第99話 特異技能運用支援室、始動する
8月末の午前中、ダンジョン管理部の執務区画の端に、白い表札が掛けられていた。
表札に記されているのは、特異技能運用支援室という9文字だ。
篠塚美冬は床に残った段ボール箱から最後のファイルを取り出し、壁際の資料棚へ入れた。
そして扉を閉めて鍵を回し、自分の机へ戻る。
室内にある三台の机は、色も形もそろっていない。
管理部内で使われていなかった机と椅子を集め、四人掛けの会議用テーブルと複合機を置いたところで、部屋の空きはなくなっていた。
「日下部課長、移管分はこれで全部です」
「課長ではなく室長だ。俺も呼ばれてから振り向くまでに時間がかかるが」
「失礼しました。日下部室長」
篠塚が言い直すと、隣の机で職員証を確認していた甲斐谷修平が顔を上げた。
「私は法規安全審査主任です。篠塚さんは現場調整係長。日下部さんだけ、部長補佐と室長の二つが付くんですね」
「長官へ直接報告を上げる案件があるからだろう。肩書の数だけ決裁も増えた」
三人の人事発令日は8月1日だった。
日下部はダンジョン管理部長補佐兼特異技能運用支援室長。
篠塚は現場調整主任から現場調整係長へ、甲斐谷は法規・安全審査担当から法規安全審査主任へ昇進した。
発令後も三人は管理課の席を使い、通常案件を後任と各担当者へ引き継いできた。
その作業が前日に終わり、今日から三人とも新しい部屋で勤務する。
甲斐谷は職員証を首から下げ直し、施錠された資料棚を見た。
「この室で扱うのは、朝倉さんの【休憩地】だけですか」
日下部は鍵を受け取って棚を開け、一段目のファイルを取り出した。
背表紙には、第一号案件・朝倉歩と印字されている。
二段目より下には、まだ一冊も入っていない。
「今はこれだけだ。だが、朝倉君一人のためだけに作った部署ではない」
日下部はファイルを会議用テーブルへ置いた。
「既存の分類に入らない技能保持者が確認された場合、行政手続き、安全確認、関係部署との連絡をここへ集める。能力をどこで、何に使うかは本人が決める。我々は、その決定に必要な手続きと外部調整を引き受ける……予定だ」
篠塚は自分の業務用ノートパソコンを持って会議用テーブルへ移り、朝倉案件の確認記録を開いた。
庁舎駐車場での施設展開、安全地帯の入域試験、宿泊施設内部の確認、スキルが供給する水の試飲、食事の試食、総合試験場での鑑定が日付順に並ぶ。
「湖畔休憩地では、現在まで利用者の負傷や食中毒は報告されていません。主要通路、転移門、都市管理設備への干渉もありません。この辺りは前に確認した時と、何ら変わりありませんね」
篠塚が確認済みの欄を読み上げる間に、甲斐谷は未確認の欄を開いた。
安全地帯には、展開維持条件が失われた場合の処理がある。
しかし、朝倉が操作できなくなった時に何が起きるのかまでは、ガイドアシストから説明を受けていなかった。
「朝倉君が操作できなくなった場合の挙動は、未確認欄へ記録してくれ」
日下部が甲斐谷へ言い、篠塚へ向き直る。
「追加試験が必要になっても、営業日に職員を送り込むのはやめよう。先に項目と所要時間を伝え、朝倉君と日程を決める」
「確認項目と必要時間を先に送ります」
篠塚が確認記録を閉じた時、日下部の業務用パソコンに庁内文書の回付通知が出た。
件名は、『未知技能を利用したダンジョン内宿泊施設に対する安全審査制度の整備について』。
ダンジョン内で都市、宿泊施設、給排水設備を運営する事業者の業界団体から、ダンジョン庁長官宛てに提出された要望書だった。
「始まったばかりの室へ、ちょうど該当する文書が来ましたね」
篠塚が自分の業務用ノートパソコンにも回付された文書を開く。
「甲斐谷君。三部出してくれ」
甲斐谷が複合機を操作すると、要望書と添付資料が順に排出された。三人は一部ずつ持ち、会議用テーブルを囲む。
要望書は、未知技能によって設置され、不特定多数が利用する宿泊施設について、国が統一した安全審査制度を作るよう求めていた。
審査項目には、技能保持者が意識を失った場合の建物と安全地帯の維持、建物が消失した場合の避難、給排水、食品衛生、入域拒否、利用者の強制退去、緊急時の行政立ち入りが並んでいる。
日下部が次のページをめくった。
審査が完了していない技能施設について、国が営業日数、宿泊人数、設備使用を暫定的に制限できる制度の新設も求めている。
「現在の法律に、この暫定制限を命じる条文はありません」
