第20話 大切なこと
「やった! やった! ナベくんが勝った! あそこから入玉して勝つなんて! ナベくんすごい!」
「…………」
非常階段の踊り場。ほどかれた髪が乱れるのも気にせず、テンション高く飛び跳ねる一人の女子生徒。何を隠そう、去年の全国準優勝者、里見桂花さんである。あまりに興奮しているからか、階段上で僕が見ていることに全く気づいていない。
これは……見ないふりをした方がいいよね。
いかに僕相手といえど、見られたくないものもあるはずだ。里見さんの様子を脳内メモリーに保存した後、ゆっくりと踵を返し、歩き始める。
「わっ⁉」
瞬間、僕は足を絡ませ、その場に転びそうになった。たまった疲労のせいで、足の動きがぎこちなくなっていたのだろう。すんでのところで手すりを持ち、どうにか転ぶのは回避。
けれど……。
「ふえ⁉ な、ナベくん⁉」
「……ど、どうも」
二人の視線が、交差した。
「え、と。い、いつからそこに?」
「さ、さっき来たところで」
「そ、そうなの? じゃあ……」
「だ、大丈夫です。僕、何も見てませんから。はい」
「見てる人の反応だよ、それ!」
しまった。余計なこと言っちゃった。
「うう、うううぅぅうううう」
古びた蛍光灯で照らされた非常階段の踊り場。そこに響く里見さんの唸り声。顔を両手で覆っているから、若干声もこもり気味。まるでホラー映画の世界に紛れ込んだみたいだ。
「さ、里見さん。お、落ち着いて」
転ばないよう慎重に階段を降り、里見さんの前へ。髪の隙間から見える耳が、トマトのように真っ赤に染まっている。
「は、恥ずかしいよお」
「え、えっと。ぼ、僕は嬉しかったですよ。里見さんが喜んでくれて。あんな、飛び跳ねるくらいに」
「お、思い出さないで! ううう。私、ナベくんにまた恥ずかしいところ見られちゃった。もうお嫁にいけない」
「いや、さすがに大げさですって」
「これはもう、ナベくんに責任を取ってもらうしか……ううぅううううう」
「…………」
なに⁉ なんなの⁉ 恥ずかしがってるふりして、僕のことからかってるの⁉ どうせ違うんだろうけど!
好きな人から「責任を取れ」なんて言われてしまった健全な男子高校生の気持ちを想像してほしい。もう心臓がヤバい。爆発十秒前って感じ。
一旦、無言で深呼吸を繰り返す。心臓の鼓動を落ち着ける。その後、自分の頬をムニュムニュとマッサージ。表情筋を柔らかくする。
よし、OK。たぶん。
どうにか準備は完了? いつの間にか、里見さんの唸り声もなくなっている。どうやら恥ずかしさに折り合いをつけてくれ「ぅぅぅ」あ、まだ唸ってた。まあいっか。
「あの。僕の方、少しだけ見てもらってもいいですか?」
「……ん」
何かを察したのか、顔を覆っていた里見さんの手が下ろされた。潤んだ瞳が僕へと向けられる。恥ずかしさの名残か、頬にはほんのりと朱が残っている。
僕は、もう一度大きく深呼吸。そして、右手をゆっくりと前へ。
「里見さん! 僕、勝ちました!」
踊り場に響く僕の声。マッサージなんて必要なかった。僕の口元は、自分でもはっきり分かるほどだらしなく緩んでいた。
つられるように、里見さんが頬をほころばせる。差し出された僕の手を、両手で優しく包み込む。
「おめでとう、ナベくん。すっごいすごかった。本当に、すごかった」
「里見さん、『すごい』が大渋滞してますよ」
「細かいことは気にしないの。けどこれで、ナベくんが心配してたこと、ぜーんぶ無駄になっちゃったね」
彼女の言葉に、笑顔に、ぬくもりに、僕は完全にとらわれていた。地球が滅びるまでこうしていたい。そんな、後で悶絶すること確定の恥ずかしい願望を抱いてしまうほどに。
「里見さんのおかげです」
「ん? 私の?」
「だって、僕が頑張れたのは、対局前にパワーをもらえたからですし。それにあの終盤、入玉に気がつけたのって、里見さんの応援が見えたからなんですよ」
あの時、もし彼女の姿がなかったら。僕は今頃、将棋盤の上でこうべを垂れていただろう。
「そっか。じゃあ、髪ほどいたかいがあったってわけだ。よかった」
「えっと。大丈夫でした? 人の目とか」
「ナベくん、心配しすぎ。それに、髪ほどいてたら人前に立てなくなるとかじゃないんだから。キャラ作りのスイッチが切れて情緒不安定になるだけで」
