『接続圏外』
投稿日時: 20X2/08/14 10:51:17
投稿者: R・Nさん(26歳・男性・クリエイター )
実家のある村が、周辺の自治体と合併して「町」になっていたことを、俺はつい最近まで知らなかった。
大学進学を機に上京し、そのまま都内の企業に就職して数年。もともと生まれた土地に大した愛着もなく、家族との連絡も盆と正月に義務的な生存確認のメッセージを交わす程度だったからだ。
数年ぶりに降り立った最寄り駅は、俺の記憶にある錆びついたトタン屋根の平屋ではなく、コンクリート造りの小綺麗な駅舎へと建て替えられていた。駅前には真新しいロータリーがあり、見慣れないチェーンのコンビニや、移住者向けらしき小洒落たカフェの看板が並んでいる。町おこしの一環として、一部の区域ではそれなりの開発が進んでいるようだった。
地方の田舎町がそう簡単に都会のようになれるはずもないが、帰省する側の身としては、多少なりとも交通網やインフラが整備されるのは好都合だった。ただ、都会の利便性に完全に慣れきった身からすれば、新しくなった駅前を見回しても、どこか中途半端で物足りない印象は拭えなかったが。
実家へ向かう道すがら、新しく舗装されたアスファルトの道路を歩きながら、俺は変わりゆく故郷の景色を眺めていた。ただ、駅から少し離れて実家の方へと近づくにつれ、道は昔のままの狭くひび割れたものに戻り、周囲の景色もいつもの見慣れた退屈な田舎の風景へと収束していく。
昼間にも関わらず、辺りを歩く人とすれ違う事もない。そんな寂しい景色を目で追っているうちに、俺の足は自然と思い出を辿るかのように、かつて集落の端にあった古い神社へと向かっていた。
だが、たどり着いた場所を見て、俺は思わず足を止めた。
神社は、跡形もなく消え去っていた。
鳥居も社殿もすべて解体され、かつて境内だった場所には、ただ古びた石造りの土台だけが虚しく残されている。倒壊の危険があるからと取り壊されたのかもしれない。なにせ俺が上京した頃には、既に管理する人間がいなくなりボロボロだったのだから。
まぁ、もともと村の歴史にもこの神社の謂れにもこれっぽっちの興味もない俺には、ここがいつからあって、一体何を祀っていたのかすら知らないし、どういう経緯で片づけられたかなんてのはどうでもいいことだ。文化財の保護なんて名目で、下手に税金を投入して維持されるくらいなら、さっさと潰されてしまった方がいい。
――二、三歩足を進めて辺りを見渡す。
社殿が消えた後は、人の手が入っていないようだった。かつての境内は好き放題に伸びた雑草で覆い尽くされ、周囲の木々から落ちた大量の枯葉が何層にも厚く降り積もっている。
ここは小学生の頃、学校帰りに悪ガキ仲間と集まっては、鬼ごっこや秘密基地作りをしてよく遊び回った場所だった。当時は管理人や村の大人たちも、境内で俺たちが騒ぐことに関しては特に文句も言わず、大らかな目で見ていたように記憶している。
自然のままに放置され、すっかり森に飲み込まれつつある元遊び場を眺めながら、俺は他愛のないノスタルジーに浸っていた。
しかし、かつて社殿が建っていた場所のさらに裏手、木々に遮られて境内からは直接見えない森の奥へと視線を向けた時、俺の脳裏にある記憶が滑り込んできた。
森の木々を少し奥まで進んだ先、山の麓にひっそりと口を開けている、薄暗い洞穴のことだ。
――あそこだけは、完全に違った。
神社の境内で遊ぶ分には何も言わなかった大人たちが、あの森の奥にある洞穴にだけは、絶対に近づくなとそれこそ口酸っぱく、異常なほどしつこく言い聞かせていた。
ある時、探検のつもりで森の奥へ侵入し、洞穴の入り口を塞ぐ頑丈な鉄柵の鍵を弄くっていたところを、管理人の老人に見つかり、信じられないような剣幕で怒られたことがある。老人は普段の温和な姿からは想像もつかないほど顔を真っ赤にし、有無を言わさずに俺の頭を引っぱたいた。
