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怪異報告蒐集サイト  作者: 九重


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7/8

『座席指定』

投稿日時: 202X/07/10 13:14:31

投稿者: H・Tさん(20歳・男性・学生 )

 大学の昼過ぎの講義が終わり、二人の男子大学生――高橋と秋山は、駅前にある喫茶店『カメリア』のいつもの席に座っていた。


 そこは個人経営の店にしてはそれなりにフロアが広く、木製の落ち着いたカウンター席の他に、数人で囲める大きめのテーブル席や、深々と身体を沈められるソファー席がいくつも配置されている。二人がいつも座るのは、入り口に一番近い四人掛けのソファー席だった。この時間帯はちょうど客足が途絶えるらしく、いつも店内はほどよく空いている。

 

 注文したアイスコーヒーのグラスは疾うに結露で濡れそぼり、コースターは水を吸い込んで湿っていた。店に入ってから既に数十分は経っていたが、客が少ないのをいいことに、二人は特に用もないままダラダラと居座り続けていた。

 

「なぁ、来週の月曜って何か提出物あったっけ」

 

 高橋はソファーの背もたれに体重を預け、スマホの画面をぼんやりと眺めながら尋ねた。

 

「さあ……。あ、ドイツ語の小テストがあるとか教授が言ってた気がするな」

 

 秋山は手元のスマホをいじりながら、殆ど中身の無くなったコップに挿さったストローを啜り、ズズッと小さく音を立てる。

 

「うわ、最悪。あれ結構範囲広いからなぁ。またノート見せてもらわないと詰むわ」

 

「真面目に授業受けてないお前が悪い。っていうか、さっきの講義のレポートも締切近いだろ。今回は本当に手伝わないからな」

 

「冷たいねぇ。まぁ、なんとかなるって」

 

 そんな他愛のない、いつも通りの会話だった。適当に相槌を打ち、たまにスマホの画面に視線を戻し、水を啜る。広い店内には、二人の他にノートパソコンを広げているサラリーマン風の男が一人と、奥のボックス席に年配の女性客が二人いるくらいで、静かなジャズのBGMが低く流れている。店員もこの時間は暇なようで、カウンターの奥から動く気配はほとんどなかった。


 静かで、退屈で、平和な日常のひとコマだった。

 

「……なぁ、今回のレポートのテーマさ」

 

 高橋が次の話題を振ろうと口を開いた時だった。

 

「……」

 

 秋山へと視線を向けると、スマホをいじる指がピタリと止まっていた。視線は妙に揺れ、なんだか気がそぞろな様子で高橋の声にも気づいていないようだった。

 

「秋山?」

 

 再度、高橋が声をかけたが、生返事すら返ってこない。よくよく見ると、秋山は手元のスマホから、時折、視線を僅かに滑らせるようにして、高橋の後方――店の奥にある席のあたりへと目を向けていた。細心の注意を払って、こっそりと何かを観察しているような、そんな不自然な視線の動かし方だった。

 

「おい、何ボケっとしてんだよ。聞いてる?」

 

 高橋が少し身を乗り出してグラスの氷をカランと鳴らすと、秋山はようやくハッとしたように視線を正面へと戻した。しかし、その表情は硬く、どこか血の気が引いているようにも見えた。普段は冷静な秋山だが、その目は明らかに強張っている。

 

 秋山はスマホをゆっくりと机に置くと、少しだけ上体を前に乗り出してきた。そして、周りの人間には絶対に聞こえないような、低く掠れた声で、囁くように言った。

 

「……いいか、絶対に振り向くな」

 

「は? なに言って――」

 

「冗談じゃない」

 

 秋山は高橋の言葉を強引に遮った。その声は極めて小さかったが、今までに聞いたことがないほど冷たく、真剣な響きを帯びていた。

 

「いいから黙って俺の話を聞け。絶対に、後ろを見るな」

 

 高橋の身体が硬直した。後ろの状況が全く分からないため、一体どういう状況なのか測りかねたまま、正面の秋山のただならぬ空気に呑まれていく。

 

「……あ、そうだ」

 

 秋山は突然、何事もなかったかのように声を上げると、自分のカバンから一冊の大学ノートをごそごそと取り出した。その豹変ぶりに高橋が目を丸くしていると、秋山はペンを握りながら、ごく自然な、いつものカジュアルなトーンで話し始めた。

