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第16話 角砂糖十個分?

「負けました……」


 その言葉とともにゆっくり頭を下げる。歯を食いしばり、盤上を見つめる。


 あの後、特に大した逆転手も見いだせず、僕は敗北していた。守りを剥がされ、孤立した僕の王様。対して、相手の王様はまだ『穴熊(あなぐま)』の中。角(かく)と桂馬《けいま》の交換。あの悪手とも思える一手が、これほどまでに辛い状況を招くなんて思ってもみなかった。たぶん防ぐ手立てはいろいろあっただろう。あの攻めが決まってしまってからも、瞬間的に手にした得を生かす道が何かしらあっただろう。しかし今考えたところで、全ては後の祭りだ。


 将棋では、対局後に感想戦という行為をする慣習がある。どこが悪かったか、どこで形成に差がついたのかを相手と振り返るのだ。だが僕は、「失礼します」と言い残し、フラフラと席を立った。そして、先に対局を終えていた二人の元へ足を運ぶ。


「渡辺(わたなべ)ちゃん、お疲れ様~。結構難しい将棋してたね~」


「はは。面目ないです」


「でも心配しないで~。私と里見《さとみ》ちゃんが勝ったから、これで一回戦突破だよ~」


「……ありがとうございます」


 作り笑いとともにお礼を告げる。自分が負けて、二人が勝つ。思い描いていたシナリオ通り。けれど、感じる悔しさはシナリオ以上だ。


「あと四回勝てば全国~。ファイト~、ファイト~」


「渡辺君。気持ちを切り替えて次に臨みましょう。私はあなたの将棋を最後の方しか見ていませんが、敗勢にもかかわらずよい粘りができていたと思います。自信を持ってください」


「……はい」


 二人の励ましに胸が痛くなる。いっそのこと責められた方が楽だった。ふとそんなことを考えてしまった自分に嫌気がさし、僕はお手洗いに行くフリをして会場を出た。


 外の空気でも吸って頭を冷やそう。そう思いエレベーターへ向かったが、他校の生徒たちがその前でたむろしていた。どうにも気まずい。仕方なく、少し離れた所にあった非常階段で一階へと降りる。エレベーターを使う人がほとんどのせいか、誰ともすれ違うことはなかった。


「ん? おお、渡辺じゃないか」


「……伊角(いすみ)先生」


 一階のエントランスへ出ると同時。偶然にも、自販機の前で缶コーヒーを傾ける伊角先生と出くわした。


「どうだった? 大阪行きの切符は手に入ったか?」


「さすがにまだ早すぎますよ。とりあえず、一回戦は突破しましたけど」


 この人、もしかしてずっとここでいたのかな?


「渡辺よ。今お前、『引率してる顧問が試合を見てないのはどうなんだ』って思っただろ」


「あ、いや」


 なぜバレた。


「まあお前の言いたいことも分かる。実際、よくはないことだ。だが、俺にも事情というものがあってだな」


「事情?」


 何だろう。ひょっとして、やらなきゃいけない仕事が大量にあるとか? 実際、教員の仕事はとんでもなく多いって聞くし。本当はそっちに時間を割きたいけど、顧問として引率はしなきゃいけない。だから空き時間で少しでも仕事を片付けてた……みたいな?


 首をかしげる僕。伊角先生は、傍の自販機にお金を入れながらその事情とやらを教えてくれた。


「俺な、将棋見てるとめちゃくちゃ眠くなるんだよ。あと自慢じゃないが、俺はいびきがとんでもなくでかい。さすがにあの会場で、俺のいびき大合唱はシャレにならんよ。学校に報告されちまう」


