『遅延運行』
投稿日時: 201X/6/23 19:18:16
投稿者:T・Sさん(29歳・男性・営業職)
頭痛を覚えるほどの残業を終え、私は帰路の路線バスに揺られていた。
時間帯は夜の帳が下りる手前、世界が急速に灰色へと染まっていく夕暮れ時だ。バスの窓にはシトシトと陰鬱な雨が降り注ぎ、水滴の膜のせいで外の景色はひどく歪んで見えにくい。
車内は冷房が効いているはずなのに、どこか湿気を含んでムシムシとしていた。私は息苦しさに耐えかねて、首元のネクタイを少し緩める。鼻腔を突くのは、濡れた乗客たちの衣服とアスファルトが混ざり合った、雨の日特有のあの嫌な臭いだ。
「まもなく、〇〇――」
車内アナウンスが次の停留所を告げる。
降りるために降車ボタンへ手を伸ばした。しかし、指先がプラスチックの表面に触れるわずか一瞬前、まるで私の動きを先読みしていたかのように、誰かの手によってボタンが赤く点灯した。
ピンコーン、と無機質なチャイムが車内に響き渡る。私は少し浮かせた腰を諦めるように座席に戻し、手すりに立て掛けていたビニール傘の柄を握り直した。手持ち無沙汰になり、ポケットからスマートフォンを取り出して画面の明かりをぼんやりと眺める。
バスが速度を落とし、停留所へ滑り込むと同時にドアが開いた。私は席を立ち、運転席側へと歩を進める。運賃箱の読み取り機に定期券をかざし、ピピッという電子音が鳴ったのを確認。
そのまま一歩、外の雨の中へと踏み出そうとした、その瞬間だった。
『パアアアアァァァァァ――――――――――――――――ッ!!!』
鼓膜を破らんばかりの、凄まじいクラクションの狂叫。続いて、巨大な鉄塊同士が全力でへし折れ、噛み砕き合うような、凶悪な質量衝突の音が爆発した。
反射的にバスの前方へと顔を向けた私の視界を、猛烈なハイビームの白い光が埋め尽くす。フロントガラスが木っ端微塵に弾け飛び、ひしゃげたダッシュボードとハンドルが、ゆっくりと私の肉体へ突き刺さり、めり込んでくる。
死の間際の風景が、ミリ秒単位に極限まで引き延ばされる。鉄板が肉を削ぎ、骨を砕き、自分の身体が文字通り内側から崩壊していく凄絶な痛みが、永遠とも思える引き延ばされた時間の中で、私を苛み続けた。
―― 唐突に、意識が跳ね上がった。
気がつくと、私はバスの座席に深く腰掛けていた。だるい身体を無理やり起こし、警戒するように素早く周囲の様子を窺う。窓外には、眩しいほどの青空が広がっていた。車内には数人の乗客がおり、それぞれが思い思いの姿勢で静かに座っている。夕方の雨も、あの凄惨な光の暴力も、どこにもない。
「またか……」
私は心の中で深く、重いため息をついた。これは、私がここ数ヶ月の間、何度も繰り返し見続けている『悪夢』だった。最初はあまりのリアルさに発狂しそうになったし、今でも自分の身体が肉片へと変わる瞬間の感覚だけは慣れることができず、目覚めるたびに精神が酷く摩耗する。それでも、回数を重ねるうちに「これはただの夢だ」と脳が防衛本能的に処理できるようになっていた。
夢の中のシチュエーションは、決まって同じだ。鬱陶しい雨の日の夕方。ネクタイの息苦しさと、誰かに先を越される降車ボタン。
あまりのリアルさに、最初はこれが「事故の予知夢」ではないかと本気で怯えたこともあった。だから現実の世界で本当に雨が降った日には、恐怖に震えながら、予定の停留所よりも数個手前で無理やりバスを降りて歩くなど、必死の警戒を試みたものだ。
しかし、現実の私がどれだけ警戒しようとも、あの恐ろしい事故が発生することは一度として無かった。現実のバスは何のトラブルもなく、ただ淡々と日常の運行を続けている。なのに、眠りの中の私だけが、今もなおあの夕暮れの雨の中に囚われ続けているのだ。
――ふと、目が覚めた。
視界に飛び込んできたのは、窓ガラスを濡らす無数の雨粒だった。日は暮れかけており、車内には妙な熱気が満ちている。
「ああ、またいつもの夢か……」
私はいつもよりだるい頭のままでネクタイを緩める。アナウンスが流れ、降車ボタンが赤く点灯する。これもいつも通りだ。定期券を手にして運賃箱へと進み、いつものように読み取り機へかざす。
そして、外へ出ようとした瞬間――やはり、あの絶望的な音が響いた。
だが、引き延ばされる死の刹那、私は決定的な異常に気づいた。
(あれ……? いつもより、長いぞ……?)