 

「そういえばさ、前に言ってた研究レポート、一通り書いてみたんだけど内容が上手くまとまらなくてさ。ちょっと一緒にチェックしてくれよ」

 

 秋山はそう言って、ノートの真っ白なページをテーブルの真ん中に大きく広げた。高橋が困惑していると、秋山は「ここんところ、ちょっと順番に読んでくれよ」とペン先でノートの余白をトントンと叩く。

 

 そのまま、秋山はノートの最上段にさらさらと文字を書き始めた。レポートの添削をするような手つきのまま、滑らかな動作で綴られたその文字列を、高橋は視線で追った。

 

     ・ぜったいに大声を出すな

     ・不審な動きをするな

     ・振り向くな

 

 高橋の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。秋山は変わらず、レポートの構成に悩んでいるかのような難しい表情を作ったまま、ペン先を小さく動かして『振り向くな』の文字に注意を促している。

 

「……あー、なるほどね。じゃあ、ここはこういう風に書き直せばいいんじゃないか?」

 

 高橋は喉の奥の渇きを無理やり押し殺し、乾いた声を絞り出した。カバンから自分のペンを取り出し、レポートをチェックするフリをして、ノートに文字を書き加える。緊張のせいで指先に力が入らず、線がひどく歪んでいた。

 

     ・どんなやつ やばい?  刃ものとかもってる?

 

 いかにも真面目に議論をしてるふうを装いながら、高橋が書き終えると、秋山はすぐに自分のペンを動かした。「確かにそこ、ちょっと論理の繋がりが微妙なんだよな」などと口では適当な相槌を打ちながら、迷いのない手つきで文字を綴っていく。

 

     ・怪しい女が見ている

     ・見たかんじ武器はもってない

 

 高橋は少しだけ呼吸を整えた。しかし、それならなぜ、普段は冷静な秋山がここまで強張っているのか。何がそこまで引っかかっているのかという疑問がわく。後ろが見えない高橋には状況が掴めない。高橋は再びペンを走らせた。「ここの構成をさ……」と声を低く保ちながら、殴り書きで問いを重ねる。

 

     ・じゃあ なにがあやしい?

 

 秋山は手元のスマホをいじるフリをして、画面の上から視線をちらりと泳がせ、数秒後にまたノートへとペンを滑らせた。

 

     ・ずっとこっちを見てる

 

 そこまで書いた秋山のペン先が、一度ピタリと止まった。そして秋山は、今書いたばかりの「こっち」という三文字の上に、ぐっと力を込めて二条の横線を引いて訂正した。その横に、さらに筆圧を強めて文字を書き足す。

 

     ・ずっとお前を見てる

 

 高橋の指先が冷たくなった。こちらを見ている、ではない。その女は、振り返ることのできない高橋の背中だけを、じっと見つめ続けているという。焦燥感で頭がどうにかなりそうだった。後ろがどうなっているのか。秋山が言うように本当にまずい状況なのか。測りかねる不気味さがじわじわと募っていく。

 

     ・どんなみため? おしえて

 

 秋山はノートの端に、レポートの注釈を書き込むような細い文字で、その女の姿を淡々と書き写していった。

 

     ・黒い長袖のワンピース

     ・真っ黒な髪が床まで垂れてる

     ・肌が真っ白

     ・前髪が垂れていて、表情はよく分からない。

     ・ただ確実に、お前の斜め後ろ辺りをじっと見てる

     ・店員が全く気づいてない

 

 ノートに並んだその奇妙なディテールを読み進めるうちに、高橋の胸の奥の違和感が膨れ上がっていく。そして、店に入ってきた時のことを思い出し、ペンを握り直した高橋は、みみずがのたくるような汚い字で書き加えた。

 

     ・はいった とき そんなやついた?

