第22話 家族の問題
声が、聞こえた。
低い、男性の声だった。
顔を向ける。噴水型のオブジェの向こう。群青色のワイシャツに高級感漂う漆黒のジャケットを身に着けた男性が、こちらに手を振っていた。年齢は五十歳前半くらい、いや、もっと若くも見える。
知らない人。一瞬、僕たち以外の誰かに向けて手を振っているのかとも思ったが、里見さんの名前を呼んでいたからそれはない。もしかして里見さんの知り合いだろうか。そう思って彼女の方を見る。
「……え?」
震えていた。
今まで見たことがないほど、その体が震えていた。
「里見、さん?」
呼びかける。けれど反応はない。視線は男性の方に固定されている。
僕が体を固まらせていると、里見さんがポツリと呟いた。
「なんで、お父さん、が……」
お父さん? ということは、あの人……。
「桂花、久しぶりだな。元気にしてたか?」
いつの間にか僕たちの傍に来ていた男性が、里見さんに向かって笑顔を浮かべる。
似ていた。
垂れ下がった目じり。
三日月を思わせる口元。
里見さんと同じ、貼り付けたような笑顔がそこにあった。
「……お父さん。お久しぶり、ですね」
絞り出すように里見さんが口を開く。痛々しいほど、声が震えていた。
「おいおい。せっかくの再会だっていうのにえらく他人行儀だな」
「…………」
「まあ仕方ないか。お前と会うのも五年ぶりだからな。それにしても、随分大きくなったじゃないか」
男性の視線が里見さんの全身を舐めまわす。口角がさらに上がる。
「どうして、ここに?」
「はは。離れていても、桂花の活躍はしっかり耳に入れてたよ。去年は全国準優勝だって? すごいじゃないか。父親として誇らしいな」
「……質問に、答えてください」
里見さんの言葉に、男性は「おっと、すまん」と言って頭を搔く。白いフケが、高級感漂うジャケットの肩に落ちる。
「本当は今日、家に直接行くつもりだったんだがな。まさかお前たちが引っ越してたとは思わなかったよ。で、どうしようかと思っていろいろ調べてたら、桂花が去年活躍した大会の予選が今日あることを知ってね。通ってる学校から会場までは電車を使うのが自然な距離だし、思い切ってここで桂花が戻ってくるのを待ってたんだよ」
ずっとここで? 里見さんが何時に帰ってくるかも分からないのに? 違う駅で降りるなんて可能性もあるかもしれないのに?
「直接大会の会場に行くっていうのも考えたんだがな。人が多いのは好きじゃないんだ。まあ、こうしてちゃんと会えたんだからよしとしてくれ」
違和感と不信感が止まらない。にじみ出る怪しさにむせ返りそうになる。男性の放つ得体のしれない雰囲気からどうにか里見さんを遠ざけたくて、僕は二人の間に割って入る。
「あ、あの……」
「ん? ああ、君は桂花の友達かい? いつもこの子が世話になってるね」
「ど、どうも。そ、それで、あなたは……」
「すまない、君。今は席を外してくれないか。家族同士で話がしたいんだ」
「う……」
言葉が詰まる。ゾクリと背筋に悪寒が走る。
男性の顔は笑っているのに、目が笑っていない。僕のことを邪魔者としか思っていない。嫌でもそれが理解できた。
自然と後退する僕の足。僕が退いたことに満足したのか、男性は再び里見さんの方へ向き直った。
「さ、桂花。家に帰ろう。ここで待ってるのも随分骨が折れた。家に着いたらまずはお茶が欲しいな」
「…………」
「桂花。お父さんも暇じゃない身でね。さっさとしてほしいんだが」
「……分かり、ました」
そう言って、里見さんが僕を見る。頬が引きつっていた。青ざめていた。無理に笑おうとしていた。キャラ作りはもう機能していない。ありのままの彼女が、表に出ようとしている。
「渡辺君、私はお父さんと帰りますので。話はまた今度ということで」
「えっと……」
「そういうことですので」
「でも……」
里見さんの腕を掴もうと手を伸ばす。だが、それは空を切った。距離が離れていたからじゃない。掴むことを僕自身が拒んだのだ。
「家族の問題に巻き込んじゃだめだ」
そんな、諦めたような呟きが聞こえたから。
「お父さん、行きましょうか」
「おお。ちなみにだが、新しい家は一軒家とかか?」
「いえ。前より小さい普通のアパートですよ」
去っていく二人の後ろ姿を、僕はただただ茫然と眺めていることしかできなかった。
♢♢♢
「ただいま……」
「おかえりなさーい」