大人たちのただならぬ拒絶の空気と、理由の分からない理不尽な暴力は、子供心に強い不快感として刻み込まれていた。今にして思えば、あの過剰な怯えも怒りも、神だの仏だのといった田舎の老人たちの古い迷信深さが原因だったのだろう。
今の俺はあの時の老人たちと同じ「大人」だ。都会に出て合理的な生活を送る身からすれば、理由も考えずに昔からのルールを思考停止で守り、子供に暴力を振るうなど、滑稽で理不尽な過保護でしかなかったのだと思える。
普段の俺なら、わざわざこんな鬱蒼とした草木を掻き分けてまで森の奥へ動き回るような真似はしない。上着が汚れるのも面倒だ。
だが、あの理不尽に殴られた記憶が頭をもたげた瞬間、俺の胸の奥から妙な反発心が湧き上がってきた。ちょっと中を見てやるくらいどうってことないだろう、と大人たちの古い迷信を小馬鹿にするような、そしてあの理不尽な記憶に対して今更ながら当てこすりをしてやりたいような興味に突き動かされ、俺は古い落ち葉を踏みしめながら、神社の裏の森へと足を踏み入れた。
◇
――生い茂る木々の隙間を縫うようにして奥へ進むと、あの頃と同じ、山の麓の洞穴が見えてきた。
近づいてみると、あの時俺たちの侵入を頑なに阻んだ鉄柵が、今もそこに残っていた。しかし、長年の雨風に晒され続けたその柵は、全体が赤黒い錆で完全に覆われ、見る影もなくボロボロに朽ち果てていた。
俺は鼻で笑い、革靴の爪先で鉄柵の根元を軽く蹴りつけた。
ガシャア、と呆気ない金属音が響き、錆びついたボルトが弾け飛んで、柵の一部が地面へと崩れ落ちる。大人が命がけで守っていた「掟」の象徴が、ただの粗大ゴミのように転がるのを見て、俺は奇妙な全能感に満たされながら、暗い洞穴の奥へと足を踏み入れた。
洞穴の内部は、ひんやりと湿った空気に満ちていた。
入り口から外光が届くのは最初の数メートルだけで、その先は完全な暗闇が支配している。外から眺めたときにはただの小さな浅い窪みのようにも見えたが、実際に足を踏み入れてみると、思いのほか奥行きがあるようだった。
俺はポケットからスマートフォンを取り出し、そのライトで足元を照らしながらゆっくりと奥へと進んだ。人工的な電灯などは一切設置されておらず、文字通りの天然の洞穴のままであるようだった。自然のまま放置されているようだが、ごく僅かに人の手が入っている形跡も感じられる。
少し奥へ進むと、背後から聞こえていたはずの風の音や雑草のそよぐ音が、急に遠ざかって小さくなった。それと同時に、自分の足音が低く篭った音に変わる。音の反響の仕方が外とは決定的に違うという、閉鎖空間特有の奇妙な違和感が鼓膜を通じて伝わってきた。
地面は尖った石ころばかりだった。入る前は、こうした暗がりに蛇や虫が這い回っていたら嫌だなと少し警戒していたのだが、不思議なほど生き物の気配がしない。羽虫の一匹すら飛んでいなかった。
足元の凹凸に気を配りながら、俺はさらに歩みを進めていく。
歩きながら、ふと子供の頃に悪ガキ仲間とこの洞穴についてあれこれと噂し合っていたことを思い出した。お化けの住処だと言う奴もいれば、恐ろしい悪魔が封印されているんだとか、ここが神様の本当の家なんだと主張する奴もいた。中には、村を襲った悪い奴を閉じ込めているだの、巨大なサルが潜んでいるだのと言い出す奴までいたように記憶している。
大人になった今の頭で考えれば、どれも子供の他愛のない妄想だと一秒で切り捨てられる話だ。そもそも頑丈な鉄柵で入り口を完全に覆われていたのだから、もし本当に生き物が閉じ込められていたのだとすれば、とっくの昔に餓死して白骨化しているはずだ。生き物なんているわけがない。
どうせこの先には、神様とやらを祀るためのちょっとした祭壇でもあるのだろう。あの神社の解体されっぷりから見れば、もしあったとしてもとっくに朽ち果てて崩れているだろうが。
暗闇を警戒しながら、革靴の底で石を蹴る音だけを響かせて進む。結構な深さがあるように感じられたが、実際にはゆっくり歩いて2分ちょっとで、光の先が行き止まりを照らし出した。足元を警戒しながらのこれなら、さっさと歩けば1分程度だろうか。
