第十六章 完全なる喪失
閉店オペレーション、開始から十日目の朝。
俺は店の跡地の補給拠点で、いつもの朝の業務日報をつけていた。
その時、伝令の若者が馬を飛び降りた。
顔が、紙のように白い。
「鳴海どの……、第二拠点、襲撃を受けました……っ」
俺はペンを握る指を止めた。
「敵兵、約一千。料理人、十二名、戦死。聖騎士団、九名、戦死……。物資、半分奪取、半分焼失」
……ぐっと息がつまった。
俺の手が震えた。
「マルキューズ団長は」
「重傷にござります。一命は取りとめましたが、当面、剣は握れぬか、と……」
俺は業務日報のページを、ぱたんと閉じた。
胸の深いところが、冷たく固まった。
午後、続報が入った。
第三拠点、襲撃。料理人、八名、戦死。冒険者、十五名、戦死。
そして――夕方、王城から伝令が来た。
リリアナさんの容体が悪化。頬の灰色は、もう顎まで達していた。呼吸がわずかに弱くなっている、と。
……俺の頭がぐらりと揺れた。
あちこちで人が死んでいた。
俺の業務日報の配置に従って動いていた人たちが。
俺のロジックは、敵に読まれていた。
敵将ガズドラは、俺の業務日報を写すフリをしながら――その背後で、こちらの補給拠点の配置をすべて計算していた。
拠点間の移動経路、配備人数、ローテーション、すべて推測されて襲われた。
……俺は敵を舐めていた。
俺のいつものホールの感覚。敵を酔っ払いと同じレベルに見ていた。
でも、目の前にいたのは――千年生きた魔族の軍師だった。
俺は参謀本部の地下に、ひとりで座っていた。
地図の上に、第二拠点と第三拠点に、黒い印がついた。俺の指でつけた印。
……これはもう、補給拠点ではない。戦死者を出した現場の印だった。
俺の手が震えていた。息が浅くなった。
ふっと、自分の椅子の背に寄りかかった。
……俺、何やってるんだ。
俺はただの居酒屋のバイトだ。軍学校も出ていない。戦場のことなんて、何も知らない。
俺の業務日報なんて――ただの深夜のひとり言のメモ書きにすぎなかったはずだ。
それを、なぜ五万の軍勢の補給線に当てはめてしまったんだろう。
俺の傲慢だったんじゃないか。俺の思い上がりで人が死んだ。
料理人が死んだ。聖騎士が死んだ。リリアナさんが死にかけている。
……俺がいたせいで。
ノートを握る指の爪が、白くなった。
雪は夜更けまで止まなかった。
俺は王城の裏庭のベンチに座っていた。マントの襟元に雪が積もっていた。俺はその雪を払う気にもならなかった。
頭の中で、戦死した二十名の料理人の名前が、ぐるぐる回っていた。
ガイウス氏が夕方、その台帳を俺に見せてくれた。
知らない名前ばかりだった。
でも、台帳のそれぞれの欄には、彼らがどの料理が得意だったか、何年、王宮の厨で働いていたか、家族構成まで書かれていた。
二十名、二十通りの人生。
彼らはそれぞれの家で、子供たちがメシを待っていた。
……俺のロジックに彼らを配置したのは、俺だった。
俺は深く息を吐いた。白い息が、雪の中に消えた。
大広間の扉が開いた。
アリエル王女が入ってきた。彼女は俺の前で無言で座った。
しばらく、何も言わなかった。
やがて低く囁いた。
「鳴海どの。お辛いお気持ちは、わたくしにもわかります」
「……いえ」
「ですが、ひとつだけ申し上げさせてください」
「はい」
「戦死した、料理人、聖騎士、彼ら全員が――最後の瞬間まで、貴方の業務日報を信じておりました」
俺は目を伏せた。
「『鳴海どののロジックなら、自分の命の置きどころもわかる』と、彼らは言っておりました」
「……」
「彼らは、貴方に命を預けて戦ったのです。それは、命を預けるに値する何かを、貴方の中に見たからにござります」
彼女の緑の瞳が、まっすぐに俺を見ていた。
「鳴海どの。ご自分を責めないでください」
俺の目の奥が急に熱くなった。
でも、涙は出なかった。
俺は頭をテーブルに押し付けるように、深く深くお辞儀した。
「……すみません」
「いえ」
「俺、ちょっとひとりで外、空気、吸ってきます」
俺は立ち上がった。
地下から階段を上がる足取りが、自分でも重かった。
城外に出ると、薄い雪が降りはじめていた。冬が来ていた。
俺のエプロンの布越しに、業務日報の角が骨に当たって痛かった。
雪の中で、俺は目を閉じた。
いつもの店の深夜の感覚を思い出そうとした。
でも、店はもうない。焼け落ちた。暖簾も、藍色の布も、ぜんぶ灰になった。
俺の立つ現場が、消えた。俺の立つホールが、消えた。
……俺は何だ。
居酒屋のバイトでもなくなり、調停の御使いでもなく、ただの無責任な命令の出し手に過ぎなかったんじゃないか。
ノートの罫線に人の命を配置する、子供じみた遊び。その代償がこれか。
胸の中で、何かがぐしゃりと潰れた。
俺はエプロンの内ポケットから、業務日報を取り出した。
雪の中でページをめくった。
古い、最初の頁。日本にいた頃の店の開店日。俺の十九歳の字。
今より、もっと稚拙な丸い字だった。
……俺はその頁を、長く見つめていた。
最初の頁のいちばん下の所感欄。
そこに、俺の字ではない字が書かれていた。
……あれ。誰の字、だっけ。
四角いゴツゴツした字。しばらく考えて、ようやく思い出した。
亡くなった、おじいちゃんの板さんの字だった。
彼は俺のノートを一度だけ見て、こう書き込んでくれた。
「蓮、いいか。職人は、完璧じゃなくていい。続けることが、価値だ」
俺はその、ぼやけた字を雪の中でじっと見ていた。
ぱさり、と雪がノートの紙の上に、ひとひら落ちた。
俺はその雪が溶けて、紙が薄く湿るのを見ていた。
……職人は、完璧じゃなくていい。続けることが、価値だ。
あの人が書いた字が――今、俺の中の何かをゆっくりと押し戻してきた。
俺はその頁を閉じた。
立ち上がろうとして、膝に雪がたまっていて、よろけた。
立ち上がる気力は、まだ半分しか戻っていなかった。
でも、十分だった。
半分戻れば、十分だった。
現場では、いつもそうだった。
翌朝、参謀本部に戻る前に、俺は王城の治療室に立ち寄った。
リリアナさんは、まだ眠っていた。
頬の灰色は、顎まで達していた。
白いシーツの上に、銀の髪が静かに流れていた。
俺は彼女の枕元の椅子に座り、業務日報を膝の上に開いた。
最初の頁の、おじいちゃんの板さんの字を、彼女に見せた。
「リリアナさん」
「……」
「俺、今日から、続けます」
返事はなかった。
でも、彼女の右手の指が、シーツの上でわずかに動いた気がした。
俺はその指の動きを長く見ていた。
窓の外で、雪雲の隙間から、薄い朝日が差していた。
その光が、ノートの紙の上にぽとりと落ちた。
俺はノートを閉じ、彼女の枕元に置いた。
「行ってきます」
俺は治療室を出た。
廊下を歩く足取りは、まだ重かった。
でも、足は前に出た。それで十分だった。




