第17話 作戦会議です
「わ、渡辺ちゃん、大丈夫~?」
「……大丈夫、ですよ」
椅子に座ってうなだれる。体は鉛のように重く、顔を上げることができない。
二回戦は、里見さんと西山先輩の活躍で勝利。その後の三回戦、四回戦も同様。僕はここまで一勝もできていなかった。
先ほど終わった四回戦の対局を思い出す。有利だった。一手一手慎重に考え、最善の手を指し続けた。しかし、そこに襲い掛かったのは持ち時間の制限。序、中盤に時間を使いすぎた僕は、最も神経を使うべき終盤の局面で、残り時間の短さからミスを連発。結果、勝勢の局面を敗勢へとひっくり返してしまったのだ。
「明らかに大丈夫じゃないね~。渡辺ちゃん、元気出して~」
間延びした声援。そこに怒りの感情は微塵も読み取れない。きっと彼女は、僕の連敗を微塵も気にしていない。
けれど、僕はずっと顔をうつむかせていた。自分がどれだけ迷惑をかけているのか。自分がどれだけ足を引っ張っているのか。考えるだけで背筋が震える。この会場から、今すぐにでも逃げ出したくなる。
残りは決勝戦のみ。ここまでの四局、僕の努力が実を結ぶことはなかった。決勝はさらに過酷な戦いになるだろう。なら、足踏みしかしていない僕が勝つなんて無理じゃないか。
『決勝戦は、今から十五分後に行います。個人、団体の決勝戦進出者は、十四時には着席をお願いします』
アナウンスが会場に響く。十五分後、僕はちゃんと将棋を指せているだろうか。自暴自棄になってはいないだろうか。まるで自信はなかった。
「う~ん。これはどうすればいいかな~。渡辺ちゃん、ずっと落ち込んじゃってるよ~」
「……部長。少しだけ、渡辺君と外に出てもよろしいですか? 時間までにはちゃんと戻ってきますので」
「え? い、いいけど、何するの~?」
「作戦会議です」
そんな言葉が聞こえたと同時、僕の腕が掴まれ、斜めに引っ張られた。そこまで力は強くないが、抵抗する気力はない。勢いそのまま、僕は椅子から立たされる。
「さ、里見ちゃん、お手柔らかにね~。こう、雛鳥を扱うように~」
「部長は私のことを何だと思っているのですか? 渡辺君、行きましょう」
引きずられるようにして会場外へ。顔は上げられない。学生スカートの下から伸びた、細くて色白な彼女の足。それが、地面を力強く踏みしめている。
そうして連れて来られたのは、非常階段の踊り場だった。数時間前と同様、周囲に人の気配はない。遠くの方で、誰かが大きな笑い声をあげているのが聞こえてくる。
「里見……さん」
嫌だった。ただひたすらに自分が嫌だった。僕と一緒に団体戦に出たいと言ってくれた里見さん。けれど僕は、結局彼女の邪魔しかしていない。思い描いていた最悪のシナリオから、自らを引き剝がすことができない。
やっぱり、譲るべきではなかったんだ。多少無理をしてでも、全員が個人戦に出るようにするべきだったんだ。それなら少なくとも、里見さんに迷惑をかけることは――
「ナベくん」
…………え?
聞こえた声に、僕の心臓が大きく跳ねた。うつむかせていた顔を上げる。視界に里見さんをはっきり捉える。
「なん……で」
ずっと一つ結びをしていた彼女の髪が、ほどけていた。
「なんでって?」
「い、いや、だって。ここ、外ですよ。もし誰かに見られたら……」
「あー、うん。たぶん大丈夫だよ。去年もそうだったけど、ここってあんまり人が来ないし」
僕の心配をよそに、里見さんはクスクスと笑う。まるで、去年何度もこの場所に来ているかのような、勝手知ったる口ぶり。しかし、そんな彼女の態度を見てもなお、僕は気が気ではなかった。
向こうにエレベーターがあるおかげで、階段を利用する人がほとんどいないことはなんとなく分かる。実際、一回戦の後に僕がここを利用した時、誰ともすれ違うことはなかった。とはいえ、人が来る可能性はゼロじゃない。ここは部室やカラオケボックスのような個室とは違う。声も周囲に響く。休日までキャラ作りをしてしまう彼女にとって、この環境で素を見せることは危険以外の何物でもないはず。
それでも彼女は、髪をほどいた。
きっと、僕のために。
「さて、ナベくん」
「は、はい」
「手、出して」
「……え?」
どうして急に? もしかして、伊角先生みたいに何かくれるとか?