 

 秋山はレポートを訂正するフリをして、その下に淡々と、しかし決定的な事実を書き加えた。

 

     ・店に入った時にはいなかった。間違いなく

 

 秋山の文字は綺麗で落ち着いていた。だからこそ、その内容の重さが際立っている。いつもこの店で二人がダラダラと長居するのは、決まって客が少ない時間帯だけだった。客が多い状態で長く駄弁っていれば店員に目を付けられて嫌な顔をされそうだし、近くの席に他の客がいるようならおしゃべりの声量にも気を付けなければいけない。だから二人はこの時間を選んでいたし、この店に入る時には、周囲の席にどれくらい客がいるのかを毎回必ずチェックする習慣があった。

 

 今日の昼過ぎ、この入り口近くのソファー席に腰を下ろした時だってそうだ。ここからは店内全体が一望できる。サラリーマン風の男と、奥の年配の女性二人。それ以外に客は誰もいなかったはずだった。もしその時から一番奥のテーブル席に別の客が座っていたなら、二人が気づかないはずがない。

 

 そして、入り口近くのこの席であれば、新しく客が入ってきたら必ず分かる。だが二人が店に入って以降、新規の客が来た気配も、店員が奥の席へ注文を取りに向かった様子も一切なかった。もちろん、店の奥に外に通じる別の出入り口があるという事もない。

 

 高橋はペンを握ったまま、じっとその不可解なノートの文字を見つめていた。店に入った時には確実にいなかったはずの女が、今、自分のすぐ後ろの席から、自分の背中だけをじっと見つめている。そんなことが本当にあり得るのか?

 

 高橋はまだその女の顔を直接見たわけではないし、実害を被ったわけでもない。今のところは、目の前にいる冷静な友人の手によって、ひどく質の悪い怪談をリアルタイムで聞かされているような、どこか現実味の薄い状況だった。だからこそ、その姿勢のまま僅かにもどかしそうに首筋を動かす。

 

(……このまま、普通に振り返っちまえばいいんじゃないか?)

 

 高橋の頭の中には、そんな考えがよぎっていた。差し迫った危険があるようではない。秋山の書き置き通りなら、女は刃物などの武器を持っている風でもない。確かに気味が悪いが、相手は女一人、こちらは成人した男二人だ。万が一、振り返ったことで相手が襲いかかってくるような異常行動を起こしたとしても、二人で力づくで取り押さえることくらいはできるはずだった。それと同時に大声を出して、すぐ近くにいるあのサラリーマンやカウンターの店員に呼びかけ、警察を呼んでもらえればどうにでも対処できる。現実的な力関係で言えば、こちらの方が圧倒的に有利な状況のはずだ。

 

 今すぐにでも後ろを向いて自分の目で正体を確かめてやりたい、という衝動が高橋の身体を刺激する。しかし、目の前に座る秋山の、見たこともないほど深刻な表情が、それを押し留めていた。秋山が意味のない嘘をつくような男ではないことは、付き合いの中で分かっている。その確信だけが、ギリギリのところで高橋をソファーに縛り付けていた。

 

 状況が掴めない高橋の表情には、じわじわと不安の色が募っていく。

 

 対面に座る秋山もまた、態度には出さないよう努めてはいたが、内面は焦燥感で満たされていた。あの奥の席の女は、確実に、決定的にやばい存在だ。それだけは本能で理解していた。だが、それをノートの文字でどう説明すればいいのかが全く分からなかった。女の特徴を言葉にすれば、ただの黒いワンピースを着た髪の長い肌の白い女という、何の飾り気もない特徴しか並ばない。ただ、不審な行動は何一つ起こしていないのに、致命的に悪いものであるということだけが、確信として伝わってくる。盗み見るように様子を窺っているのも、相手を刺激しないようにというよりも、もしも目が合えば何が起こるか分からないという恐怖から来る行いだった。

 

 ――ぴたりと、秋山のペンの動きが止まった。

 

 同時に、スッと目線を落とした秋山の顔から完全に血の気が引いていく。唇が微かに震えている。

 

 その様子に、高橋は心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に陥りながらも、周囲に悟らせないよう、レポートの相談を続けるフリをして必死にペンを動かした。

 

     ・どうした なにがあった ?

