第五章 聖域、グリストラップ
朝、領主の使いを名乗る男が、馬を連れて、店の前に立った。
胸に紋章を縫いつけた、四十がらみの、髭の整った男だった。
マルキューズ団長が、店の前で出迎え、低い声で、なにごとかを伝えていた。
使者は、店の正面の暖簾を見て、何度も、首をかしげていた。
日本語の「炉端炎」の三文字が、彼にどう見えていたのかは、わからない。
俺は、厨房で、米を研ぎながら、外の様子を、聞き耳で追っていた。
藤堂さんは、ホールの片隅で、相変わらず、毛布をかぶって、不機嫌そうに新聞のような何か――いや、メニュー表の裏側――をめくっていた。
「鳴海どの。使者を、お入れしてもよろしいか」
マルキューズ団長の声に、俺は、手を拭いて、ホールへ出た。
使者の男は、店内に入って、深く、頭を下げた。
「私は、ヴェルディノス王国、東辺境領主、グラント・カイザー子爵の使い、ダリオ・モンセラと申す。我が騎士団五十名を、ご救済いただいたこと、まず、御礼申し上げる」
「いえ、たまたまです」
「鳴海どの。失礼ながら、店の裏手を、見せていただきたい」
……裏手?
俺は、首をかしげた。
使者は、店の左側を回って、裏路地のほうに、向かおうとしている。
あ。
……グリストラップだ。
俺は、慌てて、後を追った。
店の裏には、地下に降りる小さなマンホールがある。
昨夜、転移する寸前まで、俺が掃除していた、油脂分離阻集器の蓋だ。
使者は、その蓋の前に、しゃがみ込んだ。
地面に手をついて、目を、近づけて――
息を、止めた。
しばらく、彼は、動かなかった。
やがて、ゆっくりと、立ち上がり、その場で、片膝をついた。
「……これは……」
彼の声は、明らかに、震えていた。
「これは……魔物の汚穢を、地に分かたぬ、聖域では、ないか……」
俺は、思わず、首をかしげた。
「いえ、グリストラップですけど」
「グリ……?」
「油と水を、分けるための設備です。日本のチェーン店なら、どこにでもあります」
使者は、両手を組み合わせて、額に当てた。
俺の言葉を、まったく聞いていなかった。
藤堂さんが、横から、ひょこりと顔を出した。
「あ、あのう、その、聖域とかいうの、いいことなんで、すよね」
「ええ、爵位を持つ者の、家系すら、これだけの『浄化の祭壇』を、ほとんど所有してはおりません」
藤堂さんの顔が、ぱあ、と明るくなった。
彼は、横から、すばやく口を挟んだ。
「実は私が、これの管理者でしてね」
使者は、ぴくり、と肩を動かして、藤堂さんを見上げた。
その目の動きが、ほんの一瞬、鋭くなった。
「……ほう、藤堂どの、と、おっしゃられたか」
「ええ、店の責任者です」
「では、毎晩、この祭壇を、磨かれておられるのは、貴殿か」
藤堂さんは、口を、開きかけて、止まった。
目だけが、ちらちらと、俺を見た。
俺は、つい、口を、開いた。
「あの、すみません。毎晩磨いてるの、俺です。藤堂さんは、事務作業の担当で」
空気が、ぴたりと、止まった。
使者の目が、もう一度、藤堂さんを見た。
今度は、はっきりと、冷たい光が、そこに、あった。
藤堂さんは、口元をひきつらせて、後ろに、半歩、下がった。
「あ、いや、その、共同作業というか、」
「……結構、結構」
使者は、藤堂さんに、頭を、軽く下げ、それから、俺に向き直った。
「鳴海どの。失礼ですが、これを、磨かれる際に、使う、道具は」
「ひしゃくと、業者からもらった吸着材です」
「拝見、できようか」
俺は、店の床下からひしゃくを取り出した。
昨夜、油でぬめっていた、いつもの、ひしゃく。
使者は、それを両手で受け取った。
その瞬間、彼の指先が、震えた。
「……これは……古代金属、ですな……」
「いや、業務用品メーカーのプラスチックですけど」
使者は、ひしゃくを、頭の高さまで、両手で持ち上げ――
そのまま、静かに、地面に、片膝をついた。
「神は、まだ、我らをお見捨てになっていなかった」
彼の声が、はっきりと、湿っていた。
「……鳴海どの、貴殿は……我らが王国の、誇りの、伝説の、《調停の御使い》、その化身であられる……」
「いえ、ただの居酒屋のバイトです」
使者は、俺の言葉を、最後まで、聞いていなかった。
彼は、ひしゃくを、丁寧に、両手で、俺に返した。
その動きは、神具を扱う、神官のものに、ほかならなかった。
俺は、ひしゃくを受け取って、いつものように、肩に担いだ。
マルキューズ団長が、口元を、ふっと、ゆるめた。
使者は、自分の馬に向かって、走り出した。
「これは……王都に、お伝えせねば」
彼は、馬の鞍に飛び乗ると、振り返って、もう一度、深く、頭を下げた。
「七日のうちに、王都より使者が参る。お待ちいただきたい」
藤堂さんは、店の入り口の柱に手をついて、口を、半開きにしたまま、固まっていた。
その目に、はじめて――
俺に対する、敵意ではない、別の感情が、薄く、にじんでいた。
使者が走り去ったあと、店の前は、しばらく、静かだった。
森の風が、立ち止まった土埃を、緩やかに散らした。
マルキューズ団長は、無言で、店の暖簾の前まで戻ってきた。
彼の体の傷は、まだ完全には癒えていない。
包帯越しに、ほんのり、血が、にじんでいた。
団長は、俺の隣に、ゆっくりと、立った。
「鳴海どの。我ら五十名を救ったあの夕餉のことを、私は、生涯、忘れまい」
「いえ、賄いです」
「マカナイ……?」
「店の人間が、自分用に、まかなって、食べるご飯のことです」
団長は、しばらく、その言葉を、口の中で、繰り返した。
「マカナイ……いい言葉だ。誰かを、まかなう」
彼の声は、低く、深かった。
「鳴海どの。我らは、まかなわれた者として、貴殿の盾となろう」
俺は、答えに困って、ひしゃくの柄を、握りなおした。
手の中で、その柄が、ほんの少しだけ、暖かかった気がした。
「鳴海……お前……何者なんだよ……」
「いえ、ただの、焼き場のバイトです」
夕方、店の裏で、藤堂さんが、こっそり、グリストラップの蓋を、開けようとしていた。
俺は、たまたま、ビール樽の入れ替えで、裏に出ていた。
「藤堂さん」
彼は、びくっ、と、肩を跳ねさせて、振り返った。
「な、なんだよっ」
「何してるんですか」
「いや、その……俺だって、これくらい、できるからな。やっとくぞ。今夜は」
「……お願いします」
俺は、ビール樽を担いだまま、店内に戻った。
扉が閉まるその瞬間、藤堂さんが、ぎこちなく、しゃがみ込み、蓋を、両手で持ち上げているのが、目の端に映った。
ふん、と、彼が、鼻で、息をついた。
その音は、店の中までは、届かなかった。
夜になって、戻ってきた藤堂さんの全身は、油まみれだった。
ホールの椅子に、どさっと、座り込んで、彼は、ぼそりと、つぶやいた。
「……これ、毎晩、お前ひとりでやってたのかよ」
「ええ、まあ」
「……ふん」
彼は、それ以上は、何も、言わなかった。