「制度を新設し、審査前から営業している施設にも適用するよう求めています」
日下部は要望書を横へ置き、添付資料を開いた。
最初の写真には、屋根と机だけだった頃の湖畔休憩地が写っている。
次のページには水場とシャワー、その次には三階建ての宿泊施設が並ぶ。
正式オープンの行列、野外休憩所、売店、湖畔バーベキュー、湖畔スイートポテトまで、すべて同じ施設の写真だった。
料金比較表には、ダンジョン都市の温食、共同シャワー、二人部屋と、湖畔休憩地のAセット、シャワー、二人部屋の料金が記載されている。
別紙には、魔物が光の境界で止められる動画と、宿泊施設が一度に出現する動画の画像も添えられていた。
篠塚は資料一覧へ戻り、事例欄を上から読み直した。
「制度の対象は全国の未知技能施設となっていますが、事例は湖畔休憩地しかありません」
「安全制度の要望と、この施設の営業を審査前に制限する要望が一つの文書に入っています」
日下部は業務用パソコンで提出経路を開いた。
提出者は業界団体だが、添付資料の作成協力者欄には、東京湾岸地下都市開発株式会社と記載されている。
「都市運営会社が資料をそろえ、業界団体が提出した。それ以上の経緯は、この文書だけでは分からない……が」
日下部は作成協力者欄を二人へ見せた。
「懸念通り、やはり狙われたな。湖畔休憩地は」
甲斐谷は未確認項目のページを閉じ、要望書の下へ戻した。
「瀬尾長官が、この室を急いで作った理由が分かりました」
日下部も、長官室へ呼ばれた夜を思い出していた。
朝倉の能力が成長すれば、既存の都市や企業とぶつかる。
瀬尾は、その衝突を朝倉一人に背負わせないため、三人を専任窓口に指名した。
「湖畔休憩地が大きくなれば、今ある都市や企業と衝突する。長官は、そこまで見越していたんだろう」
篠塚は料金比較表を要望書の上へ重ねた。
「都市の食堂や宿泊施設で事故が増えたわけではありません。湖畔休憩地と比べられ、料金を説明できなくなった。それで今度は、湖畔休憩地の営業を止められる制度を求めているんですね」
「作成協力者欄と添付資料を見る限り、対象は最初から朝倉さんです」
甲斐谷が開いた事故報告の欄は空白だった。
「安全確認が目的なら、事故記録や類似施設の資料が先に並ぶはずです。この要望書は、湖畔休憩地の写真と都市との料金比較ばかりです」
日下部の手元には、背表紙に「第一号案件・朝倉歩」と印字されたファイルがある。
組織通達には、特異技能保持者の行政手続きと外部調整を支援すると記されている。
そこに、朝倉を守るという文言はない。
だが瀬尾は我々三人に、朝倉が自分で決めた【休憩地】の使い方を、外部企業の都合で奪わせない役目も預けていた。
「なら、この室で湖畔休憩地を守る」
日下部は二人へ言った。
「安全確認は確かに必要だ。だが、都市運営会社へ言われて朝倉君を調べる形にはしない。こちらから事情を説明し、営業を止めずに確認できる日を朝倉君と決める手はずを整えてくれ」
「定休日か閉店後なら、利用者とスタッフへの影響を抑えられます」
篠塚が朝倉案件の連絡履歴を開いた。
「朝倉さんには、要望書も見せますか」
「見せたほうがいいだろう。仮に要望書の存在を伏せて追加確認だけ求めたら、向こうは余計に不審がるだろうし」
甲斐谷は真壁の鑑定記録が入ったファイルを施錠資料棚へ戻した。
「鑑定内容は、これまでどおり外部へ出しません。よろしいですか?」
「ああ。そもそも、真壁さんの鑑定内容は極秘扱いだ。今回の回答で外部へ共有する必要もない。スキル情報は個人情報として扱う。外部へ提供するには、本人の同意か、それに代わる法的根拠が要るし、提供先と利用目的も明示しなければならない。この要望書には、そのどれもない」
日下部は要望書を閉じた。
「まずは朝倉君へ連絡し、この室の方針を直接説明するのが先だ。二人で訪ねて、我々は湖畔休憩地を止めるために動くのではないと、きちんと伝えてくれ。要望書に書かれた懸念を一つずつ解消できれば、営業制限を持ち出して大ごとにする理由もなくなる。営業を続けるために何をすればよいか、朝倉君と話し合ってもらいたい」
篠塚はすぐに朝倉へ連絡すると答え、甲斐谷も同行を引き受けた。
日下部は業務用パソコンに、瀬尾長官とダンジョン管理部長の連絡先を表示した。
「その間に、俺は長官と部長へ話を通しておく」
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