 

 秋山は震える指先でペンを握り直し、ノートの余白に、今までになく乱れた文字を書き殴った。

 

     ・近づいてる

 

 その四文字を書き終えた直後、秋山は自らの文字を否定するように、シャッと勢いよく一本の訂正線を引いた。そして、その下に掠れたインクで文字を重ねる。

 

     ・近づいていた いつの間にか

 

 『近づいている』のではない。『気づいた時には、すでに接近が完了していた』のだ。


 秋山のペンは止まらない。紙が歪むほどの筆圧で、事実だけがノートに刻まれていく。

 

     ・一瞬目を離したあいだに前の席に移動してる


 高橋の背中に、嫌な汗がどっと噴き出した。

 

     ・音は一切聞こえなかったのに


 客の少ない静かな店内だ。ジャズのBGMの裏で、誰かが席を立って歩けば、床を叩く足音や、服が擦れる音、あるいはソファーのクッションが軋む音くらいは、集中している今の二人の耳には届くはずだった。それが、何も聞こえなかった。ほんの1秒、秋山が手元のノートやスマホに視線を落としたその一瞬の隙に、女は音もなく高橋の後方へと近づいてきている。

 

 ――カランコロン


 入り口のドアの鈴が小気味よい音を立てた。

 

 二人がはっと視線を動かすと、そこには若い男女の四人組が入ってくるところだった。服装や雰囲気からして、自分たちと同じ大学の生徒と思われる。何やらワイワイと楽しそうに喋りながら、店内の空気を一気に塗り替えていく。

 

 その瞬間、張り詰めていた空気が俄かに緩んだことに秋山が気づいた。さっと高橋に目配せを送ると、秋山はすぐ近くを通った店員に向けて声を張った。

 

「すいません、会計お願いします!」

 

 新しい客へ「こちらへどうぞ」と案内しに出てきていた店員は、明るい声で「はーい、少々お待ちください」と秋山に返事をする。

 

 秋山はテーブルの上の伝票を掴み取ると、わざとらしく靴音をバタバタと大きく響かせながら、入り口近くのレジへと向かった。カバンをごそごそと探り、財布を取り出す。一時的に店の中に日常の音が増え、何人もの人の動きが生まれた。それに感化されたのか、それまでノートパソコンを弄っていたサラリーマンが大きく伸びをし、奥の年配の女性二人組も「そろそろ出ようか」と身支度を整え始める。先ほどまでの空気は完全に瓦解していた。

 

 秋山の目配せの意味に気づいた高橋は、ワンテンポ遅れてソファーから動き出した。会計は秋山に任せ、そのまま店の出口へと向かう。お金を支払い、お釣りを受け取っている秋山の横を通り抜け、高橋は木製のシックな扉を押し開けた。

 

 カランコロンと、再びドアの鈴が鳴る。

 

 一歩外の敷地へと足を踏み出すと、先ほどまでの涼しい店内の空気に慣らされていた身体が、じわっとした外の熱気に包まれた。

 

 無事に出られた。その事実が、強烈な安堵となって高橋の全身を包み込む。すっと気持ちが緩んでいくのと同時に、結局、奥の席にいるという相手は何だったのだろうかという、純粋な疑問が頭をもたげた。

 

 高橋は、ゆっくりと油圧で閉まっていく木製の扉の方へと視線を向ける。狭まっていく扉の隙間、その向こうに見える店の奥側。

 

 そこに、黒い影が――。

 

 カランコロンと、再度ドアの鈴が鳴り、秋山が扉を押し開けて外に出てきた。秋山の身体が正面に割り込んだことで視線は完全に遮られ、店の中の様子は見えなくなった。

 

 結局、はっきりとは見えなかった。だが、確かに何者かの輪郭がそこに存在していた。秋山があれほど怯えていたのは、アレのことだったのだろうか。扉が閉まった今となっては、もう確かめる術はない。

 

 「いくぞ」と強い口調で呼びかける秋山に、高橋は慌ててその背中を追うように、足を速めた。喫茶店を出た後、高橋は秋山からいくつかの小言を言われながら帰路についていた。何か身に覚えがあるかどうかなんて聞かれても、高橋には「いや全然」と答えるしかなかったし、身の回りに気を付けろよと真剣な顔で注意されても、やはり実感が湧かなかった。


 秋山と別れた後は、言われた通りいつも以上に周囲を警戒しながら歩いたが、特に何が起こるわけでもなく自宅へたどり着いた。家に入り、玄関の鍵をしっかりと閉めたところで、高橋は大きな安堵を覚えた。


