第十七章 闇夜をさまよう魂
翌朝、王城の参謀本部に戻った。
扉を開けると、地下の灯火の下で――全員が、俺を待っていた。
セバス。ガイウス。ザムザ。アリエル王女。マルキューズ団長――重傷の体に包帯を巻きつけたまま、椅子に腰かけていた。
彼らの目の中に――昨夜思っていたような、責める色はなかった。
ただ、深くこちらを待っていた目だった。
俺はゆっくりと自分の椅子に座った。業務日報をテーブルに置いた。
全員の視線がノートに集まった。
「皆さん」
俺は口を開いた。
「昨日、二十名の料理人と聖騎士団員の命が失われました」
「……」
「俺のロジックの限界です」
誰も口を挟まなかった。
「俺はただの居酒屋のバイトです。戦場のこと、はじめてです。読みが甘かった。敵将ガズドラの頭の良さを舐めていました」
マルキューズ団長がゆっくりと頭を振った。
「鳴海どの。それは貴公ひとりの責任では」
「いえ、団長」
俺は団長の言葉を止めた。
「俺ひとりの責任です。でも、ひとつだけ続けさせてください」
俺はノートを開いた。
昨夜の、おじいちゃんの板さんの字の頁。
「俺の師匠だったおじいちゃんが、こう言ってました」
俺はその頁を、皆に見せた。
「職人は、完璧じゃなくていい。続けることが、価値だ」
四角いぎこちない字が、業務日報の最初の頁に残っていた。
ガイウス氏がその字を、両手で押し戴いた。
彼の白い口髭がふるりと震えた。
「鳴海どの。このお言葉は……我ら料理人ギルドの五千名の肝に、銘じさせていただきとうござる」
「ありがとうございます」
「我らはまだ十分、料理人です。戦死した二十名の誇りに応えるのも、続けることにほかなりませぬ」
俺は頷いた。
「閉店オペレーション、続けます」
大広間がしんとなった。
でも、それは絶望のしんではなかった。覚悟のしんだった。
セバスがゆっくりと地図に駒を動かした。
「鳴海どの。敵将ガズドラは、こちらの補給拠点の配置を読みました」
「ええ」
「ならば、今からは読まれない配置に書き換えます」
「どうやってですか」
俺はペンを握りなおした。
「乱数です」
「ランスウ……?」
「毎晩、サイコロを振って、配置を決めます」
「サ、サイコロにござるか」
「規則性があるから読まれる。なら、規則を捨てます。冷蔵庫の中のぐちゃぐちゃの在庫管理を人間に教えるときと同じです。最後の最後は、整理しすぎないほうがいい」
俺はノートの新しいページを開いた。
「毎日、ランダムに料理人と聖騎士の組み合わせを、サイコロで振り直します。配置先もランダム。襲撃される拠点を敵に予想させない」
「鳴海どの……」
セバスの左目の剣傷が、深く影に入った。
「これは孫子の兵法を、超えており申す」
「いえ、業界用語でヘルプ、というやつです。応援の店員を急遽別の店に回す時、店長が頭ん中シャッフルする、あの感覚と同じです」
俺はいつもの口調で言った。
ザムザがぶはと噴き出した。
「お前、ほんとに戦争を、店舗運営と同じレベルで考えてんのな」
「ええ、まあ」
大広間に低い苦笑が流れた。
俺はノートに、明日の新しい配置を書きはじめた。
ペンの動きが、昨夜より少し速かった。手が、もう震えていなかった。
夜更け、参謀本部から、王城の廊下を歩いていた。
窓の外で雪が止んでいた。雲の隙間から月が出ていた。
俺はリリアナさんの治療室の扉の前で、足を止めた。
扉の隙間から、淡い灯火が漏れていた。
俺は扉を軽くノックした。返事はなかった。でも、俺は入った。
彼女は白いシーツの上で、静かに眠っていた。
頬の灰色は、もう唇まで達していた。
……時間がない。
俺は彼女の枕元の椅子に座った。業務日報、第一巻を手に取った。
彼女の耳元で、ぼそぼそと報告した。
「リリアナさん。今日も、二十名、戦死しました。でも、明日からサイコロで配置を振ることに決めました」
彼女のまつげがわずかに震えた。
「あと五日で、決着、つけます。それまで待っててください」
彼女の指がシーツの上でわずかに開いた。
俺はその指に、自分の指を添えた。
冷たい指だった。でも、まだ、生きていた。
その夜から、王国軍の配備は、一日ごとにランダムに入れ替わった。
料理人は、毎晩、別の拠点に移動。聖騎士団は、毎日、別の部隊長の指揮下に。冒険者ギルドは、敵の別働隊の撃破に専念。
補給線の流れは、こちらにしか見えない形になった。
敵将ガズドラは、二日、三日と攻撃を空振りした。
俺の業務日報を写したはずの補給拠点が――昨日の場所には、もうなかった。今日の場所はわからない。
ガズドラの配下の闇兵たちが、敵領の各地で、こちらの影を追って走り回った。
走り回っているうちに、敵兵の足は疲弊した。敵兵の糧食は底をついた。
……兵糧攻めが効きはじめた。
深夜まで、俺は彼女の隣にいた。
彼女の呼吸は極限まで細くなっていた。
でも、その規則的な上下を、俺はずっと見ていた。
窓の外で、雪雲がまた流れていた。月明かりが淡く、彼女の銀の髪に光った。
俺はふと、自分の中で何かがはっきりと形を取った気がした。
……俺、彼女が好きなのかな。
言葉にすると、急に子供っぽい響きになって、自分でも苦笑した。
でも、たぶん、そうだった。
俺は彼女のその震えるまつげの一本一本を覚えていた。
彼女の長い名乗りの独特の間を覚えていた。
彼女が味噌汁を口にしたその瞬間の、頬の色を覚えていた。
……現場の俺ではない自分が、ここにひとり、ぽつんと座っていた。
俺は自分の指を、彼女の指に優しく絡めた。
冷たい指。でもその指の奥に、まだ、命が残っていた。
俺は低く囁いた。
「リリアナさん。生きてください。一緒にもう一回、賄い飯、食いましょう」
彼女のまつげがほんのわずかに震えた。
返事のように、彼女の指が、俺の指をほんの少し握った。
窓の外で、月が雲の隙間からわずかに覗いていた。
ふと、テーブルの上に置きっぱなしの業務日報、第一巻が目に入った。
その表紙の上に――彼女の白い指の跡が、薄く残っていた。
眠っていた間も、誰かがノートに触れていた痕跡。
俺はその指の跡をじっと見つめた。
彼女、目を覚ましていた瞬間もあったのだろうか。ひとりでこのノートに触れた夜があったのだろうか。
……ありえないわけではない。
俺の胸の奥がまた温かくなった。
俺は椅子の背にもたれ、ふっと息をついた。
俺は窓のカーテンを少しだけ引き、月の光を、彼女の枕元に落とした。
銀の髪の上に、淡い光が、ふわりと広がった。
その様子は、まるで小さな祭壇のようだった。
俺はノートをテーブルの上に戻し、立ち上がった。
明日、また、来る。それまで、待っていてください、と、口の中だけで言った。
扉を閉める前に、もう一度、彼女の寝顔を見た。
頬の灰色は、まだ顎までしか上がっていなかった。
時間との競争だった。