僕がリビングに入ると同時、母さんのはつらつとした声が聞こえた。ソファーからではなく、キッチンから。どうやら晩御飯の準備をしているらしく、味噌のいい香りが漂ってきている。いつもならドラマタイムをしていてもおかしくない時間なのに、珍しいこともあるものだ。
「あんた、大会どうだったの?」
「えっと。一応優勝した」
「わお、おめでとう! じゃあ次は全国ね。あんたの将棋狂が加速しちゃうわー。困った、困った」
冗談めかして笑う母さん。言葉とは裏腹に、困っている様子はまるでない。僕の優勝を心から喜んでくれているのが分かって、少し背中が痒くなる。
「母さんのドラマ狂はずっと加速しっぱなしだよね」
照れ隠しの皮肉を残し、自室へと向かう。今は一人になりたかった。一人になって、いろいろなことを整理したかった。
「待ちなさい、香也」
けれどそんな僕を、母さんの低い声が制した。
「……母さん?」
「あんた、何かあったの?」
いつの間にか、母さんの顔から笑顔が消えていた。鋭い視線が僕を射抜く。そのあまりの迫力に、僕の足が半歩後ろに下がる。
「な、何かって?」
「ごまかしてもダメ。あんた、めちゃくちゃひどい顔してるわよ。何かあったとしか思えないんだけど」
キッチンから出て僕の前に立つ母さん。視線は先ほど以上に鋭い。まるで、心の奥底を覗こうとしているかのよう。僕は、何も言えずに顔を下に向けた。
分かっている。
自分が今、普通じゃないことくらい。
里見さんはどうなったのだろう。父親と何を話すのだろう。そもそも五年前に何があったのだろう。妄想が妄想を呼び、帰宅途中も幾度となく足を止め、情けないうめき声を上げた。
『家族の問題に巻き込んじゃだめだ』
彼女の呟きが脳内を巡っている。今もずっと。そうして何もできなかった自分を思い出し、胸に刃物を指されたような感覚に襲われる。
せめて、母さんの前では平然としていようと思ったのに。その場しのぎの僕のキャラ作りは、里見さんには遠く及ばないらしい。
「香也」
「…………」
「もしかしてさ。あんたの好きな人に何かあったわけ?」
その言葉に僕の肩が小さく跳ねる。いつもは雑に接するくせに、どうしてこういう時に限って鋭いのか。全く理解不能だが、母さんの予想は大正解だ。だからといって、素直に「その通りだ」なんて言えるわけもなく。
母さんからの視線と圧に耐えかねた僕は、ついつい曖昧な質問を口にしていた。
「ねえ、母さん。家族の問題って、他人がどこまで介入していいのかな?」
「……はい?」
目をパチクリと瞬かせる母さん。おそらく思ってもみない質問だったのだろう。だが、こちらの様子から何かを察してくれたのか、腕組みとともに首をひねり始めた。
「うーん。家族の問題に他人が介入、ねえ。それ、正直難しいと思うわよ。家族にしか分からない事情とかもあるでしょうし。何も知らない奴が口を出すな、みたいになるのもきついでしょ」
「だよね……」
返ってきたのは、僕が出したものと同じ結論。至極当然の、抗いようもない答え。
「そういう質問してくるってことは、つまりあれかしら? 好きな人の家族に問題でもあったの?」
「…………」
さすがにこれ以上は言えない。里見さんも、自分の事情を他の人にペラペラ話されるのは嫌だろうから。
口をつぐむ僕を見て、母さんは「ふむ」と声を漏らす。
「まあでもね。よっぽどの事態なら、無理矢理介入するのもありだと思う」
「……え?」
「あんたにも話したことなかったっけ? ドラマで見たんだけどさ。虐待されてるのがはっきりしてる子を、無理矢理親から引き剥がせるって法律があるんですって。それと同じよ」
言われて記憶をまさぐる。そういえば、母さんが昔、そんなことを自慢げに語っていた。軽く聞き流してはいたが、「ドラマって法律の勉強になったりするんだ」と少し感心したことだけは覚えている。
よっぽどの事態……か。
今の里見さんはどうだ? 僕が彼女の父親と会ったのはさっきが初めて。彼のことを僕は何も知らない。二人が会うのは五年ぶり。そのくらいの情報しか把握していない。
けれど……。
里見さんの体の震えは、引きつった表情は、諦めたような呟きは。
よっぽどの事態、なんじゃないのか?
「母さん、ありがとう。ぼんやりとだけど、やらなきゃいけないことが見えてきた気がする」
「そう。ま、頑張りなさいな。何かあったら力になるわよ。とにかく、今は休みなさい。ご飯できたら呼ぶから」
そう告げる母さんの顔には、不思議なほど優しい笑みが浮かんでいた。