◇


 ――はっと気が付いた時には、すでに夜中になっていた。


 いつの間にやらソファーで眠ってしまっていたらしい。晩飯は食べたような気もしたが、あまり記憶が判然としなかった。肌にはべっとりと嫌な寝汗が張り付いている。何やら酷く不快な夢を見ていたような感覚があったが、内容は思い出せなかった。ただ、その「嫌な夢」というワードから昼間の喫茶店の出来事が連鎖的に呼び起こされ、もしかして夢の中にまであの黒い影が出たのだろうか、などと考えた。

 

 こういう時、ホラー映画なら件の不気味な女が身体にのしかかっていたり、窓の外からこちらを覗き込んでいたりするものだ。高橋はそう思いながら自嘲気味に部屋を見渡したが、当然のように室内には何の異常もなかった。ほっと一息つき、再び眠りにつこうとベッドに入ったが、一度頭の中に浮かんでしまったあの店の奥の黒い影が頭から離れず、結局その夜はなかなか寝付けなかった。


◆


 翌朝、案の定寝坊した高橋は遅れて大学へ向かうこととなった。途中、秋山から心配する内容のメッセージが届いていた。寝坊した旨を返信すると、すぐに「何してんだ」と呆れた返答が返ってくる。いつもの日常のやり取りだった。

 

 高橋は眠気を堪えて大きなあくびをしながら、満員の各駅停車に揺られていた。眠ってしまわないよう、つり革を握る手に力を込める。その時、ふと、奇妙な視線を感じた。

 

 左右に視線を動かして乗客たちの様子を伺ったが、誰もこちらを見てはいない。高橋は首をかしげて正面を向き直した。ちょうど電車が、線路沿いに密集した木々が茂るエリアへと通り抜けるところだった。

 

 電車の窓の外にすぐそばまで木々が迫り、車体に大きな影が落ちる。光量が落ちたことで、透明だった窓ガラスは鏡の役割を果たし始めた。窓には高橋自身の姿が映り、車内の様子が映り、他の客たちの姿が映り込む。

 

 ――そこに、黒い女が映っていた。

 

 高橋のちょうど斜め後ろ側の座席に、その女は座っていた。黒い長袖のワンピース。床まで垂れるほどに長い髪。

 

 すぐに日光が差し込む開けたエリアへと電車は抜け、窓の鏡面は消えて外の景色に戻った。ほんの一瞬の出来事だった。だが、確かに見えた。いつからそこにいたのか、電車に乗った時にはそんな女の姿には気づかなかったはずだ。

 

 見間違いか、それともまだ寝ぼけているのか。高橋が心臓の鼓動を速めたその時、線路が高架下に入り、再び車内に暗い影が差した。

 

 いる。やはり、いる。

 

 窓ガラスの向こう側で、女の長い髪が無造作に広がり、隣に座っている無関係な乗客の足元にまでかかっているのが見えた。しかし、その乗客はスマホを見たまま、鬱陶しがる素振りすら見せない。精度が欠けたこの光景そのものが、決定的に不気味で、異常だった。

 

 こいつが昨日秋山が言っていた女…?高橋の視線が、窓の中の女の顔へと吸い寄せられる。前髪の隙間から、隠されていた目が、のぞいた。

 

 ――目が合った。

 

 高橋はツイと視線を泳がせ、窓から目を逸らした。全身の筋肉が緊張で固まっていく。俺は何も気づいていない、ただぼんやりと外を眺めていただけだというテイを、必死に装う。

 

 次の降車駅まで、あと一分。とにかく知らないふりを通すしかない。息が詰まるような、気が遠くなるほど長い時間が流れる。いや、息を殺してはいけない、不自然だ。普段通りに呼吸をして、普段通りにただ立っているだけだと自分に言い聞かせる。

 

 やがて、車内に駅への到着を告げるアナウンスが響き渡った。高橋は首筋に冷や汗をかきながら、そ知らぬふりをして開いたドアからホームへと降りた。足に力が入らず膝が震えそうだったが、慎重に歩幅を保ち、最短距離で改札の方向へと足を運ぶ。視線は決して後ろへは向けず、ただ前方だけを固定した。

