第18話 いやだ
『それではただいまより、個人、団体の決勝戦を開始します』
会場に響くアナウンス。僕は閉じていた目を開き、視線を巡らせる。里見さん。西山先輩。そして、対戦相手の三人。皆、どこか緊張した面持ち。この場にいる全員が、決勝のプレッシャーと戦っている。
けれど、僕は一人で戦ってはいない。右手を握りしめる。里見さんからもらったパワーが、ここにある。そう思うだけで心が安らいだ。
勝つ。里見さんの前で、笑顔でいられるように。里見さんを、笑顔にできるように。絶対に、勝つ。
『それでは、決勝戦。対局を始めてください』
「「「よろしくお願いします」」」
重なる声。礼をする僕たち。押されるチェスクロックのボタン。
全国への切符をかけた最後の対局が、幕を開けた。
♢♢♢
一手一手、慎重に、かつ素早く駒を動かす。相手が何をしようとして、自分はどう応じるべきか。全神経を集中させて考える。時折、チェスクロックに表示された時間も確認。勝つためにやるべきことを、ただひたすらにやり進める。
僕の戦型は相変わらずの『四間飛車』。相手の戦型は『三間飛車』。お互いに飛車を定位置とは異なる筋にずらして戦う、いわゆる『相振り飛車』だ。一定の定跡がないわけではない。『相振り飛車』を解説している書籍や動画も数多く出回っている。けれど、実際はかなり自由度が高い戦型であり、人によって指し方や考え方が大きく異なる。要するに、個々人の実力差がものをいうのだ。
中盤。お互いの飛車が、王様の頭上を狙う。局面の形成はほぼ互角。陣形の整備、盤上の歩の交換。攻め駒の進行。小さな小さなポイントを積み重ね、未来にある大きな開戦を待つ。
パチリ。
パチリ。
……パチリ。
………………パチリ。
パチリ。
時には早く。時には間を開けて。不規則なリズムで駒音が鳴る。
続いていた膠着状態。だがそのうちに耐え切れなくなったのか、相手が開戦の火蓋を切る一手を放ってきた。攻めの要である角。お互いのそれを交換しようと迫ってきたのだ。
将棋では、取った相手の駒を自分の駒として盤上に再配置できる。もちろん一定のルールはあるが、基本的に配置場所は自由。だからこそ、角のような強い駒をお互いに持ち合うことは、今後の流れに大きな波を生む。求められる思考レベルも、これまで以上に跳ね上がる。
「ふう」
気持ちを落ち着けるため、わざとらしく息を吐く。上半身を椅子の背もたれに預け、盤面を広く見る。
どうしよう。わざわざこの手を指してきたってことは、何か狙いがあるはず。ここは一旦、交換を拒否するために角道を止めて……いや、ダメだ。そんなことしたら、僕の角が自由に動けなくなるし、向こうの角が攻めに出しゃばってくる。評価値を正確に出すなんて僕にはできないけど、角道を止めるのは悪手な気がする。それなら……。
僕は少し時間を使った後、自分の角で相手の角を捕獲した。相手は別の駒で僕の角を取り返す。強い影響力を持った駒が、それぞれの駒台に鎮座する。
先ほどまでの膠着状態は一気に解消。攻めては受け、受け手は攻める。積み重ねてきた小さなポイントを頼りに、互いの王様に迫っていく。
そうして、どれくらい経った頃だろうか。
……きた!
