第六章 王女と生ビール
七日後の昼過ぎ、店の前に、大きな馬車が、止まった。
馬車を引いていたのは、四頭の白馬だった。
車体に、銀の縁取りで、紋章が、刻まれていた。
二本の翼と、剣と、ひとさし指。
リリアナさんの胸当てに描かれていたのと、同じ図案だった。
ただし、それを取り囲むように、王冠の輪郭が、加えられていた。
マルキューズ団長が、店の前で、深く、頭を下げていた。
彼の後ろに、四十九人の聖騎士団員が、二列に並んで、片膝をついていた。
全員、新しい鎧に身を包み、傷も癒えて、姿勢も、別人のようになっていた。
俺は、厨房で、エプロンを締め直していた。
藤堂さんは、奥で、髪を、しきりに、撫でつけていた。
「鳴海、お、おい、なにすればいいんだよ、こういう時は」
「いつも通り、お客様を、迎えていただければ」
「お、お客様って、お前、これ、王族だぞ、王族」
「ええ、まあ」
俺の心音は、自分でも意外なほど、静かだった。
ピーク中の焼き場と、同じだ。
誰が客で来ようが、串を打ち、肉を焼き、配膳する。
現場の手順は、変わらない。
馬車の扉が、ゆっくりと、開いた。
降りてきたのは、栗色の髪を、丁寧にまとめあげた、若い女性だった。
歳は、二十歳、くらいだろうか。
緑の瞳が、静かに、こちらの店を、見ていた。
値踏みする目ではなかった。
もっと、奥のほうまで、見透かそうとするような、観察の目だった。
「お初にお目にかかります。わたくし、ヴェルディノス王国第二王女、アリエル・ヴェルディノス、と申します」
彼女は、店の前で、ほんの少しだけ、上体を傾けた。
お辞儀、というより、礼の中の、軽い会釈だった。
でも、その動きは、長年訓練された、貴族の動きだった。
俺は、店の暖簾を、両手で持ち上げて、店内に、案内した。
「いらっしゃいませ。お席に、ご案内します」
アリエル王女は、店内を、一歩、一歩、進んできた。
その視線が、ホール全体を、ぐるりと、確かめていた。
焼き場、洗い場、ドリンカー、ホールスタッフの動線。
俺の目には、明らかに、現場の「導線」を見ている人の動きに、見えた。
……この人、本物の経営者を、見たことがある。
なんとなく、そう感じた。
彼女は、四人がけの席に、腰を下ろした。
俺は、お通しに、漬物と枝豆を、用意した。
「ご注文は、いかがいたしましょう」
「鳴海どの、と、お呼びしてよろしいか」
「はい」
「あなたの店で、最も、自慢されるものを、いただきたい」
「では、焼き鳥盛り合わせと、生ビールを」
「生ビール、とは、何ですか」
俺は、思わず、口元が、ほどけた。
「冷えた麦のお酒です。よく冷えてます」
「興味深い」
俺は、ドリンカーの前に立った。
業務用のディスペンサーは、ちゃんと動いていた。
樽から、銀のパイプを通って、ジョッキへ。
俺は、ジョッキを、注ぎ口に、四十五度に傾ける。
ビールが、内壁を、すべるように降りていく。
炭酸ガスのロスを防ぐ角度だ。
七分目まで、液体を注ぎ、ジョッキを、ゆっくり、垂直に戻す。
最後に、泡専用のレバー。
クリーミーな泡で、ジョッキの口に、丁寧に蓋をする。
泡三、液七、の、黄金比。
粗い泡が、わずかに浮いていた。
俺は、専用のヘラで、それを、すっと、撫で切った。
シルキーな泡だけが、残った。
……いつもの、八年分の、手順だ。
俺は、お盆に、ビールと、焼き鳥の盛り合わせを載せて、王女のテーブルに、運んだ。
王女は、ジョッキを、両手で持ち上げた。
その瞬間、彼女の指が、ぴくり、と止まった。
「……これは……」
彼女は、ビールの中の、白い泡の層を、じっと、見つめていた。
