第19話 もう、やるしかない
自分の目が大きく見開かれるのが分かった。
なんで? 人がこんなにいるのに。見られるのが分かっているのに。なんで、里見さんは……。
不意に、彼女と目が合う。無防備な笑みが、彼女の顔に浮かぶ。
『ナベくん、頑張って』
そんな声が、聞こえた気がした。
……なにを弱気になってるんだ。対局はまだ終わってない。圧倒的な敗勢の局面。でも、相手がミスする可能性だってある。投了するには、まだ早い。
顔を戻す。上半身を起こし、盤の隅々に視線を巡らせる。
思い出せ。僕は今まで何を勉強してきた? どれだけの局面を見てきた? 絶対、その中に逆転の答えがある。
『この終盤の局面もそうだね。どっちが先に相手を詰ませることができるかっていう時にも、駒得より攻めを考えた方がいいよ』
里見さんの言葉が脳裏をよぎる。
そうだ。今は終盤。攻めを考えるとき。けど、僕の攻めはどう考えても相手より遅い。同じ土俵にすら立てていない。じゃあ、攻めじゃなくて守りを……いや、だめだ。どのみちジリ貧には変わらない。
そういえば、あの後。
『まあ、終盤だけどあえて攻めを捨てて駒を取っていくことが重要な局面もあったりはするけどね』
終盤にそんな局面があるのか? 単なる駒の補充? けど、そんなことしてたら結局攻めが遅れて……。
…………あ。
気づいた。気づいてしまった。その、あまりにも無茶な展開に。けれどもし、それが実現できたなら。
ピッ。
チェスクロックが再度小さな音を鳴らす。いつの間にか持ち時間はゼロ。これからは、一手三十秒の将棋。
もう、やるしかない。
ずっと動かせなかった手が動いた。力強く、駒を打ち下ろす。
「はあ」
誰かが溜息を吐くのが聞こえた。同時に、周囲にいた何人かが対局の観戦をやめ、テーブルから離れていく。勝負は決した。そう告げるかのように。
王様を狙っていた角を移動させ、全く別の筋にいる銀を取る。
攻めるのでもない。守るのでもない。盤上で何もしていない相手の駒を入手するだけ。角が敵陣に入ったことで馬へと進化したが、相手の王様からは離れてしまった。負けを受け入れた者が息も絶え絶えに抵抗するような、バカバカしい一手。
顔を上げる。対戦相手が首をかしげている。周りいる人たちも首をかしげている。唯一、里美さんだけが頷いていた。
そう。僕たち以外気づいていないのだ。僕は、無価値だった銀が欲しかったんじゃない。
価値を与えられる予定だった銀を、盤上から排除したかったのだ。
そこから数手後。かすかな笑みとともに、相手は悠々と僕に王手をかける。
斜め前に王様を移動させ、逃れる。
再度王手がかかる。
再度前へと逃れる。
一度攻め駒を補充しておこうと思ったのか、相手は離れた所にいる僕の駒を捕獲する。
その隙に、僕は王様をさらに前へ。
「…………!」
瞬間、目の前の顔から笑みが消えた。どうやらこちらの狙いに気がついたようだ。だがもう遅い。
敵陣へ向かっていく僕の王様。狙われるべき対象が自らやってくる。本来ならば、これほどバカな話はない。けれど、今は違う。陣地の右端。先ほど相手の銀がいたところに、今は僕の馬がいる。元々強い駒である角が進化した姿。当然弱いわけはなく、敵陣の一部を完全に支配している。
向かってくる王様を捕えようと、相手は自陣近くに駒を配置。しかし、馬の影響力が大きすぎて、決定打にはなっていない。その隙をつき、僕は駒台から飛車を掴み取り、盤上に打ち込む。馬と飛車。王様の周囲に、強固なバリアが完成する。
「うわ」
誰かが声を漏らすのが聞こえた。
僕の狙い。敗勢を勝勢に変える、ただ一つの道。
「……入玉」
また誰かの声が聞こえた。
♢♢♢
