第2話 ……エッチ
「あ、西山先輩。お疲れ様です」
「いや~。やっぱり部室は落ち着くよ~」
ニコニコ顔で部屋に入ってきたのは、我が将棋部の部長、西山志歩。短く切りそろえられたブラウンヘアー。体格は小柄だが、制服越しでも分かる双丘が謎のアンバランスさを醸し出している。聞いた話だと、クラスでは妹のようなポジションになっているとのこと。本人はかなり不満そうだったけど。
「西山先輩、今日は遅かったですね」
「部長会議が思ったより長引いちゃってさ~。各部の目標なんて、わざわざあんな場で発表しなくても、紙に書いて提出すればいいだけなのにね~。渡辺ちゃんもそう思わない~?」
「はは。確かに」
相変わらず間延びした話し方をする人だ。なんだか小さい子を相手にしているようなポワポワした気持ちにさせられてしまう。この人、一応三年生なんだけどなあ。
「そういえば、二人は対局中だったのかな~。邪魔してごめんね~」
西山先輩が、僕の横にあるパイプ椅子に座りながらそう告げる。「大丈夫ですよ」と返答しようとしたその時。若干キーの高い声が、盤の向こう側から聞こえた。
「いえ、気にされないでください、部長。渡辺君との対局は、今ちょうど始まったところですので」
……相変わらず違和感がすごい。
見ると、微笑を顔に張り付けた里見さんがそこにいた。先ほどまでほどかれていた髪は一つ結びになっており、乱れた所は全く見当たらない。背筋も、天井から糸で吊るされているのかと勘違いするほど真っすぐだ。
というか、いつの間に髪結んだの? そんな素振りなかったはずなんだけど。
「お~。始まったところか~。それならよかった~」
「このまま見ているだけというのもつまらないでしょうから、二面指しでもしましょうか?」
背筋をムズムズさせている僕をよそに、里見さんは先輩に提案する。
二面指しとは、二つの将棋盤を用いて、一人が二人を相手にする練習方法だ。部で一番強いのが里見さんだから、この場合は里見さんVS僕・西山先輩という構図になる。
先輩は「そうしようか~」と言いながら、戸棚からもう一つの将棋セットを取り出した。
「里見ちゃんは強いからな~。お手柔らかに頼むよ~」
「部長も十分お強いじゃありませんか。この前の対局、部長の攻めに肝を冷やされましたよ」
「あはは~。嬉しいこと言ってくれるね~」
はにかみながら駒を並べる西山先輩。よどみなく流れる手つきは、彼女もまた実力者であることを感じさせる。パチリパチリと一定のリズムで駒を打ち下ろす姿に、僕は思わず見入ってしまった。
「……ほら、渡辺君。手が止まっていますよ。次はあなたの手番でしょう」
「え? あ、はい。すいません」
注意され、急いで顔を正面に戻す。
まずい。こっちはこっちで集中しないと。というか里見さん、今ちょっと睨んでなかった? 確かに対局を放置してたのはよくないことだけど、さすがに睨むほどのことじゃ……。まあいっか。
盤上の駒を急いで動かす。間を置かず、里見さんが手を返してくる。早い。こっちが何を指すか、すべてお見通しだと言われているかのようだ。少しの悔しさとともに、手を進める。
「じゃ、里見ちゃん。よろしくね~」
「はい。よろしくお願いします」
隣でも対局が始まったらしい。パチリパチリと、盤と駒のぶつかる音だけが鳴り響く。半開きの窓から聞こえる吹奏楽部の演奏音が、先ほどよりも小さく感じられる。
僕の対局が中盤の難しい場面に差し掛かった頃。不意に西山先輩が「あ」と声を漏らした。
何か間違った一手でも指したのかな? そう思って横を見る。けれど、どうやら僕の予想は外れたらしい。先輩の顔は傍から見ても分かるくらいににやけており、その手にはスマホが握られていた。
あ……察し。
「二人ともごめんね~。ちょっと電話がかかってきちゃったから失礼しちゃうよ~」
立ち上がり、部室から出ていく先輩。扉越しに、「やっほ~。りゅうちゃ~ん」なんて甘い声が聞こえてくる。
「彼氏さん、ですかね?」
「そうみたいだね。ああなったらしばらく帰ってこないよ」
僕の言葉に、砕けた口調で返してくる里見さん。一つ結びだった髪はいつの間にかほどかれている。いや、本当にいつの間に?
