第59話 木場の工場跡地(後編)
小坂が通用口の鍵を開け、壁際の分電盤を確かめた。
いくつかの照明は契約を残しているらしく、古い蛍光灯が時間を置いて点いた。
中へ入った俺は、自然と足を止めた。
天井が高い。
鉄骨の柱が屋根までまっすぐ伸び、その上を天井クレーンのレールが工場の端まで走っている。
肝心のクレーンは隅へ寄せられたまま錆びていたが、床から屋根下までを遮るものはない。
俺たちの靴音が、暗い奥まで響いた。
「今の宿泊施設なら、あの柱と柱の間に入ると思います」
小坂が立ち止まった先は、古い作業台や棚が残る一角だった。
全部を運び出すだけでも、かなりの手間になる。
それでも、黒瀬の作業場で感じた窮屈さはなかった。
俺はスマホに保存していた施設寸法を開き、工場の資料と見比べた。
「建物だけなら入るな。安全地帯の範囲は屋内に収まるように調整する必要があるけど、施設を出して確認するには十分だ」
「シャッターを閉めれば、外からは見えません」
「音と光がどこまで漏れるかは確かめないとな。それ以前に、この建物を使って平気かどうかだ」
屋根には雨染みらしい跡があり、古い配線も残っている。
鉄工所だった以上、土壌調査も省けない。
「耐震、屋根と壁、電気、消防設備。それからアスベストと土壌か」
「その辺りは、黒瀬社長に見てもらえませんか?」
「そうだな。黒瀬さんに相談して、必要なら専門業者も入れてもらおう。要らない物の処分も含めて、手直しは必須だ」
今夜は【休憩地】を出さない。
鉄骨も配線も確認前で、シャッターの隙間から光が漏れるかも分からない。
ここで試すのは、黒瀬たちに建物を見てもらってからだ。
工場の奥まで歩いた後、俺たちは外へ戻った。
主棟の横には、車を何台も置ける空き地が残っている。
「将来、あの事務所棟を建て替えることもできますよ」
「受付や予約管理をする事務所が地上にあれば便利だな。資材の受け取りもここでできる」
「湖畔休憩地の地上本部ですね!」
「小坂、気が早いぞ」
そう返したものの、否定する材料は減っていた。
古い建物も、残された鉄枠も、今は金のかかる荷物でしかない。
だが、この高い屋根と外から閉ざせる空間は、成長を続ける【休憩地】にとって簡単には代わりが見つからない。
俺は工場と空き地をもう一度見渡した。
「条件が合うなら、俺はありだと思う」
小坂はすぐにスマホを取り出した。
「では、両親に連絡しますね」
「早いな」
「善は急げ、ですです」
俺は思わず苦笑いの表情を浮かべた。
それとは対照的に、小坂の笑顔が妙に心に残った。
◇
数日後。
俺は仕事を終えた足で、小坂の実家を訪れていた。
玄関が開き、小坂の母親である美和が俺と小坂を交互に見た。
「あら。由真が男の人を連れてきた」
「お母さん、先に言っておいたでしょ。仕事の話だから」
「へえ……仕事の話をする彼氏?」
「だから彼氏じゃありませんっ!」
居間から出てきた父親の正志は、俺が差し出した名刺を受け取った。
社名と営業二課の文字を読み、それから自分の娘を見る。
「会社も一緒なのか。結婚相手としては堅実だな」
「お父さん……茶化さないで」
「初めまして、朝倉歩です。本日は工場跡地の件で伺いました」
俺が頭を下げると、美和は「あら、挨拶もしっかりしてるじゃない」と小声で言う。
その声は、向かいに立つ俺にもはっきり届いた。
応接用のテーブルには、土地の資料と茶菓子が用意されていた。
小坂が座るなり、仕事の説明を始める。
「先輩とは、退職後に新しい事業を始めます。その準備と物資管理に、広い建物が必要なんです」
「その事業というのは、今は詳しく話せないんだったな」
正志が確かめ、小坂が頷いた。
【休憩地】のことは両親にも伏せる。
俺たちは、湾岸ダンジョンに関係する探索者向け休憩事業であり、機密性のある設備を扱うため、広く閉じた作業場所が必要だとだけ説明した。
「古い工場ですから、建物と地面の調査はさせてください。使えない状態なら、購入の話自体を見直すことになります」
「それで構いません。こちらも、後から隠していたと言われるのは困りますから」
正志は用意した資料を俺の前へ置いた。
売買価格の算定方法、現況のまま引き渡すこと、調査で重大な問題が出た場合の扱い、分割中の担保について、確認すべき項目がまとめられている。
「由真から聞いた条件を基に、支払期間を長くした案も作りました。こちらとしては、相続時に家から出した分と、今までの税金や管理費を回収できれば助かります」
周辺相場だけを見た金額よりは大分低い。
その代わり、残置物の撤去と改修、各種調査の費用はこちらが負担する。
売る側と買う側のバランスが若干だが買う側、即ち俺に少しだけ向いているような印象を受けた。
「今の収支なら払える見込みはあります。ただ、営業日を増やした後の費用も見たうえで、無理のない期間にしたいです」
「二十年ではどうですか。繰上返済はいつでも受けます」
正志から受けた支払い案について確認していると、美和が湯飲みを置いた。
「そんなに長い付き合いになるなら、結婚すれば土地はただでいいんじゃない?」
「お母さん!」
小坂が資料から勢いよく身を起こした。
正志は少し考えてから、俺の方を見た。
「確かに。結婚するなら、土地はただでもいいぞ?」
「お父さんも変な計算しないで!」
「いや、正志さん。税務上はそんな単純な話ではないでしょう」
俺が答えると、今度は小坂がこちらを向いた。
「先輩も真面目に返さなくていいですから!」
俺としては、急に結婚の可否を聞かれるより、税金の話に戻した方がまだ対応しやすい。
しかし、その返し方は小坂にとっての正解ではなかったらしい。
「まあ、冗談はここまでにしましょう」
美和は楽しそうな表情を見せつつ、菓子皿を小坂の前へ出す。
お菓子でも食べて落ち着け、と言うことなのだろう。
この家では、娘が何を言っても、しばらくはこの話題が続くのだろうな。
その後は、不動産鑑定と建物調査を入れること、弁護士と税理士にも契約を確認してもらうこと、重大な問題が見つかれば条件を改めて協議することを決めた。
最終的に、工場跡地は現況のまま、二十年払いで俺たちの事業へ譲渡してもらう方針で話がまとまった。
署名前の支払案には、二十年という期間が印字されている。
俺が四十九歳になるまでの長さだ。
「では朝倉君、これから由真をよろしくお願いします」
正志が改めて頭を下げる。
「はい。共同運営者として、責任を持って」
「お父さん、そして先輩もっ!! 変に受け取らないでくださいっ!」
小坂の抗議に、美和が笑った。
土地の話は決まった。
なぜか俺と小坂の話だけは、小坂家の中で別の方向へ進み始めていた。
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