第26話 何の問題もないですね
「ここだ」
書かれた住所をもとにたどり着いたのは、古びた二階建てのアパートだった。『里見』と表札のある扉の前に立つ。扉横の小さな窓にはカーテンがかけられており、その下からはかすかな光が漏れ出ている。声は聞こえないが、中に人がいることは明らかだった。
ゴクリと唾を飲み込み、インターフォンに手を伸ばす。
心臓が早鐘をうっている。緊張で気分が悪くなってきた。油断すると吐いてしまいそうなほど。心に巣くう弱い自分が、「今日はやめておいた方が」とささやく。
うるさい。
ささやき声を、心の外側に蹴り飛ばす。
やるって決めたんだ。里見さんのために。ここで逃げたら、僕はきっと一生後悔する。二度と里見さんと顔を合わせられなくなる。そんなのは嫌だ。
里見さんの笑顔が見たい。里見さんの愚痴を聞いていたい。里見さんとずっと一緒にいたい。
そのためには……。
もう一度唾を飲み込み、インターフォンのボタンを押す。
ピンポーン。
後戻りは、もうできない。
機械音が鳴って数秒後。長い長い数秒後。ゆっくりと、扉が開かれる。
「え……渡辺君⁉」
髪を一つ結びにした里見さんが、扉の隙間から顔をのぞかせた。
「来ちゃいました」
「来ちゃいましたって……な、なんでここに?」
「今、例の話し合い中ですか?」
「は、はい……って、そうではなくてですね。ど、どうしてここに渡辺君がいるのかを、ちゃんと説明――」
「失礼します」
困惑する里見さんを押しのけ、無理矢理中へお邪魔する。まるで自分が借金取りになったかのような気分だ。強引に押し入ったこと、後で絶対怒られるよね。そんな心配を心の隅に置き、リビングと思しき奥の部屋へ一直線に進む。
ガチャリ。
扉を開いた先には、横長の部屋。広さは、十畳とかそれくらいだろうか。左手にはキッチン。右手には赤茶色のちゃぶ台。ちゃぶ台を挟んで向かい合うように、男性と女性が座っている。
「桂花、誰が来……なんで君がここにいるんだ」
男性がこちらに顔を向ける。昨日も見た、里見さんの父親だ。
彼につられるように、女性もまたこちらを見る。おそらく里見さんの母親だろう。里美さんをそのまま大人にしたかのような風貌。けれど、目の下には濃いクマがあり、顔色も若干青白い。体調があまりよくない。初対面の僕でもそれが理解できた。
「あなた、は?」
「初めまして、お母さん。里見さ……桂花さんと同じ将棋部所属の、渡辺香也と言います」
僕が自己紹介をしたところで、里見さんが慌てて部屋に戻ってきた。
「わ、渡辺君?」
「すいません、桂花さん。遅れてしまって」
「遅れてって……というか、名前……」
視線をさまよわせる里見さん。さすがにいきなり名前呼びは驚かせてしまったか。というか、僕自身も驚いている。いつもの自分なら、里見さんのことを下の名前で呼ぶなんて、恥ずかしくてできるわけがない。アドレナリンというのはつくづく偉大だ。
「……君、何の用事でここに来たのかは知らないが、帰ってくれないか。今は家族で大切な話し合いをしているところなんだ。部外者に邪魔されたくはない」
お父さんが僕を睨む。僕を邪魔者としか捉えていない。そんな目つきだった。
でも……。
「それなら、何の問題もないですね」
キッパリと、僕はそう言い放った。僕が退こうとしないのを不思議に思ったのか、お父さんが怪訝な表情を浮かべる。
「問題もないとは、どういうことだ?」
「あれ? お父さん、もしかして聞いてませんか?」
僕はチャンスに弱い。勝てる将棋が目の前にあっても、重要なところで間違い、見落とし、結局勝ちを逃してきた。今回だってそうだ。里美さんを見送るしかできなかった。里美さんを呼び止められなかった。いろんなチャンスを逃して、今、ここに立っている。
もしこれが、僕がつかめる最後のチャンスなのだとしたら。
僕はゆっくりと言葉を紡ぐ。僕に残された、勝利につながる逆転手。
「僕、桂花さんと結婚を前提にお付き合いしてますので」
「「「……は?」」」
僕を見つめる三人が、ポカンと口を開いて固まった。
「なんなら学生結婚の話も出てまして。だから、僕は家族の一員です。話し合いに参加したって、全然おかしくありませんよね」
わざとらしい笑顔。わざとらしい明るさ。里見さんのように上手なキャラ作りなんてできないけれど。僕らしくていいじゃないか。
