第112話 史上最大のカーニバル⑤
後退指示を受けたほかの大手クランと多くの中堅クランも、回収できないドロップ品を残し、負傷者と交代要員を連れて後退を始める。
その流れに加わらず、最前線へ残ろうとするクランもあった。
湖畔休憩地へ補給に来ていた小規模クランの探索者たちは、撤退通知を見ながら仲間と言い争っている。
「庁は下がれって言ってるぞ。回収班も引き始めてる」
「大手が獲物を残していくんだぞ。この稼ぎ時に何を言ってる。バリケードはまだ持ってる。あと少しだけ続ける」
「負傷者が出たら、誰が運ぶんだよ」
「遠征費も装備代もかかってるんだ。ここで帰れるか」
それでもクランは残る判断を変えず、補給品を抱えて正門から出ていった。
指示に従って下がる部隊が遠ざかるにつれ、湖畔へ戻る道から、負傷者を引き受ける部隊とドロップ品を運ぶ回収班もいなくなっていく。
◇
ダンジョン都市では、防衛線後退を知らせる放送に切り替わり、都市運営側が非戦闘員を地上へ退避させ始めた。
それまでドロップ品を運んでいた荷車には負傷者と避難者の荷物が載せられ、都市の門と外壁では、常駐戦力と後退してきたクランが防衛配置へ入っていく。
湖畔休憩地の受付にも、防衛線後退と都市の非戦闘員退避を知らせる通知が届いた。
「先輩、防衛線の後退と、都市の非戦闘員を退避させる指示が出ています。ここはどうしますか?」
俺は勤務中のスタッフをロビーへ集め、厨房の者には火の前を離れず、開けた扉越しに話を聞いてもらった。
すぐには答えを出さず、開けたままの正門の向こうを確かめたが、戻ってくる探索者の姿はまだない。
「まず、小坂は周辺の探索者と一緒に退避してくれ。ほかのみんなも、危険になったら全員を勤務終了にして送還する。それまでは、なるべく俺の目が届く範囲で仕事をしてくれ。ただし、急に退避しなきゃならなくなったら問答無用で送還する。そのつもりでいてくれ。火の始末だけは気をつけてくれよ」
スタッフたちはすぐにうなずいたが、小坂は受付から動かず、俺に尋ねた。
「先輩はどうするんですか?」
「俺は最後に退避する。ここの責任者だし、休憩地のスキルを維持する必要もあるからな」
「一緒に退避しましょう」
「俺たちが退避するのはいい。だけど、周辺にはまだ多くの探索者がいる。あの人たちが前線を支えているから、その後ろにいる人たちが退避できるんだ。ここも、その支援という意味では大きな役割がある。だから俺が退避するのは、最前線に残った人たちと一緒だな」
小坂を安心させるつもりで笑ってみせたが、返ってきた声はさらに強くなった。
「そんな……駄目ですよ!」
「あんたが一番大事なんだぞ! 一番先に退避するべきだ!」
「そうです。湖畔休憩地が残っても、朝倉さんが戻れなくなったら意味がありません!」
すぐには言葉を返せなかった。
小坂だけではない。ロビーに集まったスタッフも、厨房から話を聞いていた者たちも、俺の返事を待っている。
俺は湖畔休憩地を残すことばかり考えていた。
けれどみんなは、この場所だけでなく、俺が無事に戻ってくることまで考えてくれている。
「……その思いは受け取った。だけど、ここ――湖畔休憩地は、探索者が帰ってきた時に、安心してほっとできる場所を作りたくて始めたんだ。そこを真っ先に放り出して逃げたら、俺はもうここへ戻ってこられない気がする」
正門を開けたままのロビーから声が消え、厨房で鍋を動かす音だけが残った。
その沈黙を破ったのは、小坂だった。
「さあ、みんな! 退避準備と並行して、ここへ逃げ込んでくる探索者を、できる限り支援しますよ!」
「おいおい、小坂。話を聞いてたか?」
「聞いてましたよ。だからです。私たちだって湖畔休憩地のメンバーですから!」
小坂の言葉を合図に、ロビーのスタッフたちも持ち場へ戻ろうとした。
誰も引き下がるつもりがないことだけは、はっきり伝わっていた。
「……やれやれ。じゃあ、これだけは守れ。小坂、このあとの変化次第だが、俺が危ないと思ったら絶対に退避してもらう。スタッフのみんなは勤務終了にすればすぐに送還できるから、まだ残ってもらえる。だが、お前だけは駄目だ。それが条件だ」
小坂は不満を残したまま、それでも条件を受け入れてうなずいた。
「よしっ! では全員、行動を開始してくれ!」
「はい!」
退避の準備には入ったが、休憩地への入場条件は変えない。
朝から正門を開け、人数も制限していない。
正門から館内を抜けて湖畔側まで進めるため、変えるのは、入ってきた人の案内先だけだ。
ほどなく、後退指示に従った探索者たちが戻り始めた。
補給に来た時とは違い、仲間に肩を貸す人、壊れた装備を抱える人、後ろの草地を何度も振り返る人が途切れずに正門をくぐってくる。
