第十二章 黒い焰
馬を、走らせた。
俺の隣で、リリアナさんも、白い馬の手綱を、強く、引いていた。
マルキューズ団長と、聖騎士団の五十人。
王女アリエルと、その近衛隊。
セバスと、伝令の若い兵士たち。
深夜の街道を、二百騎の、軍勢が、駆け抜けた。
俺の店は、王都から、二日の、距離にあった。
でも、空に、立ち上る、紅蓮の柱は――
二日先からでも、はっきりと、見えた。
……まずい。
俺は、馬の上で、ぎゅっ、と、手綱を、握りしめた。
手のひらが、汗で、滑った。
頭の中で、ホールの動線を、計算する時の、いつもの感覚が、働かなかった。
……いつもどおりに、できない。
誰かが、店を、燃やした。
誰かが、見張りの聖騎士を、殺した。
それは、自分の店の、ピーク中の、突発トラブルとは、根本的に、別の種類の出来事だった。
俺の中の、何かが――
いつもの業務日報の罫線の外側に、はみ出して、いた。
俺の頭の中で、最悪の、可能性が、いくつも、浮かんだ。
店の魔導インフラが、燃えれば、補給拠点も、燃える。
保存されていた、食料も、装備も、ぜんぶ、灰になる。
兵糧が、たちまち、底を、つく。
兵士たちが、また、飢える。
夜明け前、俺たちは、店の前に、到着した。
炎は、もう、収まっていた。
残っていたのは――
黒く、焦げた、店舗の、骨組みだった。
屋根は、半分、落ちていた。
暖簾の、藍色は、すっかり、灰になっていた。
冷蔵庫は、横倒しになって、扉が、外れていた。
……俺は、馬から、降りた。
地面に、足が、ついた瞬間――
息が、つまった。
炎の匂い、油の匂い、焦げた木の匂い。
それらに、何か、別の、嫌な匂いが、混じっていた。
硫黄、のような。
あるいは――
誰かの、敵意の、匂い、のような。
俺は、ゆっくりと、店の中に、入った。
風が、止んでいた。
森の鳥が、誰一人、鳴いていなかった。
灰の色は、まだ、生暖かかった。
俺は、しゃがみ込み、焦げた、ステンレスの調理台の、縁を、指で、撫でた。
ジンと、指先が、痺れた。
まだ、熱が、残っていた。
……俺の八年分の、串の脂が、染み込んでいた、台だった。
毎晩、磨いていた、台だった。
その表面の、黒い、煤の中に、ぽつり、と、白いものが、見えた。
俺は、それを、拾いあげた。
……ひしゃくの、柄、だった。
炎の中でも、なぜか、燃え残った、俺のひしゃくの、木の、握り部分。
指の形に、削れていた、八年分の、痕跡が、まだ、残っていた。
俺は、そっと、それを、エプロンの、内ポケットに、しまった。
業務日報と、並べて。
ふたつだけが、俺の現場の、生き残った、痕跡だった。
炭火台は、原型を留めていた。
業務用の鉄の、塊だ。
ステンレスの調理台も、まだ、立っていた。
でも、その他の、ほとんどは、燃えていた。
俺の串も、皿も、調味料の瓶も――
ぜんぶ。
「ナルミ様……っ」
リリアナさんが、俺の後ろから、駆け寄ってきた。
彼女の足元、調理場の床に、誰かが、倒れていた。
黒い革鎧の、若い兵士。
俺の店の、見張りに、ついていた、聖騎士団の若手のひとり、だった。
彼の胸には、深い、深い、刺し傷があった。
……刺された、傷の、形が、おかしかった。
剣でも、槍でもない。
もっと、人間が、扱う武器とは、思えない、形の、傷。
俺は、彼の頬に、手を、当てた。
まだ、わずかに、温かかった。
でも、息は、もう、なかった。
「すまない……」
俺の、口から、思わず、その言葉が、こぼれた。
俺の店を、守って、死んだ、男だった。
俺の知らない、名前の、男。
まだ、二十歳に、なるかならない、かの、若さで――
マルキューズ団長が、店の奥から、駆け戻ってきた。
「鳴海どの、奥に、リリアナを」
「リリアナさん?」
俺は、振り返った。
いつの間にか、リリアナさんが、調理場の、奥のほうへ、進んでいた。