「泡が……これほど、固く、密に……」
彼女は、ジョッキを、ゆっくりと、口元へ運んだ。
一口、含んだ。
目を、閉じた。
しばらく、彼女は、何も、言わなかった。
頬に、ほんの少しだけ、赤みが、差した。
ジョッキを、テーブルに、静かに置く。
深く、ひとつ、息を、吐いた。
「……これは、王宮の、最高級の麦酒でも、出てこない味です」
「ありがとうございます」
「鳴海どの、貴方は、本当に、ここの、ただの一作業者なのですか」
「ええ、まあ、そういう感じです」
「では、責任者は、どなたなのですか」
その時、藤堂さんが、後ろから、すばやく、進み出てきた。
彼は、満面の笑みを浮かべていた。
「申し遅れました。私が、こちらの責任者で、藤堂と申します」
アリエル王女は、彼を見上げて、目を、わずかに、細めた。
「責任者……ふむ」
彼女は、ジョッキを、もう一度、口に運んだ。
一口、含んで、目を伏せた。
「藤堂どの。一つ、お訊ねしてもよろしいですか」
「ええ、ええ、何なりと」
「この、ビールというものは、誰が、お注ぎになられましたか」
藤堂さんは、口の端を、ひきつらせた。
「……私の部下が、まあ」
「では、お訊きします。ジョッキを傾ける角度は、何度がよろしいのでしょうか」
ぴたりと、空気が、止まった。
藤堂さんの口が、開いて、閉じて、また、開いた。
彼の額から、汗の粒が、ひとつ、すべり落ちた。
「……ええと、その、まあ、四十、いや、五十度くらい、ですかね」
王女は、ジョッキを、テーブルに置き、その指を、組んだ。
「四十五度、です」
彼女の声は、薄く、笑っていた。
「貴方が、これを注ぐ係ではないことが、よく、わかりました」
藤堂さんの顔から、血の気が、ひいた。
彼は、口を、何度か開きかけて、結局、何も、言えずに、後ろに、半歩、退いた。
ホールの空気が、王女のひとことで、明らかに、別のものになった。
マルキューズ団長の口元が、ほんの、わずかに、緩んだ。
厨房の蛇口から、ぽたり、と、ひとしずく、水が、落ちた。
その音だけが、店の中に、しばらく、残った。
俺は、いつも通り、藤堂さんに、頭を下げた。
「藤堂さん、奥のテーブル、片付け、お願いできますか」
「あ、ああ……」
藤堂さんは、ふらふらと、奥のテーブルに、退いていった。
王女は、その背中を、最後まで、見ていた。
彼女の指が、テーブルの上で、組み直された。
彼女は、ビールを、もう一口、ゆっくり、含んだ。
頬の赤みが、夕日のように、ふんわりと、深まった。
俺は、視線を、彼女のジョッキから、わざと、外した。
あまり、見ていると、失礼にあたる気がした。
彼女は、しばらく、ジョッキを、両手で、抱いていた。
「鳴海どの。あなたが、街の貴族でも、賢者でも、軍人でもない、と、わたくしは、理解いたします」
「はい」
「ただの、現場の、職人、と、お見受けしました」
「ええ、まあ、そうですね」
「その、ただの、現場の方の、技術が――王宮の、最高位の職人にも、再現できない、と――今、お見せいただきました」
王女の声は、抑揚を、ほとんど、つけていなかった。
でも、その低い声の奥に、何か、確信に、近いものが、あった。
「鳴海どの。改めて、お見極めを、させてください」
彼女は、ジョッキを、両手で、テーブルに、置いた。
「明日、宮廷料理人ガイウスを、こちらに、お招きしても、よろしいでしょうか」
「ええ、店、開けてます」
王女は、その答えに、初めて、口元を、わずかに、ほどけさせた。
その表情は、王族の儀礼の、はるか向こうの――
ひとりの、若い女性の、笑顔だった。