「それはそれで怖いんですが」
人前でずっとキャラ作りをしてきた彼女。周囲から期待の眼差しを向けられているから。人付き合いを円滑にしたいから。僕が知っている理由はこの二つくらいで、キャラ作りを始めるきっかけについては聞いたことがない。よっぽどのことでもない限り、核心に踏み込もうとは思わないけど。
「……ナベくん? なんか難しい顔してるけどどうかした?」
「え? ああ、いや、何でもないですよ」
いけない。こんな時に考えることじゃなかった。笑顔を見せるって約束だったんだから。
左手で眉間を撫で、皴を伸ばす。再び口元を緩めてみるが、今度は頬がピクピクと痙攣するのが分かった。きっと、僕の顔に浮かんでいるのは、さっきまでとは違う歪な笑顔だ。
「もしかして、何か心配事?」
「そ、そうですね。あの……つ、次は全国ですし。もっと厳しい将棋ばかりになるんだろうなと」
「あはは、確かに。全国は強豪たちの集まりだからね。けど、心配いらないよ。時間はまだあるし、私がみっっっちり特訓してあげるから」
「お、お手柔らかにお願いします」
なんか、『みっちり』の部分、やけに強調されてなかった? 大丈夫かな? 詰将棋百問解くまで帰れませんとかにならないよね?
喝とばかりに、里見さんが僕の手を強く握る。負けじと僕も彼女の手を握り返す。その子供じみたやりとりがどうにもおかしくて、僕たちは互いに笑い合う。
「改めて。おめでとう、ナベくん」
「ありがとうございます、里見さん」
この大会、チャンスはいくらでもあった。一回戦、二回戦、三回戦、そして四回戦。すべての対局で勝てるチャンスはあったはずなのに、僕はそれを逃し続けた。苦しくて苦しくて、嫌なシナリオが現実味を帯びてきて。最終戦、決勝の一局。紙一重でチャンスをつかみ、僕は念願の勝利をもぎ取った。
僕個人の成績は一勝四敗。決して満足のいく結果ではないのかもしれない。けれど、今は。今だけは。わずかなチャンスをつかんだ自分を褒めようと思う。
おめでとう、僕!
…………
…………
……あれ?
なんだろう。
何か、大切なことを忘れているような。
「そういえば、この後に表彰式があると思うんだけど。ナベくん、何時からやるか聞いてない?」
「あ……何時からだろ」
里見さんを探しに来てからそれほど時間はたっていないはず。でも、決勝終了後にすぐ表彰式なんて予定だったら。一人残っている西山先輩がオロオロする羽目に。
「渡辺君、とりあえず急いで戻りましょう」
「わ、分かりました。というか、いつの間に髪結んだんですか?」
里見さん、さっきまで僕の手握ってたよね? 両手、ふさがってたよね?
「それは気にする必要ありません。さ、早く行きますよ」
「いやいや、気になるんですけど!」
階段を上っていく里見さんを追いかける。不意に頭をよぎった『大切なこと』が霧散していく。
まあ、思い出さないってことは、そんなに大切な内容でもなかったのかな? うん。そうに違いない。
♢♢♢
『ただいまより、全国高等学校将棋選手権大会地方予選、表彰式を開始します』
表彰式にはどうにか間に合った。僕、里見さん、西山先輩。皆、晴れやかな表情とともに出番を待つ。
『まずは団体戦の表彰です。私立千駄第一高等学校の三名は前へお進みください』
アナウンスに合わせ、僕たちは会場前方へ。柔和な笑みを浮かべた男性が、表彰状を持って僕たちを待っていた。
「表彰状。私立千駄第一高等学校殿。貴校は――」
マイクを通し、会場内に男性の声が響く。背後から感じる大勢の視線。自分が、全国進出の切符を手に入れた。その事実を改めて実感し、胸が震える。
活躍なんてまるでできてないけど。僕のあの一勝がなかったら、全国にはいけなかった。それだけで、最高にいい成績だったと……………………ん?
いい、成績?
この瞬間、僕は思い出した。
忘れていた、『大切なこと』を。
僕、この大会でいい成績残して、里見さんに告白するんじゃなかったっけ?
「三人とも、優勝おめでとう。全国でもしっかりと、その力を発揮してください」
目の前にいる男性の声が、どこか遠くに聞こえる。頭の中で、数分前の光景がフラッシュバックする。
さっき、二人きりだったよね?
お互い笑い合って、雰囲気もよかったよね?
もしかして、僕……。
最高の告白チャンス、逃した?