 

 プシューと音を立てて電車の扉が閉まる。高橋はようやく胸の奥から安堵の息を漏らし、改札へ続く階段の方へと歩き出した。背後で電車がガタゴトと音を立てて動き出し、自分の横を通り過ぎていく。

 

 その通り過ぎる窓ガラスに、何か、黒いものが――。視界の端に何かが触れた気がしたが、高橋は強引に視線を前に固定した。見ない。絶対にそちらは見ない。高橋はそのまま階段を進み、電車は重い音を立てて駅のホームを出て行った。


◆


 大学構内にあるオープンエアのカフェテラス席に、秋山は一人で座っていた。そこへ高橋がようやくたどり着いた。

 

「遅いぞ」

 

 声をかける秋山に対し、高橋の口からは「あぁ」とも「うぅ」ともつかない、はっきりしない言葉しか出てこなかった。そのただならぬ様子に、秋山は眉をひそめて「どうした?」と問いかける。高橋は先ほど電車の中で目撃した内容を、掠れた声で伝えた。

 

 話を聞き終えた秋山は真剣な顔つきになり、「ストーカーなのか? いや、そんなものじゃ……」と何事かをぶつぶつと呟きながら考え込み始めた。高橋はまだ収まらない身体の震えを抑えるため、両手で自分の腕をさする。会話の合間に、視線をカフェテラスのショーウィンドウへと向けた。

 

 ――見られている。

 

 ガラスの反射の中に、それは映っていた。自分のちょうど斜め後ろの空間。黒い服を着た、髪の長い女が。こちらを、じっと見つめている。

 

 高橋はテーブルの上でそろそろと手を伸ばし、秋山の手に触れて合図を送った。これで昨日と同じように、秋山が察して動いてくれるはずだと思った。また喫茶店のときのように、上手くこの場を切り抜けるための助け舟を出してもらうしかない。高橋の頭にはそのような解決策しか浮かばなかった。

 

 しかし、秋山は怪訝な顔をした。どうしたんだ、という風に視線を向けてくる秋山に対して、高橋は極めて小さな声で囁いた。

 

「……後ろに、いる」

 

 秋山はますます眉間のシワを深くし、そのまま高橋の後方の空間へと視線を泳がせた。


「いや、今はどこにもいないが?」


 秋山はそう言いながら、不審者を探すように周囲の座席へときょろきょろと目を向けている。


「俺の、すぐ後ろだ。お前から見て、右の席」


 高橋が必死に視線を感じる方向を示すが、秋山は首を横に振るだけだった。


「いや、だからいないって。そこは空席だ」


 その言葉を聞いた瞬間、高橋の中に激しい驚きと困惑が突き上げた。いない? なぜ見えないんだ。現実との整合性が狂う。高橋はとっさに自分の首を回して後ろを振り返ろうとした。


 だが、その瞬間。


 ショーウィンドウのガラスの向こうで、女の口元が、不気味に歪んだ気がした。生存本能が警鐘を鳴らす。とっさに、今ここで振り向いてはいけないと強く直感した。

 

 とにかく今はこの場所から離れるしかない。高橋はショーウィンドウのガラス越しに女の様子を注視し、ゆっくりと腰を浮かせた。女が座っている方角には決して顔を向けないよう、細心の注意を払いながら、慎重に歩を進めこの場から離れる。

 

「おい高橋、急にどうしたんだよ」


 後ろから秋山が声をかけてくるが、高橋はそれに答える余裕もなく歩き続けた。ただならぬ様子を察した秋山は、それ以上何も言わずに高橋の後をついて歩いた。いくら見回しても昨日の女の姿は見当たらず、本当に近くに居るのか、それとも高橋の頭がおかくなってしまったのか、秋山には判別が付けられずにいた。


◆


 カフェテラスを離れた二人は校舎内へと入り、そのまま次の講義が行われる教室へと向かった。席に着いた後、二人は声を潜めて言葉を交わした。


「本当に見間違いじゃないんだな?」


「窓の反射に映ってたんだ。電車でも見たんだ、見間違いなわけない」


「……だが、俺が見た時には、そこには誰もいなかった。カフェテラスから離れる際にも見渡したが、どこも空席だったぞ」

 