洞穴の最奥だ。
そこには、やはりというべきか、ちょっとした祭壇のようなスペースが存在していた。天然の平らな岩を台座にした簡素な作りではあったが、意外にもそれは壊れておらず、当時の形を綺麗に保ったまま佇んでいた。その中央に、おそらくは祠なのだろう、年季の入った木製の小さな箱状の物が置かれていた。
しん、と静まり返った暗闇の奥で、俺はそれを見つめたまま、少しの間だけ思考を止めていた。自分でも気づかないうちに、この場所が持つ独特の冷たい空気に気圧されていたのかもしれない。何より、外の神社があれほど跡形もなく消え去っていたというのに、洞穴にある祭壇だけが、まるで時間が止まっていたかのように当時の形を保っていたことが、俺の予想を裏切っていた。
とはいえ、わざわざここまで歩いて入ってきたのだ。俺は特に深い意味もなく、ただの軽い興味本位から祠の前に一歩近づき、正面に取り付けられている小さな扉を開こうと手を伸ばした。
その時だった。
手元が狂い、ライト代わりに持っていたスマートフォンが指先から滑り落ちた。焦って掴もうとした手が、かえって端末を強く弾いてしまう。
スマートフォンは天然石の祭壇の上へと落下し、硬質な鈍い音を立てて二、三度激しく跳ね上がると、そのまま中央の祠へと直撃した。
ガシャア、と、乾いた、何かが決定的に瓦解する音が暗闇に響き渡る。それだけで、簡素な作りの祭壇はあっけなく崩れ落ち、その上に乗っていた木製の祠も台座から転落して、床の石礫に叩きつけられた。
何百年もの間、村の老人たちが恐れ、守り続けていたはずの象徴は、俺の不注意によって一瞬で無惨に大破した。
だが、そんな神域の崩壊に気を取られたのは、ほんの一瞬のことだ。
唯一の光源であったスマートフォンのライトが、落ちた際にちょうど下を向いてしまったらしく、洞穴の内部を均一に満たしていた光が一気に消失したのだ。視界は文字通りの完全な漆黒に包まれた。
「糞が……っ」
俺は小さく毒づき、暗闇の中で慌てて地面に両手を突き、スマートフォンを手探りで探し始めた。手の平の先に突き刺さるのは、ごつごつとした痛い石の感触ばかりだ。手の位置を動かすたびに、バラバラに砕け散った祭壇の木片や、祠の破片らしき何かが指先に触れたが、そんなものはどうでもよかった。今の俺にとって重要なのは、自分の高価なスマートフォンだけだ。
しばらくの間、必死に地面を這い回っているうちに、ようやく暗闇に目が慣れてきた。墨を流したような黒一色の世界の中に、かすかに周囲の岩肌の輪郭が浮かび上がってくる。
その視界の隅に、ごく薄い光の漏れがあることに気づいた。そちらへ視線を向けると、地面のくぼみに挟まるようにして、スマートフォンが転がっていた。
「あった……」
ホッとして、俺はそれを拾い上げた。何度も硬い石の台座で跳ね、尖った石だらけの地面に落ちたのだから、スマホが壊れていないかどうかが心配だった。
画面を表示させてみるとバックライトは問題なく点灯し、大きく割れている様子もない。どうやら致命的な故障は免れたらしい。ただ、筐体のアルミ部分やガラスの表面に、無数の細かい傷がついている可能性は十分にある。
洞穴の薄暗い光の中では、どこにどれだけの傷がいっているのかよく見えない。早く外の明るい場所に行って確認しよう。こんな場所にわざわざ立ち入ったせいで、もしスマホに傷がついていたらと思うと、じわじわと腹が立ってきた。
早くこんな場所からおさらばしようと、外へ向けて一歩足を出す。
バキリ、と、革靴の底で何かを激しく踏み砕く嫌な音が、洞穴の壁に反響した。散らばった祠の残骸か何かにでも当たったのだろうが、俺は振り返りもせず、ただ舌打ちをしてスマートフォンの画面を見つめながら歩き出した。
◆
スマホのライトで辺りを照らしながら、俺は早足で通路を引き返していた。ただ、しばらく進んだところで、俺の足がピタリと止まった。
道が、左右の二股に分かれていた。
(……分岐なんて、あったか?)