「君は……何を……」
「何と言われましても。ただ事実を述べただけですよ」
「け、桂花? ほ、本当なのか? お前、本当にこんな男と結婚するつもりなのか?」
「え? あ、あの……な、ナベくん?」
固まっていた里見さんが、ワタワタと動き始める。顔は真っ赤。視線も先ほど以上に定まっていない。しかも、自分がキャラ作りをしているのも忘れて、僕のあだ名を口にした。
けれど、逆にそれが良かったようだ。お父さんが、「マジか……」と呟くのが聞こえた。
「お父さん、どうです? 僕、部外者じゃありませんよ」
「それは……いやしかし……」
「お母さんはどう思います? 今日の話し合い、僕が参加しても大丈夫ですよね? だって家族ですし」
「えっと。そ、そういう事情なら。いい、のかしら?」
「ありがとうございます」
よし。多少強引だけど、どうにか対局の舞台には立てた。二手目といこう。
「さて、お父さん。先ほど僕に『こんな男』と仰いましたが、なかなか失礼ですね。ブーメランというものをご存じですか?」
「……何が言いたいんだ?」
「浮気して出て行って、戻ってきたと思ったら一緒に暮らそうだなんて。僕からすれば、お父さんの方が『こんな男』ですよ」
「ああ?」
ドスのきいた声がお父さんの口から発せられる。だが次の瞬間、彼ははっとした様子で視線を巡らせ、取り繕うかのごとく顔に笑みを貼り付けた。
「君……ずいぶん口が悪いな。まるで悪ガキだ。桂花と学生結婚という話も子供じみている。もう少し大人になったらどうだ」
「お父さんの言うとおり、僕はまだガキですよ。けど、桂花さんのことは大切に思っています。そもそも、お父さんはどうなんです?」
「どうとは?」
「桂花さんから昨日の話については聞きました。あなた、心を入れ替えて戻ってきたそうですね。けど、僕にはどうにも怪しく思えてしまうんですよ」
「……桂花、お前」
お父さんの顔が里見さんに向けられる。「ひっ」と里見さんが怯えた声を漏らす。彼女をかばうように、僕は二人の間に体をねじ込ませた。
「今は僕と話してる最中です。それで、心を入れ替えたっていう証拠を見たいんですけど」
「証拠? 君は何を言っているんだ? 気持ちを証明する証拠なんて、出せるわけがないだろう」
「そうですか? 例えば、浮気相手とのメール履歴なんて最適だと思うんですけど」
瞬間、お父さんの笑顔が歪んだ。
「あなた、心を入れ替えた結果、浮気相手と別れたんですよね? それが本当なら、浮気相手と別れについてのやり取りをしているのでは? 『前の奥さんのところに戻る』みたいな。そうでなくても、メールを遡れば少しは心を入れ替えた証拠らしきものが出てくると思うんですけど」
「そ、それは……相手のプライバシーというものが……」
「もう縁も切ってるそうですし、いまさらプライバシーなんて関係ないでしょ。あれ? もしかして、単に浮気相手に捨てられたから、ヤドリギを求めて戻ってきたとかですか? メールにもそんな文面が残ってたり? いやー。さすがに分別ある大人としてそれはないですよね。うん」
自分でも驚くほど言葉が出てくる。これまで全力で人を煽ったことなんてないけれど、妙に手慣れた感じだ。もしかしてこれは、強情で質問攻め好きな母さんの血なのかもしれない。
ここで「メールなんてとっくに全部消した」みたいな答えが返ってきたら、別の方向からカマをかけるつもりだった。けれど、どうやら何か後ろめたいものでもあったのだろう。お父さんは頬をピクピクと痙攣させ、僕の後ろにいる里見さんに声をかけた。
「な、なあ、桂花。お前は、お父さんと一緒に暮らしたいよな? また昔みたいに、一緒にご飯食べたり、遊びに行ったりしたいだろ?」
「…………」
あまりにも露骨な話題そらし。どうやら僕を無視して里見さんを懐柔するつもりらしい。しかし、彼女は何も答えない。
「将棋も一緒にやらないか? 俺、昔は全然だったけど、少しは勉強したんだよ。桂花が大会ですごい成績を残したって知ってから。まあ、今の俺の実力じゃ、お前に瞬殺されるんだろうけど」
「…………」
やはり何も答えない。
そのうちにお父さんも苛立ってきたのか、眉間に深いしわを刻む。
「おい、桂花! 黙ってないで、何か――」
「いや」
背中から、里見さんの小さな声が聞こえた。