「ちょっとでも心配した僕の気持ちを返してください」


 将棋部顧問としてその発言はいかがなものか。というかこの適当さ、うちの母さんとちょっと似てるな。


「はっはっは。ま、そういうことだ。俺は粉もん巡りのシュミレーションでもしながらお前らを応援してるよ。心の中で」


 笑いながら自販機のボタンを押す伊角先生。ガコンと大きな音が響く。取り出し口から出てきたのは、赤い缶が特徴的な某有名企業のコーラだった。


「ほれ、やるよ」


「いいんですか?」


「ああ。どうせお前、負けたんだろ。酷い顔してんぞ」


 思わず体が後ろにのけぞる。顔に出していたつもりはないのだが。


「ま、せいぜい頑張れ。俺は将棋のことはよく分からんが、考えるには糖分が必要だろ。コーラはいいぞー。その一缶に角砂糖十個分の糖分が含まれてる」


「飲む気がなくなるようなこと言わないでください」


 え? 角砂糖十個分? コーラって怖い……。


 ただ、せっかくもらったものだ。ここで飲まないのはなんか違う。不安とともにプルタブを開け、コーラを一気に喉へ流し込む。冷たさと気泡のはじける爽快さが脳を刺激する。


 そういえば、前にカラオケで里見さんがコーラ飲んでたっけ。


 彼女の笑顔を思い出す。僕は、無意識のうちにコーラ缶を強く握りしめていた。





♢♢♢





 二回戦。


 よし。ここまではいい感じ。


 次々と攻めの手を繰り出す僕。相手も負けじとそれに応戦。駒と駒がぶつかり、局面が激しく変化する。形成はほぼ互角、いや、僕の方が少しいいくらいのはず。


 指し手を止め、一旦間を置く。変に調子づこうとしていた自分を諫める。盤の横に置かれたチェスクロックに視線を移し、持ち時間を確認。


 まだ時間はたっぷりある。えっと。この後は……。


 どうして形成が有利だと思ったのか。それは、単に僕が上手く攻めているからではない。以前読んだ本に、似た局面があったからだ。もちろん、盤面全体を見れば多少の違いはある。けれど、今戦場となっている部分は、本で解説されていたものとほぼ同じ。


 頭の中で本のページをめくる。手順を何度も確認し、大きく頷く。盤上にある歩《ふ》を手に取り、一マス前進。相手の歩にぶつける。


 ここでの選択肢は二つ。僕の歩を取るか、それを無視して自陣の守りを固めるか。前者であれば、数手前に手に入れた歩を打ち込んで攻めを続ける。後者であれば、相手の歩をただで手に入れる。正直どちらが来ても構わない。確か本では、後者の展開が解説されていたはずだ。


 いける。この流れで一気に押し潰せる。


 そう確信していた……はずだった。


 パチリ。小さな駒音が響く。


 変化した局面に、僕は目を見開いた。


 飛車《ひしゃ》の頭に……歩?


 相手が指したのは、僕の予想していなかった一手。自身の手持ちにあった歩を、僕の飛車の前に置くという突拍子もないもの。


 これを放置していては、次に飛車が取られてしまう。かといって飛車を逃げるのでは、攻撃の要を失った僕の攻めは成立しなくなる。仕方なく僕は飛車を動かし、その歩を確保する。


 一マス浮き上がる飛車。次の瞬間、それを相手の角《かく》が狙ってくる。飛車をよけると、次は控えていた銀《ぎん》が前進。さらに飛車を狙ってくる。


 あれ? なんで?


 おかしい。僕はさっきまで攻めていたはずだった。それなのにどうして今、攻めの要だった飛車が逃げ回るような事態に? 本にはこんな展開、書かれてなかったはず。


 冷静に考えれば分かることだ。将棋は、『知る者』が有利なゲーム。定跡、打開策、局面の評価。知っていれば知っているほど、時々に応じた最適な手を選び、有利な進行を勝ち取れる。僕が知っている以上の手を、目の前に座る対戦相手が知っていた。ただそれだけ。しかし、この時の僕にそれを受け入れる余裕なんてものはなく。


 逃げ回った飛車が、ついに戦線から離脱。僕の攻めが完全に瓦解した。その隙を見て、今度は相手が攻めの手を放つ。飛車、角、銀、桂、歩。駒たちが、次々と襲い掛かってくる。僕は自軍の守りを固めるのに必死だった。どうにかカウンターを狙おうにも、攻撃の要が機能しないのでは意味がない。


 負けたくない。心の中で何度そう願おうとも、現実は変わらなかった。無情にも、離脱していた飛車に相手の手がかかる。捕獲された飛車が、今度は敵軍の一員となって僕に襲い掛かる。王様の囲いが、次々に剝がされていく。


「……負け、ました」


 悔しさをにじませる僕。その姿をあざ笑うかのように、相手が小さく口元を緩めた。


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