「入口に留まらず、奥へ進んでくだされ!」
珍田が正門の内側から呼びかける。
スタッフたちは歩ける人を湖畔側へ、負傷者とクランの治療担当を空き客室へ案内していく。
ロビーと食堂では担架の通り道が空けられ、食事と水は受け渡し口へ集められていく。
「仲間を待つ方も、正門の前では止まらないでください!」
避難者が増えるにつれ、正門へ入る人と、仲間を捜して外へ戻ろうとする人がぶつかり始めた。
正門前の流れを整えている最中、俺のスマートフォンへ、最前線が崩壊したことを知らせる更新が届いた。
残っていたクランの簡易バリケードが複数方向から破られ、後退先との間にも魔物が発生したため、隊列を組んで撤退できないという。
テントも荷物も回収したドロップ品も捨て、各自で近い拠点へ逃げ始めていた。
通知を読み終えるより先に、大勢の人が草地の向こうからまとまって走ってきた。
先頭を走る探索者の後ろには、周辺施設から逃げてきた人たちも混じっている。
転んだ人を仲間が起こし、荷物を捨てた人が遅れた仲間へ手を伸ばす中、別の探索者が湖畔休憩地の正門を指した。
「湖畔休憩地へ! 正門の中まで走れ! あそこは魔物が入れない!」
探索者の一部は声を聞く前から正門へ向かっていた。周辺施設から逃げてきた人たちは、その後を追うようにこちらへ進路を変える。
都市へ向かう道にも人が流れており、第10階層にいた人々が、ダンジョン都市と湖畔休憩地へ分かれて逃げているのが見える。
「入ってきた人を奥へ! 正門前を空けてくれ!」
異界人スタッフは安全領域の境界を越えられない。俺も彼らと正門の内側に残り、そこから避難者を受け入れる。
避難者のさらに後ろでは、森の手前に見えていた影が草地へ広がっていく。
魔物の群れだった。
倒れたテントを踏み越え、捨てられた荷物を押し退けながら、逃げる人との距離を縮めてくる。
湖畔休憩地の外に残った探索者が迎撃するが、正面の群れを倒している間にも、別方向から次の群れが迫っていた。
「早く! 中へ!」
最後尾の探索者が正門へ飛び込んだ直後、すぐ後ろまで迫っていた魔物が正門の手前で止まった。
爪を振るっても、身体を押しつけても、境界の内側へ入れない。
後ろから来た魔物が重なり、正門を避けて回り込んだ群れも、同じ境界で止められていく。
押し寄せた魔物は、一体も境界を越えられない。
安全領域が侵入を阻むことは分かっていたが、これほどの数を同時に止めたことはなかった。
「……えっ。魔物が、入ってこない……?」
正門へ逃げ込んだ施設職員が、境界の外を見たまま声を漏らした。
「誰かがスキルで止めてるのか?」
近くの探索者が答える。
「湖畔休憩地は魔物が入れないって聞いてた。けど……あんな群れまで止めるのかよ」
「驚くのはあとです! 止まらないでください! 後ろからも人が来ます!」
小坂の声で、正門の内側に固まっていた人たちが館内と湖畔側へ動き出す。正門の内側まで下がった探索者たちも、ようやく構えていた武器を下ろしていく。
それでも境界の外では群れが増え続け、その向こうから次の避難者も走ってくるため、受け入れを止めることはできなかった。
管理画面に安全を保証する表示はなく、俺が知っているのは、これまで魔物が境界を越えた例がないことだけだ。
その間にも館内の客室へ負傷者が運ばれ、食堂と屋外区画には避難者が座り込んでいき、正確な人数はもう数えられなくなっていた。
受け入れの合間に探索者向けアプリを確認すると、都市からの緊急連絡が届いていた。
ダンジョン都市の防衛状況も更新されている。
外壁と正門では、後退した大手クランが常駐戦力へ合流し、避難者を門内へ入れながら魔物を食い止めている。
その一方で、第10階層に点在していた補給施設や休憩施設からの連絡は、次々に途絶えていく。
退避を終えて無人となった施設がある一方、外部カメラには魔物が扉や外壁へ押し寄せ、建物を壊す様子が残っていた。
配信も、施設の一部が崩れたところで途切れている。
その映像を見ている間も、ロビーの正門越しでは、押し寄せた群れが見えない境界を一歩も越えられずにいた。
ダンジョン庁は、退避報告と現場映像、設備の稼働信号を照合しながら、第10階層の拠点情報を更新している。
更新されていく拠点情報を見ていると、俺のスマートフォンへ新しい緊急情報が届いた。
少し前まで並んでいた拠点表示は消え、画面には二つしか残っていない。
『第10階層で稼働を確認できる拠点は、ダンジョン都市および湖畔休憩地の2か所のみ。その他の施設は全て使用不能』
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