入る時は完全な一本道だと思い込んでいたが、ライトの狭い照射角のせいで見落としていたのだろうか。暗闇を照らしてみるが、どちらの道の先からも、外からの光は一切見えなかった。
俺は軽く舌打ちをし、直感で適当に右側の通路を選んで足を進めた。
進む。ごつごつとした岩肌をライトで舐めながら、さらに進む。
おかしい。
すでに数分は歩いているはずなのに、一向に外に出る気配がない。入る時は最奥の祭壇までゆっくり歩いても2分ちょっと程度だったはずだ。どう考えても道を間違えたとしか思えなかった。
このまま闇雲に進んでも、外に出られないかもしれない。俺は一度息を吐き、今来た道をそのまま真っ直ぐ戻ることにした。
回れ右をして、確実な足取りで引き返す。
進む。
やはり数分歩いたところで、前方に再び、道が二股に分かれている場所が見えてきた。
(よし、戻ってこられた)
そう安堵しかけた瞬間、俺は凍りついた。
いや、違う。そんなはずはない。
先ほど俺が迷い込んだのは、祭壇のある奥側から入り口の方向へと戻る途中のことだ。つまり、祭壇を背にして、二股の道が『前方』に見える状態で分岐に遭遇した。
今はその二股に分かれた右側の道から、元いた場所へ向かって戻っているわけだ。
だとするなら、もし先ほどの分岐に正しく戻ってきたのだとすれば、目の前に見えるのは合流した一本の道――つまり祭壇へ続く通路だけのはずだ。入り口に向かうもう一方の分岐は、目の前ではなく、今いる通路と並ぶような位置に隠れていなければおかしい。
それなのに、俺の目の前には、あからさまに左右へ分かれる新しい二股の道が広がっている。
つまり、この分岐は、先ほどの場所とはまた別の分かれ道ということだ。
背筋に、ぞっとするような冷たいものが駆け上がった。
こんな入り組んだ洞穴だったのか? もしかして、子供の頃に大人たちが口酸っぱく「近づくな」と言っていたのは、単に下手に入り込むと迷って出られなくなる危険な構造だからだったんじゃないか?
「……落ち着け」
声に出して自分に言い聞かせる。まだそんなに深い場所に入り込んだわけじゃない。最初の分岐まで正しく戻りさえすれば、今度は入り口側の道を選び直して外に出ればいいだけの話だ。
頭の中で必死に位置関係を整理する。先ほどは、入り口に向かって右側の道を選んで迷った。左側が本物の入り口で、右側が別の道だ。
だとすれば、ここも右に進むのが正解だろう。今まで歩いてきた感覚では、洞穴の地面には高低差がほとんどなかった。平面に道が続いている以上、位置関係的に右側を選べば、必ず入り口側に近くなるはずだ。
……スマートフォンの画面を見ながら足を止める。
1分だ。二度目の分岐から、きっかり1分歩いてきた。次の分岐を見落とさないよう注意深く辺りを照らしながらではあったが、足を止めずに歩き続けたはずだ。
それなのに、新しい分かれ道どころか、何の変哲もない行き止まりにすらたどり着かない。感覚的な話をすれば、最初に後戻りした分の時間と合わせれば、とっくに入り口近くの最初の分岐に戻るだけの時間が経過しているはずだった。
時計を見始めたのは二度目の分岐からだが、俺の時間感覚がそこまで激しく狂っているとは到底思えなかった。
ということは、やはりこの道は間違いということなのだろうか。しかし、位置関係を論理的に考えるなら、どう考えてもこちらの道が入り口側に一番近くなるはずなのだ。
どうする。このままもう少し前進すべきか、それとも再び引き返すべきか。
自分の考えは間違っていないはずだ。道が激しく上下しているわけでも、急激なカーブを描いているわけでもない。平面の移動である以上、俺の出した答えは合っているはずだった。
ならばどうする。このまま先へ進むか。いや、しかし――遭難時は、下手に動かない方がいいと聞いたことがある。
遭難? 俺は今、遭難しているのか?
