第23話 どうして?
翌日の放課後。
そわそわと部室の入り口に視線を向ける。今日、西山先輩は、受験対策の講習でお休み。本人は残念がっていたが、里見さんと二人きりになれるのは好都合。あとはちゃんと彼女が来てくれるのかだけが気がかりだ。勇気を出して朝や昼休みにも里見さんの教室を覗いてみたが、運悪く彼女に会うことはできなかった。登校はしているらしかったけれど。
「里見さん、来ないなあ」
壁に掛けられた時計を見上げる。待つこと二十分。いまだに彼女は姿を見せない。いつもなら、特別な用事がない限り僕より早く来ているはずなのに。
一度、教室に探しに行こうか。そう思い、僕が席を立った瞬間。
ガチャッ。
扉が開いた。
「申し訳ありません。遅れました」
「里見さん!」
慌てて彼女に駆け寄る。その顔をまじまじと見つめる。
「渡辺君、何をそんなに焦っているのですか?」
「あの……き、昨日は大丈夫でした?」
「昨日? ああ、何も問題はありませんよ」
返ってきたのは、ごく普通の反応。あまりに平然としている彼女に、僕はその場で立ち尽くす。昨日見た彼女は幻? 思わずそんなことを考えてしまった。
「ところで、部長はどちらに?」
「に、西山先輩なら、今日は講習でお休みするそうです。休み時間に本人から連絡がありました」
「そうですか。でしたら、今日は二人ですね。昨日の今日ではありますが、さっそく全国大会に向けて特訓するとしましょうか」
「は、はい」
困惑を抱えたまま席につく。里見さんもまた、普段座っている窓際の席へ。二人で将棋盤を囲み、駒を並べる。
「特訓ということですので、渡辺君が普段苦手にしている戦法を私が指すことにしましょうか。『居飛車穴熊』と『エルモ囲い急戦』、どちらを相手にしたいですか?」
「え、えっと。じゃあ、『居飛車穴熊』で。大会でもそれにやられましたし」
「承知しました」
作ったような笑みを浮かべる里見さん。いたって自然。いたっていつも通り。なのに、なんだろう。この違和感は。
パチリ、パチリと駒音が鳴る。数秒後、全ての駒が整列し、対局の準備が整う。
「では、お願いしますね。渡辺君」
そう言って、彼女が頭を下げる。将棋指しなら誰もが行う対局前の挨拶。つられるように、僕も「お願いします」と告げたところで――
「……あ」
気づいてしまった。
違和感の正体が、何なのかを。
「渡辺君? どうかしましたか?」
里見さんが首をかしげる。一つに結んだ髪が、頭の後ろで揺れている。
「どうして?」
「……え?」
「どうして、髪結んでるんですか?」
瞬間、彼女の表情が引きつった。こちらに向けられていた視線が下にそれる。結ばれた髪を、彼女の手が乱暴に握りしめる。あまりにも分かりやすすぎる動揺が、目の前で繰り広げられていた。
「ここ、僕しかいませんよね? なのに、髪結んだままなのおかしくありませんか?」
「それ、は……わ、忘れてただけですよ。ま、まあ、たまにはこのままというのも……」
「じゃあ、ほどいてみてください」
「な」
「忘れてただけなら、ほどいても問題ないですよね」
「…………」
彼女の肩が小さく震え始める。視線は相変わらず下を向いたまま。
きっと今、僕はすごく悪いことをしている。里見さんを傷つけようとしている。それでも、やめるわけにはいかない。
彼女が隠そうとしていたもの。彼女が隠してきたもの。それを知るには、ありのままの彼女に聞かないとだめなのだから。
「里見さん」
「…………」
「お願いします」
「……分かり、ました」
小さな呟きとともに、里見さんは握りしめていた手を開いた。ゆっくりと髪ゴムに手をかけ、下へおろす。結ばれていた髪が自由を取り戻し、左右に広がる。
「ナベ……くん……」
クシャリと、顔が歪んだ。
♢♢♢
「お父さんはね、私が小学六年生の頃に家から出ていっちゃったの。浮気だった」