彼女は、奥に、誰かが、いるのを、感じ取っていた。
彼女が、剣を、抜いた。
その瞬間、奥から、黒い影が、ぬるりと、現れた。
黒いローブの、男。
藤堂さんは、黒い焰を、両手の、人差し指の先で、もてあそんでいた。
まるで、新しい玩具を、手に入れた、子供のような、顔だった。
彼の目の中には、もう、人間の、理性は、半分も、残っていなかった。
残りの半分は、自分を、見下してきた、世界への、薄笑い、で、満たされていた。
「いいか、鳴海ぃ。俺はな、ようやく、わかったんだよ」
彼は、低く、笑った。
「お前みたいな、現場の底辺の人間を、生かしておくのが、世界の、間違いだったんだ」
俺は、何も、答えなかった。
ただ、彼の足元から、ゆっくりと、伸びていく、黒い、影の、形を、見ていた。
彼の足の影が――
人の影、ではなく、もっと、別の、何か、おぞましい形、に、変わりつつあった。
彼の中で、すでに、人ではない、何かが、根を、張りつつあった。
顔は、フードで、隠れていた。
でも、その下から、ちらりと、覗いた、ニヤリとした、口の端を――
俺は、知っていた。
藤堂さんの、いつもの薄笑い、だった。
藤堂さんの、両手から――
黒い、焰が、ゆらりと、立ち上った。
今までの、紅い、炎では、なかった。
黒い、闇の、焰。
その焰を、彼は、リリアナさんに、向かって、振るった。
リリアナさんの剣が、それを、受け止めようとした、一瞬――
黒い焰が、彼女の剣を、すり抜けた。
彼女の、胸当てに、直撃した。
「リリアナさんっ!」
俺は、叫んだ。
彼女が、調理場の、床に、崩れ落ちた。
白い礼服が、瞬時に、黒く、焼け爛れた。
藤堂さんは、ニヤリと、笑った。
「鳴海ぃ。お前のせいだぞ」
「……」
「お前が、大人しく、俺の指示を、聞いてりゃ、こんな、面倒なことには、ならなかったんだよ」
俺の頭の、奥が、急に、熱くなった。
息が、浅く、なった。
目の前の、リリアナさんが、痙攣している。
マルキューズ団長が、剣を、抜きかけた。
でも、藤堂さんは、ふっ、と、その場から、姿を、消した。
「逃げたか……っ」
マルキューズが、悔しげに、つぶやいた。
俺は、リリアナさんを、抱き起こした。
彼女の胸の、焦げた、布の下で――
肌が、灰色に、変色しはじめていた。
毒、ではない。
もっと、奥に、根を張る、闇の、呪い、だった。
俺の店の業務用の塩水でも、これは、洗えない。
……俺は、初めて、自分の、手の中の、彼女の命の軽さに、怯えた。
マルキューズ団長が、俺の隣に、片膝を、ついた。
「鳴海どの、リリアナの状態は」
「闇の、呪い、です。塩水じゃ、抜けない」
「教会に、すぐ知らせを」
「セバスさん、お願いします」
セバスは、無言で、頷き、伝令の若者に、矢のような速さで、命じた。
馬蹄の音が、夜明けの森を、駆け抜けていった。
俺は、リリアナさんを、両腕で、しっかりと、抱えていた。
彼女の唇から、ひゅう、と、細い、息が、漏れた。
「ナルミ、様……」
彼女の声は、もう、囁きにしか、ならなかった。
「私は……お側に……いさせて、いただきます……」
彼女の指が、俺のエプロンの裾を、ぎゅっ、と、握った。
握る力は、弱かった。
でも、その指の、震えは、強かった。
「リリアナさん。喋らないで、ください」
「……はい……」
彼女は目を閉じた。
頬の、灰色が、ゆっくりと、こめかみまで、広がっていた。
俺は彼女を抱いたまま、立ち上がった。
膝が、震えていた。
でも、立ち上がらないと、いけなかった。
現場では、いつも、そうだ。
誰かが、倒れたら、誰かが、立ち上がる。
次の、客が、来る前に、店を、整える。
ピーク中の、緊急対応の、感覚で――
俺は、夜明けの森の中、王城へ、戻る馬の鞍に、彼女を、乗せた。