「……落ち着け。落ち着け」
確かに論理的に考えれば、こちらの道の方が入り口に近いはずだ。しかし、もはや自分の推測に自信を持って「これが正しい」と言いきれる状況ではなかった。
仕方がない。認めよう。ここは警察に連絡し、救助を待つべきだ。
入り口の鉄柵を壊し、祭壇も色々と破壊してしまったことがバレれば当然激しく咎められるだろうし、器物損壊などの罪に問われる可能性だってある。だが、背に腹は代えられなかった。
そこで、最悪の事実に思い至り、急に心臓の鼓動が跳ね上がった。
そもそも、俺がこの神社へ向かったのは単なる気まぐれだ。家族を含め、誰にもここへ行くなんて話はしていない。おまけに、駅から実家へ向かう道中、田舎特有の人の無さのせいで誰一人として通行人とすれ違わなかった。
つまり、今この瞬間に俺がこの洞穴の中にいるという事実を、世界中で誰も知らないのだ。自分から誰かに連絡を入れない限り、ここに閉じ込められていることにすら一生気づかれない。
猛烈な焦燥感が津波のように押し寄せてきた。早く誰かに連絡を繋げなければ、本当に手遅れになる。
どうせ地元にはもうほとんど帰ってこないのだ。無事に出られさえすれば、さっさと都会の自分のアパートへ帰ればいい。地元の奴らと顔を合わせる必要も最初からない。
そのためには、一旦さっきの二つ目の分岐まで戻ろう。出来るだけ入り口に近い方が救助の手だって早いだろうし、電波の入りだって良いはずだ。
後戻りするため、俺は今歩いてきたばかりの後ろの暗闇へと振り向いた。
ライトの光が照らし出したのは、左右、中央へと綺麗に分かれた、巨大な“三つ股”の分岐だった。
「は……?」
ありえない。そんなはずはない。
直前だ。今さっき俺が見た場所だぞ。新しい分岐に遭遇しないかを、しっかり確認しながら歩いてきたのだ。それが、こんな三つに分かれた道を、見逃した?
ありえない。
大きな鍾乳洞を抱えるような長い洞窟を何十分も歩いた先にある空間であれば、たくさんの分岐に出会うこともあるのだろう。だが、ここはそこまで山の奥底ではない。そんなに幾つもの道が広がるスペースなど、どこにもないはずだ。
足がすくみ、立っていられなくなる。俺は激しい恐怖の中で、壁に手をついてその場にしゃがみ込んだ。
そうだ、警察だ。誰かに知らせないと本当に誰も来ない。グダグダと考えている余裕はない。今すぐに連絡を。
画面に表示された数字を強く押した。
――1・1・0。
プッシュ音が暗闇に響き、スマートフォンのスピーカーから、プルル……と静かに呼び出し音が鳴り始めた。
プルル。プルル。プルル。
呼び出し音が虚しく続く。なぜだ。なぜ出ない。そこらの店にかけているわけではない。110番だぞ?
電波が悪くて繋がらないならともかく、アンテナは最大を示し、呼び出しがかかるのになぜ出ない。いつまで経っても出ない警察にしびれを切らし、俺は電話帳に登録している相手へ片っ端から連絡を入れてみた。
しかし、誰にかけようとも全く同じように、冷徹な呼び出し音だけがいつまでも鳴り続ける。ならばとSNSを開き、SOSの書き込みを試みた。必死の思いで文章を打ち込み、エンターで入力する。
だが、画面は「読み込み中」を示すインジケーターが途中で止まり、結局いつまで経っても投稿が完了することはない。
精神が限界まで追い詰められ、怒りと恐怖のあまりスマートフォンを地面へ投げ出しそうになる。だが、俺は何とかギリギリのところでそれを堪え、スマートフォンをぎゅっと胸元で掴んだ。
今となっては、誰にも存在を知られていないこの暗闇の中で、この冷たい精密機械の画面だけが、外の世界と自分を繋ぐ唯一のアイテムだった。
助けを待つにしても、これからどれくらいの時間がかかるか分からない。電気を節約しなければと思い至り、しばらく画面の表示を消して暗闇の中で耐えようと考えた。誰かから折り返しの電話がかかってくる可能性だってあるため、本体の電源自体は落とさない。
ふと、画面の隅にある表示が目に入った。
電池の残量が、残り「5%」を示していた。
「……そんな馬鹿な」
ここに来たときには、まだ「90%」以上は間違いなく残っていた。いくら洞穴の中でライトを使い、電話やSNSを繰り返して電力を消耗したとしても、こんな速度で減るわけがない。おかしい。そもそも、先ほどまで連絡を試みていた際には、画面の電池残量はこんな極端な数字ではなかったはずだ。
呆然としている俺の目の前で、数字は無慈悲にカウントダウンを始め、遂に「1%」の表示へと変わった。
「嫌だ……っ、おい、ふざけるな! 出せよ!!」
喉の奥から、乾いた絶叫が漏れ出た。それは紛れもない自分自身の声だったが、恐怖のあまり他人の絶叫のようにすら聞こえた。
急速に血の気が失せ、指先から完全に四肢の力が抜けていく。スマートフォンが、俺の手から力なく零れ落ちた。
その落ちていく一瞬の刹那、液晶画面の青白い光が、ふっと完全に消え去った。
世界が文字通りの完全な漆黒に包まれた瞬間、暗闇の底から、スマートフォンが地面の石礫にぶつかる硬い音が、カツンと静かに響き渡った。
足跡途絶