彼女の意図がつかめないまま、恐る恐る右手を前に差し出す。
「…………」
「?」
無言で僕の手を見つめる里見さん。頬にはほんのり朱が差し、口元はモゴモゴと動いている。何かを恥ずかしがっているようだけれど、その何かが分からない。
流れ続ける静寂。踊り場を漂う冷たい空気。僕は右手の行先を求め、握ったり開いたりを繰り返す。
そうしてどれくらい経った頃だろうか。
「えいっ!」
突然聞こえた可愛らしい声。同時に感じる、優しい温かさ。
「さ、里見さん⁉」
気がついた時、僕の右手は彼女の両手に包み込まれていた。
「は、はは。や、やっぱりちょっと恥ずかしいね、これ。キャラ作りしてない時なら、勢いでどうにかなるかなと思ってたけど。うん、無理。超照れる」
「え……あ……」
何してるんですか。そう聞こうとしたが、できなかった。言葉が出るよりも先に、心臓が飛び出してしまいそうだった。
「ナベくんの手、握るの初めてだね。けっこうゴツゴツしてる。男の子の手って感じ」
恥ずかしさをごまかすように里見さんが告げる。
手を握る力が弱くなったり強くなったり。普段は感じることのないその刺激が、僕の体温を急上昇させる。声にならない声が口から漏れる。
「どう? ナベくん」
「ど、どう、とは?」
「私のパワー、感じてくれてるかな?」
そんな突拍子もない質問に、僕はパチクリと目を瞬かせた。
「さっきまでのナベくん、すごくつらそうな顔してたから。こうして私のパワー分けてるの。あ、私のことなら心配ご無用だよ。ちょっとくらいパワーなくなっても大丈夫だから」
「え……と。あ、ありがとう、ございます」
「それに、こうしてると私も……いや、なんでもない」
何かを言いかけてやめる里見さん。心なしか、彼女の頬に差していた朱が濃くなったような気がした。
手を握ってパワーを分ける。なんて子供じみた行為だろう。けれどなぜか、言いようもないほど安心する。ずっとこうしていたい。そんな願望すら抱いてしまう。
「本当ならさ。部活の先輩として、負けを恐れずにとか、将棋を楽しんでとか言うのが正解なんだろうけど。キャラ作りしてない時の私はすごくわがままなの。だから――」
僕の手を強く強く握りしめ、彼女は続けて言葉を紡ぐ。
「ナベくん。勝って」
それは、あまりにもシンプルで。あまりにもまっすぐで。
そして、あまりにも心に響く願いだった。
「里見さん……」
「私への迷惑とか、チームへの負担とか、いろいろ考えてくれてるのは知ってる。けど私は、苦しんでるナベくんより笑ってるナベくんが好き。だから、勝って。わがままな私に、ナベくんの笑ってるところを見せて」
澄んだ瞳が僕を見つめる。痛いほどの力が伝わってくる。キャラ作りとか言葉を選ぶとか、そんな取り繕いは一切ない。ありのままの彼女が告げた、ありのままの願い。
無意識のうちに、僕は彼女の手を握り返していた。
「……僕、次の対局、絶対勝ちます」
「うん」
「勝って、笑顔で戻ってきます」
「うん」
「だから里見さん。その時は一緒に、喜んでくれますか?」
「うん!」
里見さんが顔をほころばせる。何度見ても慣れない、優しくて無防備な笑み。そのあまりの美しさに、僕は思わず息をのむ。ずっと隠している想いを、口走ってしまいそうになる。
ああ、本当に。
この人は、ずるい。
「さて、作戦会議終了。ナベくんもやる気になってくれたことだし。そろそろ戻ろっか」
そう言って、里見さんが両手を下ろす。握られていた右手に冷たい空気が触れる。
「……あ」
「ん? どうかした?」
「えっと……」
いいんだろうか。こんなこと言っても。絶対からかわれて……いや、別にいいじゃないか。からかわれるくらいどうってことない。それに、先にわがままを言ったのは里見さんだ。僕にだって、その権利くらいはあるはず。
「さ、里見さん」
「は、はい」
何事かと身構える彼女。その目の前に、僕は再度右手を差し出す、
「パワー、もう少しもらってもいいですか?」
「…………」
「…………」
「ふふ。いいよ」
どこか嬉しそうな表情とともに、里見さんが僕の右手を包み込んだ。




