第65話 ダンジョン庁の実地調査(後編)
甲斐谷が何の抵抗もなく境界を越えたのを見て、篠塚と日下部もそのあとに続いた。
三人は境界を越えてから一度振り返り、同じ場所を戻れることまで確かめることを忘れない。
そしてそのまま進み、宿泊施設の両開きの扉を開けると、正面に受付カウンターとロビーが見える。
駐車場のアスファルトから、いきなり白い壁と木目調の床へ変わった。
「これは……ビジネスホテルか?」
日下部がロビーを見回した。
「そうとしか見えませんね」
篠塚は天井の照明、受付カウンター、奥へ続く廊下を順に撮影していく。
甲斐谷は入口の床へしゃがみ込み、外のアスファルトとの境目を確かめた。
「基礎工事もなしに、どうやって床を固定しているんです?」
「すみません。それも私には分かりません」
俺は一階の受付カウンターを見せたあと、三人を売店から食堂へ案内した。
最後に厨房の設備も確認してもらう。
そのあと二階へ上がり、二人部屋と大部屋、客室内のユニットバスも見てもらう。
篠塚は客室の蛇口をひねり、水が出ることまで確かめた。
甲斐谷は窓の外に庁舎の壁が見えるたび、窓と外壁の厚みを確認している。
「家具も、寝具も、全部スキルで出したものですか?」
「はい。細かい消耗品は補充が必要ですけど、部屋と備え付けの設備はそうです」
日下部はベッドの端を手で押した。
「寝具まで普通だな」
「普通でない部分を探しているのに、見た目は普通のホテルですね」
篠塚の言葉に、甲斐谷が廊下の非常灯を見上げる。
「建物が駐車場に突然現れた点を除けば、ですが」
一通り見てから、一階の食堂へ戻った。
時計は十一時半を回っている。
俺は三人を窓側のテーブルへ案内し、厨房の給水器から水を入れて運んだ。
コップを置いても、誰もすぐには手を伸ばさない。
「それも、この施設で出したものですか?」
篠塚がコップの中を見ながら聞いた。
「はい。スキルで供給している水です。普通に飲めますし、今のところ人体に害はありません」
三人が顔を見合わせた。
「飲用試験の記録はありますか?」
甲斐谷が聞き返す。
「俺や利用者が何度も飲んでいますけど、長期的な検査まではしていないので」
日下部はコップを持ち上げ、匂いを確かめてから一口飲んだ。
「水系統のスキルと考えれば、そこまで珍しくはないか」
篠塚も続いて口をつける。
「本当に普通の水ですね」
甲斐谷は二人を見たあと、少しだけ飲んだ。
しばらくコップを見ていたが、何も起きないのでテーブルへ戻す。
「もうすぐお昼ですけど、何か食べられましたか?」
「いいえ。朝からこの件を確認していたので、まだです」
篠塚が答えると、日下部も腕時計を見た。
「もうそんな時間か」
「でしたら、これも調査の一環ということで、ここで提供している食事を出しましょうか。今すぐ用意できるのは、これですね」
俺はメニュー表を三人の前へ置いた。
――――――――――――――――――――
湖畔食堂
湖畔まかないセット
ワイルドボア脂の焼きおにぎり二個
ホーンラビットつみれ汁
本日の小鉢
魔力水
価格:2,900円
――――――――――――――――――――
「ワイルドボアの脂で、焼きおにぎり?」
日下部が最初の一行を読み直す。
篠塚はその下へ視線を移した。
「ホーンラビットは、つみれにしているんですか。魔力水というのは、今飲んだ水ですよね?」
「そうです。メイン料理は魔物素材を使っていますけど、味は地上の料理に寄せています」
「まかないセットで二千九百円か」
甲斐谷が値段を見た。
「地上なら高いですが、十階層で出す料理としては安すぎませんか?」
「運搬費や場所代が、ダンジョン都市の店ほどかからないので」
その後、俺は三人分の注文を受け、メニュー表を回収した。
「調理に少し時間をください」
厨房へ入ろうとすると、甲斐谷が椅子から立った。
「調理しているところを見てもいいですか?」
「ご自由にどうぞ。中へ入るなら、手洗いだけお願いします」
三人は厨房の入口までついてきた。
甲斐谷と篠塚は手洗いを済ませて中へ入り、日下部は食堂側からカウンター越しに見ている。
俺は保管庫から、まかないセット用に仕込んであった食材を出した。
焼きおにぎりを鉄板に並べ、つみれ汁を鍋で温める。
小鉢を器に盛っている間に、鉄板から醤油とワイルドボア脂の匂いが立ち始めた。
「普通の調理風景だな、これは」
日下部がカウンターの向こうから鍋を見ている。
甲斐谷は冷蔵庫の中と、俺の手元を交互に確認した。
「まさかと思いますが、建物から調理まで全部が幻術で、我々が同じものを見せられているという結末はありませんよね?」
その言葉に俺は表情を少しだけ曇らせる。
「…そこまで疑われると、私には証明できませんよ」
焼き目を確認しながら返すと、篠塚が小さく笑った。