フロントガラスを突き破って侵入してきた大型トラックの巨大な質量が、バスの前半部を完全に圧殺する。私の身体は衝撃で後方へと凄まじい勢いで吹き飛ばされた。背後に並ぶ座席の角に背中から激突し、バキリと硬く重い音が車内に響く。左の肩の骨が完全に砕け、肉を突き破ったのが分かった。
いつもなら、衝突の瞬間に意識が暗転して目が覚めるはずだ。それなのに、今回は違った。内臓が破裂し、避けた肉体からは血が噴き出す感覚が、狂ったように鮮明な五感のシグナルとなって脳に直接注ぎ込まれる。いつもより遥かに激しい、のたうち回るような激痛。
そこで初めて、心臓が凍りつくような最悪の思考が脳裏をよぎった。
夢? 本当にこれが夢なのか?
いつもなら「気づけば座席に座っている」という断片的な意識から始まっていたはずだ。なのに今回は、明確に「眠りから目覚める」という形をとっていた。あの起きた瞬間のリアルなだるさは、夢の演出などではない。現実の私が、今さっきまでバスの中で本当に居眠りをしていた証拠だったのではないか。
だとしたら、これは――現実だ。
痛い。痛くてたまらない。呼吸ができない。私は崩壊した車内の床で、血反吐を吐きながらもがき、必死に立ち上がろうとした。しかし足に目を向けると、めくれ上がったバスの鋭利な金属片が太ももを完全に貫通しており、指一本動かすことができなかった。
視界の狭窄が急速に進む。冷たくなっていく肉体の中心で、私は明確に理解した。私は今、本物の現実の中で、完全に「死んで」いくのだと。
私は、死――
―― 弾かれたように、私は上体を起こした。
激しい呼吸が止まらない。額からは滝のような冷や汗が流れ落ち、私は狂ったように自分の両腕や胸、太ももを叩いて触りまくった。服は濡れても破れてもいない。骨も折れていない。どこにも金属片は突き刺さっていない。
周囲を見渡す。そこには、初夏のうららかな光が満ちていた。開け放たれた窓からは心地よい風が吹き込み、前の方の座席からは遠足帰りらしき子供たちの賑やかな笑い声が聞こえてくる。
「……はっ、ふう……っ」
私は小さく声を漏らし、深く息を吐き出した。あまりの安心感に、涙が出そうだった。
やはり夢だったのだ。いつもより少しだけリアルで、いつもより少しだけ展開が先に進んでしまった、ただの性質の悪い悪夢。あの恐ろしい確信も、死の間際の脳が見せた錯覚に過ぎなかった。現実の私は、こうしてのどかな昼下がり過ぎのバスの中で、無傷で生きている。今更ながらあの引き延ばされた激痛の記憶に背筋が凍る思いがしたが、『夢だった』という事実がそれ以上の安心感をもたらしてくれた。
「次は、〇〇――」
見慣れた街並みの中、バスが速度を落とする。私の降りる停留所だ。今度こそ自分の手で押そうとランプへ手を伸ばしたが、その手前でピンコーンとチャイムが鳴り、誰かが先にボタンを押した。夢と同じタイミング。
そのことに一瞬だけ小さな不安の影が胸をよぎったが、私はすぐにそれを振り払った。外はこんなに晴れている。子供たちも乗っている。事故など起きるはずがない。
私は定期券をかざして読み取りを済ませ、バスのステップを降りた。降り際、念のためにバスの前方の道路を確認する。大型トラックの影などどこにもない。信号待ちの乗用車が数台、のんびりと並んでいるだけだ。
私は完全に安心し、ステップから地面へと足を踏み出した。頭上から降り注ぐ眩しい日差しに目を細め、平和な現実の愛おしさを噛み締めながら、手をかざして光を遮ろうとした。
『パアアアアァァァァァ――――――――――――――――ッ!!!』
鼓膜を破る衝突音が、私の鼓動を強制停止させた。視界を埋め尽くしていた眩しい日差しは、次の瞬間、あのトラックの猛烈なハイビームの輝きへと変貌していた。
気づけば私はバスの外などではなく、あのフロントガラスが弾け飛ぶ車内へと引き戻されていた。突き刺さる金属片、へし折れるダッシュボード。私の身体は衝撃で後方へと凄まじい勢いで吹き飛ばされ、背後の座席の角に背中から激突した。バキリと硬く重い音が響き、左の肩の骨が粉々に砕け散る。
前回の夢で味わったあの最悪の展開が、何一つ違わぬまま私の肉体を破壊していく。これはいったい、何だ。どういうことだ。思考が恐怖と混乱で破裂しそうになる。なぜ晴れていたはずの世界が、一瞬で地獄に変わる?
激痛の中で、私は必死に視線を動かした。壊れ、ねじ切れたバスの天井の隙間から、私の顔面にポツリ、ポツリと冷たいものが降り注ぐ。
……雨だ。
いつの間にか世界は灰色に染まり、激しい雨が降っていた。子供たちの声など最初から存在しなかったかのように、周囲にはあの忌々しい雨の日の臭いと、ガソリンの悪臭だけが立ち込めている。
激しい痛みの中で、私の意識は信じられないほど冷酷に覚醒していく。また、ここだ。私は最初から、あの夕暮れの雨のバスから一歩も外に出ていない。
血溜まりの底で、アスファルトの上に落ちたスマートフォンの画面が虚しく青白い光を放っている。
夢? それとも、これが――。
八方塞がり