 二人の意見は全くかみ合わず、言葉を交わしても腑に落ちる結論は出なかった。


 やがて、チャイムが鳴って講義が始まった。


 高橋は教授の声に全く集中できないまま、ぼんやりと前方の黒板を見つめていた。その時だった。


 再び、背後から強烈な視線を感じた。まさか、と思った。


 だが、この講義室の教壇の周りには、自分の背後を映し出す鏡のようなものは存在しない。高橋は震える手でノートの切れ端に『後ろに誰かいるか?』と書き、隣の秋山へと滑らせた。秋山はさりげなく後方を振り返り、メモの余白に『誰もいない』と書き加えて返してきた。


 ……しかし、先ほどのやり取りを考えるならば、それは当然の結果かもしれなかった。あの女は秋山には――いや、電車でのことも考えると、自分以外の人間には、最初から認識すらできないのかもしれないのだ。


 高橋はポケットからスマートフォンを取り出した。カメラを起動し、インカメラのモードにする。周囲に怪しまれないよう慎重に角度を調整し、先ほどから視線を感じる辺りの空間へとレンズを向けてみた。液晶画面に映し出された映像の中には、誰も映っていない。その他の席も、学生たちが退屈そうに座っているだけだ。


 気のせいだったのだろうか。恐怖のせいで、自分の頭がおかしくなってしまったのか。高橋は小さく息を吐き出した。

 

 スマートフォンの電源ボタンを押し、画面のバックライトを消す――その瞬間だった。


 かすかに何かが、見えた。


 画面の消えたスマートフォン。その真っ黒に変色した光沢のあるガラス表面に映り込んだ、背後の教室の薄暗い反射のなかに。何かの影が、確かにあるような、ないような――輪郭の潰れた黒い塊が、静かに座ってこちらを眺めているように見えた。


 そこに、いるのか。それとも俺の頭が狂ったのか。はっきりとしない女の影に、高橋はついにしびれを切らした。見えない不安の限界を超え、とにかく自分の目で確かめるしかないという衝動が勝った。高橋はゆっくりと首を回し、後ろへ向けて振り返った。相手に気づかれないよう、視界の端でじわじわと捉えるように、極めて慎重に視線を滑らせていく。無意識のうちに、呼吸が荒く乱れていくのが分かった。両目は限界まで見開かれ、額からはじわりと脂汗が滲み出る。


 隣に座る秋山が、高橋の尋常ならざる異変に気づき、ノートの切れ端に『おい、どうした?』と書いて滑らせるが、高橋の意識には全く入ってこなかった。高橋の様子がおかしいことに気づいた秋山が、小声で呼びかけてくる声すら、今の高橋の耳には一切届いていなかった。


 視線を、ただ、後方へ。相手に悟られないよう細心の注意を払いながら、視線を向けた。


 向けた。



 ―― め が あ っ た ――



 ばたんと、大きな音を立てて高橋の身体が座席から床へと崩れ落ちた。

 

「おい! 高橋!?」


 隣に座っていた秋山が、見たこともないほど焦り狂った声を上げて高橋の身体を抱き起こす。


 講義室の静寂は一瞬で吹き飛んだ。「どうした」「何だ?」と周囲の学生たちが一斉に騒ぎ出し、教壇に立っていた教授も生徒が倒れたことに気づいて大慌てで駆け寄ってくる。「誰か、養護教諭を呼んでこい! 」と叫ぶ声や、「救急車を呼んだ方がいいんじゃ」と心配そうに携帯を取り出す声が飛び交う。


 それらの喧騒や怒号をすぐ近くで聞きながら、秋山は必死に高橋の名前を何度も呼び続けた。しかし、床に横たわった高橋の身体からは、何の反応も返ってこない。


 ぐったりと横に傾いた高橋の顔。その両目は見開かれたままで、開かれた瞳は生気を失い、うつろでありながら真っすぐ一点だけを凝視していた。


 その視線の先にあるのは、ただの講義室の、誰も座っていない空っぽの座席。


 周囲の誰の目にも、そこには何一つ見えていない。しかし、光を失った高橋の瞳の表面に映り込んでいるその座席の反射の中にだけは、黒い影が今も不気味にうごめき続けていた。

意識不明

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