「里見さんって、どうして僕以外の人の前だと髪型変えるんですか? いちいち結んだりほどいたり、手間じゃありません?」
「んー。キャラ作りのスイッチみたいなものかなー。ほら。おしゃれすると性格が変わるってあるじゃん」
「そ、そんな人もいるんですね」
服やら髪型やら、おしゃれに疎い僕にはよく分からない。相変わらず世の中は不思議に満ちている。
「……ところで、ナベくん」
「は、はい。何でしょう?」
里見さんに睨まれ、思わず背筋をピンと伸ばす。あれ? 僕、何か悪いことしたっけ?
「さっき、部長のことジッと見てたけど、それはどうして?」
……え?
つい数分前の記憶を呼び起こす。そういえば、あの時も里見さんが睨んできていたっけ。
「いや、別に大した意味はないですよ。ただ単に、西山先輩の指し方が綺麗だなと思っただけで。ほら。僕って、二人に比べて将棋歴が浅いですし。実戦経験も少なくて、駒の持ち方とか若干ぎこちないところがありますから」
「……それだけ?」
「そ、それだけですけど」
「部長の胸に見とれてたとかじゃなく?」
「いや、そんなわけないでしょ」
突然降りかかってきた罪状を素早く否定する。なるほど。こうやって世の中の冤罪というのは生まれるわけか。勉強になった。
「本当に?」
「本当です。第一、同じ部の先輩によこしまな視線を向けるなんて、そんな失礼なことするはずないでしょ」
「じゃあ二日前、『今日も疲れた~』って言いながら体伸ばしてた部長のことジッと見てたのは?」
「…………」
いや、あれはね。おっきいな、くらいの感想を抱いただけでね。別によこしまな思いがあったとかじゃなく。
「……エッチ」
「うぐっ!」
胸が痛い。これがゴミを見る視線ってやつか。
「さ、里見さん! 対局! 対局再開といきましょう! えっと。次は僕の手番ですよね⁉ うーん。難しい局面だなあ」
「露骨に話題そらしてる……まあいいけど」
大きなため息を吐き、盤を見つめる里見さん。窓から入ってきた微風が、彼女の黒髪を小さく揺らす。
「……Bカップじゃダメなのかなあ?」
「里見さん? 今何か言いました?」
「いや、別に」
里見さんの頬がちょっぴり膨らんでいるのが気になるが、とりあえず今は対局に集中しよう。
難しい局面。攻めたいところだけれど、無理に攻めるとせっかくのいい形が瓦解する。となれば、ここは一旦王様の守りを強固にしておいた方が得策か。
守りの陣形の一つである『高美濃囲い』。それを、より強固な『銀冠』という陣形へと組み直していく。だが数手後。一瞬の隙を突き、里見さんが攻めの一手を放ってきた。
「……あ」
「うーん。『銀冠』にするのはいいと思うけど、攻めが確実にさばける場面じゃないと悪手になっちゃうよ。ほら、この局面。君が銀を移動させたせいで、さっきまであった駒の連結が弱くなってるでしょ」
「ですね。これは、もう……」
「いったん投了して仕切りなおす?」
「……いえ。まだ挽回できるかもしれないので」
「そっか」
かじりつくように盤を見つめ、起死回生の一手を探す。その思考を遮るかのように、突然ガチャリと背後で音がした。
「部長様の帰還パート2だよ~。あれ? 里見ちゃんが笑ってる~。もしかして、何かいいことでもあったの~?」
「おかえりなさい、部長。私、そんなに笑っていましたか? あまり自覚はありませんが」
結ばれた髪を揺らしながら、里見さんが返答する。彼女の頬は、ほんのり赤みを帯びているように見えた。




