第十三章 闇堕ち上司
王城に戻ったのは、その日の、昼過ぎだった。
俺たちは、リリアナさんを、王城の奥の治療室に、運び込んだ。
そこで、宮廷の、治癒術師たちが、彼女を、囲んだ。
手当たり次第の聖句。
あらゆる種類の聖水。
神具による、浄化。
……でも、彼女の体の、灰色は、止まらなかった。
胸元から、首筋に、首筋から、顎まで、ゆっくりと、上がってきていた。
夜になると、ローガス司教が、白い顔で、首を、横に振った。
「鳴海どの。これは、古の、闇神の眷属の、呪い、にござる」
「治しかた、ないんですか」
「呪いを、放った者を、討たねば、解けぬ」
俺は、その答えを、すでに、わかっていた気がする。
藤堂さんを、止めない、限り。
……でも、藤堂さんは、もう、ただの、底意地の悪い、上司では、なかった。
彼の中に、何か、別のものが、入っていた。
マルキューズ団長が、俺の隣に、立った。
「鳴海どの。儂は、戦場で、何度も、奴と、同じ匂いの者を、見てきた」
「同じ、匂い」
「呪術師、にも、似て、いる。だが、もっと、奥に、根があるものだ」
団長の声は、低く、重かった。
「人の中の、嫉妬や、屈辱が、深く、煮詰まると――時折、闇神の眷属が、それに、付け入る。あの者は、自ら、扉を、開けたのだ」
俺は目を伏せた。
藤堂さんが、何年もかけて、自分の中で、煮詰めてきた、屈辱が、見えた、気がした。
居酒屋の現場で、串も、まともに、打てなかった日。
俺が、客に、頭を、下げ、料金を、割引した日。
彼は、その日から、現場の人間を、見下すことで、自分を、保ってきた。
でも、それは、誰も、彼を、責められない、世界では――
いつのまにか、自分自身の、心を、蝕んでいた。
……闇神の眷属、というものは、おそらく、そういう、扉に、しか、入ってこない。
ふと、団長が、俺の肩に、手を、置いた。
「鳴海どの。あなたの、責任、では、ない」
「……ありがとうございます」
俺は、深く、頭を、下げた。
その夜、俺は、ひとりで、治療室の、廊下に、座っていた。
白い大理石の廊下。
窓の外で、月が、低く、傾いていた。
業務日報を、膝の上に、開いていた。
いつもの業務日報の書式。
日付。来店人数。提供メニュー。所感。改善点。
今日の所感欄に、俺は、震える指で、こう、書いた。
「リリアナ、危篤。藤堂、捕捉。要、迎撃計画」
……業務日報に、こんな、ことを、書く、日が、来るとは、思わなかった。
俺のペンを握る、指の、爪が、白くなっていた。
深夜、城門の、外から、小さな足音が、近づいてきた。
俺は、窓から、外を、見下ろした。
……薄汚れた、ローブの、男。
藤堂さん、だった。
彼は、城の門番の聖騎士に、何かを、見せていた。
通行証、らしい、何か。
門番の聖騎士の動きが、急に、ぎこちなくなった。
目の焦点が、ふと、霞んだ、ようだった。
藤堂さんは、ニヤリ、と笑い、悠々と、城内に、入ってきた。
俺は、気づかれないように、廊下の奥の影に、身を、寄せた。
藤堂さんは、まっすぐ、治療室に、向かっていた。
彼は、リリアナさんを、仕留めに、来た。
……お前みたいな底辺は、と、彼が、よく言った、口癖が、頭の中で、鳴った。
俺は、エプロンの内ポケットの、ノートを、強く、握った。
他に、武器は、何も、なかった。
でも――
ふと、調理場の、隅で、燃え残った、自分のひしゃくの、柄、を、思い出した。
あれと、もう一つ。
俺の店の調理台の下から、無傷で、運ばれて、王城の厨房に、移されていた――
俺のいつもの出刃包丁、が、あった。
俺は、ゆっくりと、足音を、消して、王城の、厨房へ、向かった。
肉を、捌くための、刃物。