将棋では、王様が敵陣に入り込む『入玉』というものがある。基本的には成立しない。理由は簡単。敵陣には敵がいるからだ。その対局でどんなに無価値だったとしても、一マスも動かされてなかろうとも、敵は敵。捕らえるべき王様がのこのこやってきたのなら、途端にそれは価値を持ち、他の駒と結託して王様を追い込む。
けれどもし、王様を狙える駒がほとんどない箇所があったなら? もし、やってくる王様の周りに強固な盾ができていたら? とたんに『入玉』は現実味を帯びてくる。
将棋の駒の多くは、前進することに特化している。後退できる駒もいるが、斜め後ろには下がれない、後ろに真っすぐ下がれない等の制限付きだ。一度潜り込まれれば、自身の背後にある王様を捕えるのは至難の業。加えて、王様と同時にやってくる僕の駒たちは、進化の可能性を秘めている。先ほど、角が敵陣に入って馬になったように。進化した駒は移動範囲が広がる。それがまた、王様を守る強固な盾となる。
…………パチリ。
パチリ。
……………………パチリ。
パチリ。
相手の思考時間が増えていく。敵陣に潜り込む僕の王様。それと同時に駒台にある駒を再配置。強固な盾を形作る。
王様を捕まえるのは困難と判断したのだろう。相手は、僕同様に自身の王様を前進させていく。目には目を、歯には歯を、入玉には入玉を。だが、それを許すわけにはいかない。強固な盾として機能していた駒たちを、今度は強固な鉾として攻めに活用していく。入玉の要となった馬を自陣へ引き付け、相手の王様の退路を塞ぐ。
パチリ。
混沌とした局面。僕はついに、王将を追い詰める一手を放った。
「…………」
相手の指し手が止まる。ただ盤上を見つめている。チェスクロックが、「ピッ、ピッ、ピッ」と時間切れ間際の警告音を奏でる。
そしてついに――
「……負けました」
眼前で、相手が頭を下げるのが見えた。
周囲から聞こえる拍手と歓声。だが僕は、勝負が決したことに気づかず、まだ頭の中で次の一手を考えていた。
「わ、渡辺ちゃん、お疲れ様~!」
ものすごい勢いで肩が揺さぶられる。その振動が、僕を現実に引き戻した。考えていた次の一手は霧散し、すぐ横には笑顔の西山先輩が。
「西山、先輩?」
「すごい! すごいよ~! あそこから勝っちゃうなんて~!」
「えっと。僕、勝ったんですか?」
「な、何言ってるのさ~! そうに決まってるでしょ~!」
西山先輩が指差す先には将棋盤。つい先ほどまでかじりつくように見ていたはずなのに、なぜだか初めてそれを見せられたような錯覚に陥る。敵陣で悠々と自軍の駒たちに囲まれている僕の王様。王手がかかり、捕まえられる寸前となった相手の王様。はっきりと勝敗のついた局面がそこにはあった。
そっか。僕、勝ったんだ……。
椅子の背もたれに全体重を預ける。疲労が一気に全身をめぐる。遠くの方で、僕の対戦相手が仲間に慰められているのが見える。
「渡辺ちゃんのおかげで、私、初めて全国に行けるよ~! ほんっとうにありがと~!」
感極まった様子で目元を拭う西山先輩。
全国? ああ、そういえばこれって決勝だったっけ。よかった。里見さんもこれで……。
はっと気がつく。
「西山先輩。里見さんはどこにいるんですか?」
彼女が、いなかった。
「え~? あ、あれ~? ついさっきまでいたはずなんだけど~?」
周囲を見渡す僕たち。どこにも彼女の姿はない。もしかして、外にでも行っているのだろうか。だとすれば、どこに?
…………もしかして。
「僕、探してきます」
「え? い、いいよ、いいよ~。あんな対局してたんだから疲れてるでしょ~。お手洗いかもしれないし、私が探してくるから~」
「いえ。僕が行ってきます」
確かに疲労はものすごい。正直このまま眠ってしまいたいくらい。けれど、西山先輩に行かせるのはダメだ。たぶん今の里見さんは、僕にしかその姿を見られたくないだろうから。




