第24話 お願い、だからぁ
「お父さんね、浮気した人と別れたんだって。自分は心を入れ替えた。今度はちゃんと二人のことを支えたい。浮気相手とは縁を切ったから、また一緒に暮らそうって。これまでどれだけ苦しかったかとか、どれだけ私やお母さんのことを想っていたかとか、昨日は延々聞かされてたよ」
苦笑いとともに告げられたその事実に、僕は思わず顔をしかめた。
「それは……何と、言いますか……」
「言葉、選ぼうとしなくていいよ。正直すごく怪しいよね」
僕の胸に生まれた不快感を、里見さんが代弁した。
浮気をして出ていった父親。それが戻ってきて、「心を入れ替えた」だって? なんだその取り繕ったようなセリフは。しかも、挙句の果てには自分語りだなんて。
僕は今、事実を聞かされただけ。昨日里見さんの家で起こった出来事を、一から十まで見ていたわけじゃない。
けれど、確信できる。あの父親は、心から反省なんてしていないと。
「お母さんは、なんて言ってるんですか?」
「別に何も。心の中では怪しいと思ってるのかもしれないけどね。お母さんは、お父さんの優しかった頃を私以上に知っちゃってるし。変に真に受けちゃってるところもあるかも」
「そんな……」
「今日の夜にまた三人で話し合いをする予定なんだけど、もしかしたら……」
続く言葉はなかった。唇を噛み、軽く目を伏せる里見さん。それはまるで、無理に気持ちの整理をつけようとしているかのよう。
部外者である僕にも、彼女が今何を言おうとしたのか、はっきりと理解できた。
「里見さんは?」
「…………」
「里見さんは、お父さんと一緒に暮らしたいと思ってますか?」
「…………」
無言が返ってくる。それがどうにももどかしくて、僕は再び言葉を投げかける。
「里見さんもさっき言ってましたよね。怪しいって。僕も同意見です」
「…………」
「変に勘ぐっちゃって申し訳ないですけど。あの人は、里見さんとお母さんのことをいいように利用――」
そこまで言ってはっとする。
里見さんの目に、涙が滲んでいた。
「……いやだ、よ」
震える声が、静まり返った部室に響く。次の瞬間、せきを切ったように彼女が叫ぶ。
「お父さんとなんて暮らしたくない! 私とお母さんに酷いことしたくせに! なんで今更戻ってくるの⁉ なんで平気な顔して笑ってられるの⁉ なんで『ごめんなさい』の一言もないの⁉ なんで⁉ ねえ、なんで⁉」
零れ落ちる涙。それを拭おうともせず、彼女は心からの叫びを上げ続ける。
「自分も苦労してきた⁉ 私とお母さんのことを想ってた⁉ 馬鹿じゃないの⁉ そっちの苦労なんて全然関係ない! いくら想ってくれてても、そんなの自己満足にしか聞こえない!
お父さんが浮気なんてしなかったら、お母さんは元気なままだったのに! 私だって、キャラ作りなんてしなくてよかったのに! お父さんの顔見てると、辛かったこといっぱい思い出しちゃう! 心がすっごくズキズキしてくる!
もういや! お父さんなんて、大っ嫌い! これ以上、私とお母さんに酷いことしないで! お願い。お願い、だからぁ」
消え入りそうな願いを最後に、里見さんは静かに嗚咽を漏らし始めた。あまりにも儚い彼女の姿に、僕は自分の唇を強く強く噛みしめる。
彼女が不平不満を打ち明けるのを、これまで何度見てきただろう。けれど、今目の前で繰り広げられている光景は、異常としか言いようがない。昨日の今日でこれなんだ。もし本当に、お父さんとの新しい生活が始まってしまったら。考えるだけで背筋が震えた。
「……ごめんね、ナベくん。こんな情けない姿見せちゃって」
最初の涙からしばらくたって。少しだけ冷静になったのか、里見さんが呟くようにそう告げた。
「い、いえ。そんな、謝らないでください」
「多分ね、私がきっぱり断れたら、いろいろ上手くいくのかもしれない。けど、無理なの。お母さんを安心させるために作り出した『できる私』は、お母さんの前でわがままを言っちゃいけないと思ってるから」
「それじゃ……」
口を突いて出ようとした言葉を慌てて飲み込む。里見さんが諦めてちゃ何も変わらない? どうにかして拒絶した方が? そんな無責任なことを言う権利、僕にあるわけないじゃないか。第一、里見さんはずっと無理をしてきたんだ。そこからさらに無理を重ねろって? なんだそれは。一瞬でもバカな押し付けをしようとした自分に腹が立つ。腹が立って仕方がなかった。