でも、八年間、俺の指の形に、馴染んだ、唯一の武器、らしい武器。
俺は、それを、握った。
厨房の窓から、月明かりが、刃の縁に、薄く、反射した。
……これで、十分だ。
藤堂さんが、いつもの薄笑いで、リリアナさんの、白いシーツに、近寄った、その時。
俺は、治療室の、扉の前に、立っていた。
「藤堂さん」
彼は、振り返った。
「……鳴海ぃ。お前、いつまで、邪魔をするんだ」
「……邪魔をするのは、こっちのセリフです」
俺は、出刃包丁を、握り直した。
藤堂さんは、両手から、黒い焰を、垂らした。
藤堂さんは、口の端を、ニタリと、歪めた。
「お前、包丁、振り回すのか? 俺に?」
「振り回しません」
「は?」
「使うとしたら、捌くだけです。職人として」
藤堂さんの、口元の、笑みが、ほんの一瞬、固まった。
俺は、相変わらず、いつもの、声で、続けた。
「藤堂さん、職人って、知ってますか」
「あ?」
「自分の手で、ひとつのものを、毎日、繰り返して、作る人のことです」
「ふん、お前みたいな、底辺がか」
「ええ、俺、底辺で、いいんですよ」
俺の、口から、自分でも、不思議なほど、自然に、言葉が、こぼれた。
「底にいるから、毎晩、足元の、グリストラップを、磨ける。底にいるから、串の、繊維方向を、目で見て、計算できる。底にいるから、一人前の賄いを、迷わず、五十人前に、増やせる」
藤堂さんの、黒い焰が、ぴくり、と、揺れた。
「藤堂さん。あなたは、現場を、降りた瞬間から、何も、見えなく、なってしまった」
「お、お前……」
俺は、出刃包丁を、両手で、握り、いつもの、まな板に、向かう時の、角度に、構えた。
「降りない人間と、降りた人間の、違い、です」
藤堂さんは、口を、開いた。
「お前みたいな、底辺の、口から、お説教を、聞かされるとは、思わなかった」
「お説教じゃ、ないんです」
「は?」
「ただの現場の申し送り、です」
俺の声は、いつも通り、低かった。
業務日報の、所感欄を、口にしているのと、同じ、感覚だった。
藤堂さんが、両手の、黒い焰を、高く、掲げた。
その焰が、廊下の天井に、影を、揺らした。
俺は、出刃包丁を、構えたまま、一歩、前に、出た。
その瞬間――
治療室の、扉の奥から、リリアナさんの、声が、漏れた。
「ナルミ、様……っ、私が……」
彼女の声が、苦しげに、震えていた。
俺は、振り返らなかった。
でも、もう、迷う必要は、なかった。
彼女を、もとに、戻すには、目の前の、男を、止めるしか、ない。
その時、廊下の、奥から、駆けてくる足音が、聞こえた。
マルキューズ団長の、低い命令の声。
聖騎士団の複数の剣の鞘音。
藤堂さんは、舌打ちした。
「ちっ、邪魔が、入ったか」
彼は、黒い焰を、両手から、ぐっと、握り潰し、廊下の、窓の外へ、振り向いた。
「鳴海ぃ。次は、お前の、聖騎士団も、まとめて、潰す」
彼は、窓枠に、足を、かけた。
「お前みたいな、底辺の、世界を、俺が、上から、書き換えてやるよ」
ニタリと、笑い、彼は、夜の闇の中に、飛び込んだ。
俺は、出刃包丁を、握ったまま、しばらくその場所に、立っていた。
月明かりの、廊下が、急に、しんと、静まり返った。
マルキューズ団長が、息を、切らせて、駆け寄ってきた。
「鳴海どの、ご無事か」
「無事です」
「逃しましたな」
「ええ。でも――」
俺は、窓の外の、夜空を、見上げた。
「次は、こちらが、攻め番です」
団長の口元が、ふっと、引き締まった。
「承知」
彼の手が、自分の剣の柄に、深く、添えられた。
その動きが、俺の出刃包丁を、握る、手と、まったく、同じ、職人の手の、動きに、見えた。
月明かりの、廊下で、俺たちは、向き合った。