「味が同じに感じるかは、三人で確認できます」
「それで違った場合、どれが正しい味なんだ?」
日下部の疑問には、誰も答えなかった。
焼きおにぎりを皿へ乗せ、つみれ汁と小鉢を添える。
三人分をテーブルへ運ぶと、今度は水の時より早く箸が伸びた。
日下部が焼きおにぎりを割る。
表面は醤油で焼けているが、中の米は白いままで、ワイルドボア脂の香りだけが染みていた。
「……普通にうまいな」
一口食べた日下部が、そのまま二口目を運んだ。
篠塚はつみれ汁を飲み、お椀の中を見た。
「臭みがありません。ホーンラビットだと言われなければ、鶏肉のつみれだと思いそうです」
「小鉢も普通ですね」
甲斐谷はそう言ってから、焼きおにぎりにも箸を伸ばした。
しばらく黙って食べ、半分ほどなくなったところで俺を見る。
「これ、地上で出しても普通に流行る味ですよ」
「それが十階層で食べられるのか……」
日下部はつみれ汁まで飲み終え、空いたお椀を置いた。
「ダンジョン都市の食事は高いわりに、味は二の次になりがちです。温かい料理が食べられるだけでも助かりますが、これと同じ価格帯では勝負になりませんね」
篠塚は残った焼きおにぎりを見て、もう一度メニュー表の値段を確かめた。
「需要はかなりあると思います。問い合わせが増える理由も分かりました」
三人が食べ終わる頃には、皿にも椀にもほとんど何も残っていなかった。
そして空いた食器を挟んで互いを見る。
「どうする、これ」
日下部が先に口を開いた。
「現時点では、利用者へ危害が及ぶ設備は確認できませんでした」
篠塚は食堂の中を見渡した。
「むしろ、十階層にあった方が助かる施設です。安全地帯も、少なくとも未承認者を止める機能は確認できましたし、普通に選別しているだけです」
「…だからといって、この場で問題なしとはできません」
甲斐谷はすぐに続けた。
「境界の限界も、スキル全体の仕組みも不明です。食品、宿泊、決済については別問題で、担当部署との確認も要ります」
「だがそれでも、今すぐ営業を止めろと言える材料はないな」
日下部は俺へ向き直った。
「朝倉さん。本日の確認内容は一度こちらへ持ち帰ります。関係部署とも話したうえで、後日あらためて連絡します」
「分かりました」
篠塚がタブレットの画面を閉じた。
「次の営業は、いつを予定されていますか?」
「今週末は休みます。次回は試験営業ではなく、本営業に入る予定で、来月一日からを考えています」
三人の間で、また視線が交わされた。
「時間があまりありませんね」
篠塚の言葉に、日下部がうなずく。
「今のところ、こちらから止める理由はありません。ただし、始まってから連絡するわけにもいかないというのが、こちらの都合でもあります。できるだけ早く意見をまとめます」
俺たちは食堂を出て、全員が安全地帯の外へ移動した。
中に人が残っていないことを確認し、宿泊施設を解除する。
三階建ての建物は、現れた時と同じように音もなく消えた。
あとに残ったのは、白線が引かれた駐車場と、端へ移された公用車だけだった。
◇
午後、ダンジョン管理課の小会議室には、朝と同じ三人が戻っていた。
大型モニターには、駐車場へ現れた宿泊施設と、白い球体が浮かぶ映像が停止している。
「狐につままれたような話だな」
日下部が椅子へ深く座った。
「建物へ入って、食事までしてきたのに、まだ現実感がありません」
篠塚は自分のタブレットに残った映像を開き直した。
甲斐谷は、ガイドアシストが映っているところで再生を止める。
どうもこの白い球体が気になるようだった。
「最初に確認するべきなのは、あの能力が本当にスキルなのかどうかです」
「そうだな…スキル判定からか」
「はい。施設や営業形態を調べても、根っこにある能力が何か分からなければ、安全性の判断にも限界があります」
篠塚が総務省の組織一覧を開いた。
「総務省へ照会して、鑑定学会に話を持っていきますか?」
鑑定学会と言う言葉に日下部は少しだけ考え込んだ。
「……あのスキルを並の鑑定で判別できると思うか?」
言い終わった後に日下部が白い球体の映像を見た。
「難しいでしょうね」
甲斐谷は少し迷ったあと、二人へ向き直った。
「特務隊に知り合いが一人います。例のあの人の護衛についている隊員です」
篠塚はその言葉に意外そうな表情を浮かべた。
「えっ? そんな伝手が?? それで、つないでもらえるんですか?」
甲斐谷は少しだけ首を傾げる。
「保証はできません。ただ、普通の鑑定で無理なら、最初から規格外を見慣れている人に頼んだ方が早いとは思います」
甲斐谷はそのまま日下部を見た。
「駄目元で、お願いしてみますか?」
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