ぽつりぽつりと、里見さんは語り始めた。
「『本当に好きな人ができた。邪魔するとひどい目にあわすぞ』って言ってね。家にあったお金も全部持って行って。残された私とお母さんは、呆然とするしかなかったんだ。幸い親戚の人が助けてくれて、路頭に迷うなんてことはなかったんだけど。お母さんが精神的にまいっちゃったみたいで。『あれだけ優しい人だったのになんで』って、毎晩のように泣いてた」
窓の外を見つめる里見さん。その瞳に映るのは、のんびりと夕空を泳いでいる白雲じゃない。鈍色に覆われた、生々しい過去の光景なのだろう。
「それからだったかな。私が『できる私』のキャラを演じ始めたのは」
キャラ作りのきっかけ。僕の知らない原点を、里見さんが口にした。
「お母さんに安心してもらいたくて、家事なんかを積極的にこなしたの。料理も、掃除も、洗濯も。特に料理なんて、必死になって覚えたよ。今はそうでもないんだけど、あの時のお母さんは、物を食べることすら嫌がる状態だったから」
「里見さん、以前カラオケから帰るとき、晩御飯の準備があるって言ってましたよね。もしかして……」
「いつもじゃないよ。いつもじゃ、ね。お母さんがパートで忙しい時とか、トラウマを思い出して動けない時だけ」
里見さんが曖昧に笑う。その奥にあるものを想像して、僕の胸がチクリと痛んだ。
「家事だけじゃない。勉強も、お母さんが安心できるように手を抜かなかったし、普段の生活も、言葉遣いとか小さな所作なんかに気を配るようにした。もともと苦手な人付き合いだって、上手く自分を取り繕ってこなすようになった。そうして『できる私』を繰り返すうちに、お母さんが少しずつ元気になっていってね。ますます私は『できる私』を演じるようになっていった」
「…………」
「にしてもおかしいよね。お母さんのためにキャラ作りを始めたら、いつの間にか、お母さん以外の人目も気にしてキャラ作りをするようになっちゃったんだから。私が私でいられるのは、将棋に没頭してる時か、ナベくんと二人きりの時だけ」
「…………」
里見さんが人目を気にしているのは知っていた。けれど心のどこかで、それは彼女が外にいる時だけの限定的なものだと決めつけていた。家に帰れば里見さんはキャラ作りをしなくてよくなる。なら、少しでも彼女が楽になれるように、外にいる時は僕が彼女の支えになれれば。恥ずかしながら、そんな陶酔じみた考えを持ったこともあった。
違ったんだ。里見さんは、ずっとずっとキャラ作りをしていたんだ。
家でもキャラ作りをして。外でもキャラ作りをして。唯一の逃げ道だった将棋に没頭した結果、周囲の視線がより濃くなって。
『なん、で? グスッ。ご、ごめんなさい。ヒッグ。こんな。こんな、つもりじゃ。……うう、ううううう』
里見さんと初めて会ったあの日。彼女が僕に見せた涙は、ゴールのない迷路に迷い込んだ彼女の、これ以上ないほど悲痛な叫びだったんだ。
「里見さん……あの……」
何かを言おうとして、口をつぐむ。どんな言葉をかけたところで、それはちんけな慰めにしかならない。まるで意味がない。むしろ、自分に同情されていると思われて、彼女を傷つけてしまうだけ。
だが里見さんは、僕が黙ったのを別に意味に捉えたようだった。
「ナベくん、ごめんね。知りたいのは、私の昔の話じゃなかったよね。ナベくん相手だと、やっぱり変に気が緩んじゃうや。ダメだな、私」
「い、いや。そんなことは……」
なんで、そんな自虐みたいなことを。違う。いつもの里見さんは、こんなんじゃない。もっと明るくて。もっと素直で。もっともっと……。
「お父さんの話、しないとね。といっても、殴られたとか罵倒されたとかそういうのじゃないから安心して」
そんな前置きをする彼女の顔には、はっきりと影が差していた。