僕が自分への怒りを抑えようと、手を握りしめた瞬間。里見さんが、ゆっくり椅子から立ち上がった。
「ごめん、今日は帰るね。特訓は、また明日にしよ」
「里見さん。僕は……」
「大丈夫。これは、私たち家族の問題だから。ナベくんが変に背負い込むようなことじゃないよ」
家族の問題。その何気ない発言が、僕の体をのけぞらせる。でも、ここで逃げてちゃ、昨日の二の舞だ。
「そ、そりゃ、僕は赤の他人かもしれないですけど。里美さんのこと放っておけるわけないじゃないですか。僕にも何かお手伝いさせてください」
「……ありがとうね。けど、放っておいて」
「え?」
「巻き込みたく、ないから」
里見さんが微笑む。
これまで何度も見てきた、作ったような笑みだった。
「では渡辺君。カギ閉めはお願いしますね」
気がつくと、里見さんの髪が結ばれていた。消えた涙。けれど、目元は少し腫れている。
僕が言葉をかける間もなく、彼女は部室を後にした。カチャンと力なく閉まった扉を、僕は眺めることしかできなかった。
♢♢♢
僕が部室を出たのは、いつもと変わらない完全下校十分前のことだった。特段何かをしていたわけではない。里見さんのいない部室で、彼女の言葉を何度も何度も思い返していただけ。彼女と一緒に並べた駒たちはついぞ動かされることはなく、誰もいない部室で今も対局開始を待っている。
「巻き込みたくない、か」
里見さんは苦しんでいた。だから、昨日母さんが言っていたように、無理矢理にでも彼女の問題に介入したかった。それなのに、返ってきたのは、僕を遠ざけようとする言葉。
どうすればいいのか分からなかった。何が正解なのかも分からなかった。そうして僕はまた、昨日と同じ情けない自分を繰り返している。今日、里見さんの家で行われる話し合い。そこで、あの父親が一緒に暮らすことが決まってしまうかもしれないというのに。
「おい。早く帰ろうぜー」
「ちょ。待て待て。筋トレで足が痛えんだよ」
部活終わりらしい男子生徒二人が笑顔で走り去っていく。その快活な声が、僕の中のモヤモヤをさらに大きくする。もし昨日、里見さんの父親が現れなかったら、僕と里見さんはあんなふうに笑っていられたのかも。やるせない気持ちが抑えられなくて、僕は思わず足を止める。
「ん? 渡辺じゃん」
ふいに後ろから聞き慣れた声が。振り返ると、サッカー部の練習着に身を包んだ金城君が立っていた。
「……金城君。今、部活帰り?」
「そうそう。いやー、今日も疲れたわー。走り込み10本10セットって。一年生がボールあんまり触れないのは分かるけど、練習内容が陸上部かっての」
げんなりした表情とともに体を伸ばす金城君。サッカー部というもの存外大変なようだ。
「そういや、渡辺よ。有名人の先輩は一緒じゃないのか?」
「え? あ、ああ。里見さんは……用事があるからって先に帰ったよ」
「ふーん。じゃあ、もう一人の先輩は? 豊満で素敵なお胸の持ち主」
金城君が告げると同時。丁度僕たちの横を通り過ぎた女子生徒が、こちらに冷たい視線を送るのが見えた。ゴミを見る目ってやつだ。そしてきっと、僕もゴミ認定されていることだろう。僕は何も言ってないのに。
「西山先輩は、受験対策の講習があるからって部活には来てなかったかな。学校にはいると思うけど」
「おー。そういやそうだった。今日の休み時間、渡辺に、部活休むとかなんとか言いに来てたっけ」
教室でいつもしているような、たわいもない話。僕にとっても、金城君にとっても、特別な意味があるわけではない。けれど、なぜだろう。ほんの少しだけ、気持ちが軽くなったような気がした。
思わずお礼を言いそうになる。でも、それはあまりにも突拍子がなさすぎて気持ち悪いに違いない。僕がそんなことを考えていると、とある光景が目に入ってきた。
「……あ」
「ん? 渡辺、どした?」
「いや、噂をすればと思って」
僕が指差す先。校舎から出てきた二人の生徒。恋人繋ぎをした、男子と女子。
「あ~。渡辺ちゃんだ~。やっほ~」
今日は、なんだか珍しい放課後だ。




