僕が変に追い詰めすぎたからじゃない? うわ。うわわわわわわ。
とりあえず土下座したほうがいいかな。僕がそんなことを考えていると、お母さんがクスッと微笑んだ。
「それにしても、結婚まで考える相手が桂花にいたなんて。お母さんびっくり」
「……あ」
心臓が大きく跳ね上がる。
まずい。家族の話し合いに参加するにはこの嘘が一番手っ取り早いと思ってたけど。冷静になってみると、あまりにもめちゃくちゃすぎる。学生結婚? 自分はもう家族? 何じゃそれは。里見さん、嫌な気持ちになってないかな?
チラリと里見さんに視線を向ける。
「お、お母さん。あ、あまりからかわないでください」
そこにいたのは、トマトのように顔を真っ赤に染めた彼女だった。
「いいじゃない、学生結婚。渡辺さんとは初対面だけれど、優しそうな人だし。何より桂花のことも守ってくれそう」
「だ、だから。私と渡辺君は……」
「あなた、さっき渡辺さんのこと『ナベくん』って呼んでたわよね。わざわざ取り繕わなくても……いや、私がいるからか。よし。お母さん、ちょっと親戚の人と晩御飯食べる約束してたような気がするから出てくるわね」
「え? お、お母さん? 私、そんな約束あるなんて聞いてないんですけど」
困惑する里見さんに、お母さんはウインクを一つ。そうして僕へと向き直り――
「渡辺さん。私、しばらく留守にさせていただきますので、桂花をよろしくお願いします。一時間半くらいでよいですか? それとも二時間あれば足りますか?」
何その怪しい時間設定⁉ 足りるって何⁉
「えっと……」
「ふむ。やはり二人は若いですし、二時間の方がいいですよね。延長が必要でしたら、桂花を通して連絡してください。それでは」
体調が悪かっただなんて嘘のような軽い足取りで、お母さんは部屋から出て行った。