ついに、待望のチャンスが訪れた。
駒台で鎮座する角を、盤上の中央に打ち込む。相手の王様を斜めから狙う一手。王手をかけたわけではないが、王様の頭上に迫る歩と桂馬が、角との共闘を今か今かと待っている。幸いにして、相手の陣形は『美濃囲い』という斜めからの攻めに弱い形。この角打ちは相当嫌なはずだ。もちろん、攻めを防ぐ手はいくつかある。だがそうなれば、王様とは反対の筋にある相手の銀を角で捕獲するのみ。単純な駒得。それはそれで価値がある。
いける。この流れなら押し切れる。
テーブルの下で右手を握りしめる。里見さんからもらったパワーを、余すことなく絞り出す。
「…………」
僕の角打ちを見て首をひねる相手。眉間に深いしわが刻まれる。僕が放った渾身の一手に困っているんだ。そう、僕は信じて疑わなかった。
しかし……。
パチリ。
ゆっくり、確かめるように指された手。それは、十数手前に相手が打ち込んだ飛車と、僕の王様を守っていた金とを交換する一手だった。
「……な」
思わず声が漏れる。一回戦と同じ恐怖がよみがえる。飛車と金の交換。普通に考えれば、飛車の方が駒としての価値は高い。けれど……。
将棋盤の上に覆いかぶさるようにして局面を見直す。金を失った守りの陣形は、僕の想像していたものよりずっと脆い。相手の駒台には、それを崩すだけの駒がそろってしまっている。対して相手の陣形はまだまだ強固。『美濃囲い』が斜めからの攻めに弱いとはいっても、攻略には時間がかかる。狙っていた銀を捕獲する手も、攻めの角が相手の王様から離れることになるから意味がない。
なんで⁉ なんでこの飛車捨てに気づかなかった⁉
呼吸が荒くなる。唇が渇き、額に汗が滲む。どれだけ後悔してももう遅い。考えれば考えるほど、こちらが劣勢。いや、敗勢といってもいいくらい。
震える手で駒を進め、飛車を確保。相手は特に考えるそぶりもなく、駒台で眠っていた角を、僕の王様の近くに打ち下ろす。止まらない攻めの始まり。その事実に、僕は心の中で頭をかきむしる。
瞬間、隣から声が聞こえた。
「負け、ました~」
…………え?
慌てて隣に顔を向ける。そこにいたのは、悔しそうに唇を噛む西山先輩の姿だった。盤上を覗き込むと、西山先輩の王様が敵の駒たちに完全包囲されている。誰が見ても分かる敗北。
そんな……西山先輩が……。
さらに奥へと視線を送る。どうやら、僕の知らないうちに里見さんの対局は終わっていたようだ。対戦相手の男子が、うなだれているのが見えた。距離があるから盤上は見えないが、おそらく里見さんの勝ちだろう。
ということは……僕が負けたら……。
それに気がつくと同時、肩に何かがのしかかる感覚。重い。ただひたすらに、重い。ぎこちない動きで僕は顔を戻す。いつの間にか、僕と対局相手の周りには大勢の人が集まっていた。皆、僕たちの対局に熱い視線を注いでいる。その光景が、さらに肩を重くする。
「…………」
手が動いてくれなかった。次に何を指せばいいのか、全く分からない。何を指しても、僕の敗勢は変わらない。考えていた最悪のシナリオがいまにも動き出そうとしている。
決めたのに。
勝って、里見さんの前で笑うって。
パワーも、たくさんもらったのに。
想像する。里見さんのゆがんだ顔を。彼女のこれまでが水の泡になる瞬間を。
負ける。
このままじゃ負ける。
いやだ。
いやだいやだいやだ。
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。
心の中で子供の様に泣き叫ぶ。時間だけが過ぎていく。チェスクロックが「ピッ」と小さな音を発する。残りの持ち時間は五分。それが切れても負けるわけじゃない。ただ、一手を三十秒で考えて指す必要がある。そんな短い時間でこの状況をひっくり返せる? 悲しいことに、答えはノーだ。
四分三十秒。
四分。
三分三十秒。
もう時間がない。何か手を指さなければ。なのに、相変わらず手は動かない。心に巣くう弱い自分が、負けの決まった盤面から顔をそらさせる。
その時。
…………あ。
顔をほころばせている対局相手の向こう。盤を覗き込む人たちの向こう。
髪をほどいた彼女が、立っていた。




