第62話 ダンジョン庁へ相談に行きました(前編)
土曜の午前九時を回っても、ダンジョン庁のダンジョン管理課に週末の土曜日らしい静けさはなかった。
壁面モニターには、国内主要ダンジョンの入場者数、転移門の稼働状況、各階層から届いた緊急報告が並んでいる。
夜勤班から日勤班への引き継ぎが終わったばかりだが、席を立つ職員より、業務用パソコンへ向かう職員の方が多い。
ダンジョンは土日も祝日も関係なく動き続ける。
管理課も同じだった。
三百六十五日、二十四時間体制。
何かが起きれば、最初に情報が集まり、関係部署や特務隊へ指示を出す。
ダンジョンと常に隣り合わせになっている部署だった。
その一角にある小会議室で、三人の職員が一枚の大型モニターを見ていた。
映っているのは、東京湾岸ダンジョン十階層の湖畔だった。
正確には、湖と森林地帯の間にある北側草地。
画面の中央には、その景色に似つかわしくない三階建ての宿泊施設が立っている。
「これで報告は何件目だ」
ダンジョン管理課長の日下部統真が、机の上に置いた紙コップへ手を伸ばした。
中身はとっくに冷めている。
「内容が重複しているものを除いて、探索者から三十七件です」
現場調整主任の篠塚美冬が、手元の業務用タブレットを操作した。
「Y上の投稿は数え切れません。探索者ギルドから正式な照会が一件、企業からは七件。うち三社は、施設の運営主体と契約関係の有無まで聞いてきています」
「そんなの、うちが知りたいよ」
日下部の返事に、篠塚が口元だけで笑った。
画面では、探索者が撮影したらしい動画が再生されている。
何もなかった草地に三階建ての建物が現れ、営業終了後には跡形もなく消えた。
別の動画では、建物へ近づこうとした魔物が、見えない境界に阻まれている。
「営業は今のところ週末だけ確認できています」
法規と安全審査を担当する甲斐谷修平が、報告を読み上げた。
「営業中は敷地内の安全が完全に保証されると案内している。食堂、一時休憩、シャワー、宿泊設備あり。宿泊料金は十階層のダンジョン都市にある同等施設の半額以下。閉店すると建物ごと消失する…」
甲斐谷はそこで言葉を切り、動画を停止させた。
「怪しいという言葉では足りませんよ、これは」
「だが、被害の報告はないんだな」
「ありません。むしろ利用者からの評価は高いです。食事がうまい、風呂に入れる、寝具が清潔、何より安心して眠れる、などなど」
「それを聞くと余計に分からんなぁ」
日下部は思わず腕を組んだ。
「苦情がない代わりに、別の問い合わせが増えています」
篠塚が利用者から届いた報告へ表示を切り替えた。
「この施設はダンジョン庁が認定した避難所なのか。安全地帯は公的に確認されたものなのか。次の営業日を教えてほしい。そういった内容です」
この報告に日下部は眉根を少しだけ上げた。
「認定した覚えはないぞ」
「当然です。ですが、完全に安全だという話だけが先に広がっています」
甲斐谷が利用者の報告を一つ開いた。
「複数回の週末営業で事故がなかったことと、次も安全であることは別です。運営者が意識を失った場合、安全地帯は維持されるのか。設備に異常が起きた場合、宿泊客を外へ出せるのか。建物が消える条件も分かっていません」
十階層で安心して眠れる場所がある。
その噂を信じる探索者が増えれば、携行品を減らしたり、帰還の余裕を削ったりする者も出てくる。
施設側に悪意がなくても、安全だという評判そのものが、他の事故原因になりかねない。
「今はまだ試験営業ということらしいですが、だからこそ今は無事に済んでいます」
篠塚はY上の投稿数を画面に出した。
「正式な営業日が公開されたら、利用者は一気に増えます。その前に、少なくともダンジョン庁が確認済みの施設ではないことと、実際にどこまで安全なのかは整理する必要があります」
「ううむ…次の営業が始まってからでは遅いな」
日下部は、停止した動画に映る宿泊施設を見直した。
ダンジョン内で建物を設置し、商売をすること自体は禁止されていない。
主要経路を塞がず、転移門や管理設備の運用を妨げず、他者へ危害を加える目的の設備でなければ、探索者の自己責任が原則となる。
十階層北側草地は、管理課が指定する経路からも外れていた。
現時点で届いている報告だけをダンジョン法へ照らし合わせれば、明確に違法と言える点はない。
「場所を占有しているという見方は?」
篠塚が尋ねると、甲斐谷は首を横に振った。
「永続的な構造物ではなく、営業終了後に消えています。通行妨害も起こしていない。既存の条文だけで排除するのは難しいでしょう」
「無許可営業は?」
「ダンジョン内の自己責任区域で、地上と同じ宿泊施設として扱えるかがそもそも未整理です。現金決済や食品提供は別途確認が必要ですが、少なくともダンジョン内に施設を出したという一点だけでは違法になりません」
届いた情報には、法に触れる行為も、利用者や周辺探索者の被害も記録されていない。
それでも放置していい話ではなかった。
「未知のスキルだった場合、既存法の想定を超えている可能性があります」
篠塚が別の資料を開いた。
「建物を丸ごと出現させるだけでも前例がありません。さらに、魔物を完全に遮断する安全地帯まで作っている。別の場所でも使えるなら、遭難者を安全圏へ収容できますし、救助隊の前線拠点にもできます」
「逆に、悪用された場合もだ」
甲斐谷が続ける。
「主要経路や転移門の上へ出せるのか。中へ入った人間を閉じ込められるのか。建物を消した時、中にいた人間や物品はどうなるのか。施設を装った幻術系統という可能性も残っています」
「誰が動かしているかも分からないままでは、判断のしようがないか」
日下部が紙コップを置いた。
「一度、現地で確認する。営業日に合わせて実地調査班を組もう」
「それは賛成ですが、相手がどう出るか分かりません」
「そうだな…今回は特務隊にも同行を頼むか」
日下部がそう言った時、会議卓の端にある内線電話が鳴った。
篠塚が受話器を取る。
「はい、ダンジョン管理課です」
短いやり取りのあと、篠塚の眉がわずかに寄った。
「面会希望ですか。予約の確認は」
返ってきた声を聞き、篠塚は受付からこちらのPCへ送られた来訪者情報へ視線を向けた。
「アポなし……。ご用件は何でしょう」
数秒後、篠塚は聞き間違いを疑うように受話器を握り直した。
「もう一度お願いします!」
日下部と甲斐谷が同時に顔を上げる。
「東京湾岸ダンジョンの、何階層ですか」
篠塚は最後まで聞き、ゆっくりと受話器を置いた。
そして日下部と甲斐谷へ視線を合わせた。
「一階受付に、東京湾岸ダンジョン十階層で週末に宿泊施設を運営しているという人が来ています」
小会議室から、一瞬だけ音が消えた。
「今後の営業について、こちらへ相談したいそうです」
甲斐谷が停止中の動画を見た。
日下部も同じ画面を見た。
つい数秒前まで、特務隊を伴って調べに行こうとしていた相手が、一階で面会を待っていた。
「……会おう」
日下部が答えた。
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