第55話 退職願と運営管理アプリ①
翌朝。
会社の自席に座った時点で、俺はいつもより少しだけ早く出社していた。
机の上には、封筒が一つ。
白い封筒の表には、退職願、とだけ書いてある。
自分で書いた文字なのに、そこだけ妙に他人事みたいに見えた。
昨夜、何度も書き直した。
文章自体はWEBで調べた定型文だ。
けれど、この定型文一枚を出すだけなのに、これまでの保証された平穏から誰も保証してくれない、それは真夜中の海に放り出されたような気持ちになっていた。
俺は意を決して封筒を手に取り、上司の席へ向かった。
◇
「え? 朝倉、辞めるの?」
課長は封筒と俺の顔を交互に見て、それからもう一度封筒を見た。
朝の打ち合わせ前の小さな会議室に、コピー機の動く音だけが遠くから聞こえている。
「はい。今月末を目処に退職したいと考えています」
「いや、ちょっと待ってくれ。急だな。何かあったのか? 待遇か? 部署か? それとも、うちで何か問題があったか?」
「そういうわけではありません」
俺は膝の上で手を組んだ。
ここで湖畔休憩地のことを細かく話すわけにはいかない。
ダンジョン内で宿泊施設を始めます、などと言ったら、退職理由の説明どころではなくなる。
「やりたいことができました」
課長の眉が、さらに困った形に曲がる。
「詳しく聞いてもいいか?」
「はい。今の仕事で学んだこともありますし、素材流通の現場を見られたことは無駄ではありません。ただ、今しかできないことがあると判断しました」
「独立か?」
「近いです」
嘘ではない。
だが、正確ではない。
今の俺が会社で言える中身としては、それが限界だった。
課長はしばらく黙ったあと、深く息を吐いた。
「……引き継ぎは?」
「今月末まで出勤します。担当案件と取引先の資料は、今日から整理します。残りは有給消化でお願いできればと」
「分かった、とはすぐ言えないぞ。部長にも話す。人事にも確認する。あと、たぶん何回か引き止める」
「はい」
「本当に、何かあったわけじゃないんだな?」
「もちろんです。自分を信じて挑戦したくなった、これだけです」
課長は封筒を机の上に置いたまま、少しだけ目を細めた。
「朝倉、お前、最近ちょっと顔つき変わったよな」
「そうですか?」
「忙しそうなのに、妙に楽しそうに見えたよ」
言い返せなかった。
課長は困ったように笑い、封筒をそっと引き寄せた。
◇
午前中は、ひどく落ち着かなかった。
退職願を出したからといって、すぐに居なくなるわけでもない。
メールはいつも通り来るし電話も鳴る。
いつもの発注確認も、納期調整も、社内の承認依頼も変わらず流れてくる。
けれど、何人かがこちらを見る回数は明らかに増えた。
昼前になると、別の方向からも小さな話題がやってくる。
小坂も退職願を出したらしい。
それが社内に広がる速度は、湖畔休憩地の噂とは別の意味で速かった。
営業部の島でひそひそ声が増え、総務の前を通った時には、聞こえるか聞こえないかくらいの声で「営業二課の二人、同じ時期に?」と漏れていた。
昼休み前には、もう妙な形になっていた。
『朝倉と小坂が、何か事業を始めるらしい』
誰かがそう言い、誰かが少し盛り、誰かが面白がっている。
社内の噂は、ダンジョン都市のYより狭いぶん、全く逃げ場がなかった。
「……噂ってのは妙に真実性を帯びているよなぁ。一部だけだけど」
そう言って俺は資料のまとめをしていたところ、スマホが震え、確認すると小坂から短いメッセージが届いていた。
『いつもの公園で』
時計を確認すると昼休憩に入った所だった。
俺は財布とスマホを持ち、席を立つ。
◇
公園のベンチに着くと、小坂はすでにコンビニ袋を横に置いて座っていた。
昨日と同じ場所だ。
ただ、昨日よりも二人の肩に乗っているものは想像以上に重い。
「先輩、私、退職願出しちゃいました」
小坂はサンドイッチの袋を開けながら、妙に明るく言った。
「俺も朝出してきた」
「知ってます。もう噂になってます」
「早すぎるだろ」
「会社ってそういうところです。あとで色々と言われそうですね」
「だなぁ。そして湖畔休憩地の件が出回ったら、色々と面倒なことになりそうだが、今考えても仕方ないか」
「ですです」
小坂はカフェオレのストローを刺し、それから周囲を気にしながら言った。
「引き継ぎは今月末までになりそうです。残りは有給消化ですね」
「俺も同じ感じだ。少なくとも今月いっぱいは会社員だな」
「じゃあ、平日昼間はまだ動けません。夜と休日で準備を詰める形になります」
「そこなんだよな。今後の営業をどうするか、ちゃんと決めないといけない」
「今週末、同じ規模でやるのは危ないです」
「同感だ。予約も受付も人員も何もかもが足りない」
「夜、先輩の家で会議しましょう。資料まとめます。営業日、予約窓口、入場管理、人員、物資、全部です」
「分かった。俺も食材と厨房側を整理しておく」
小坂の目が、そこで細くなった。
「先輩」
「なんだ?」
「ちゃんとスキルの確認してました?」
「……」
俺は弁当の蓋を開けかけたまま、膝の上に置いた。
「……そういえば忘れてた」
小坂は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
怒る前の人間がやる呼吸だった。
「料理のことばかり考えすぎです!」
「いや、厨房がだな」
「厨房が大事なのは分かってます。でもスキルが成長してるかもしれないんですよ? 営業後に確認しないの、運営責任者として無責任です!!」
「はい。仰る通りでございます」
「今後は営業終わりに一緒に確認しましょう」
「はい。仰せの通りに」
「よろしい」
小坂は満足そうに頷いた。
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