『無欲の釣瓶』
投稿日時: XX26/09/17 16:51:46
投稿者: M・Hさん(37歳・男性・研究員)
ふーむ、128 いや 256 年ぶりと言ったところか。久しぶりの出番だな。我を目覚めさせたのはそなただな? うん、なるほど、よろしい。試練に打ち勝ったそなたには願いを叶える権利が与えられた! さぁ望みは何だ? この私、▲▼▲▼▲▼▲にそなたの望みを述べるが良い。
……うん? どうした渇望者よ。叶えたい願いがあるのではないか? なに? 我を知らぬのか? 何も知らぬままに試練を超えるとは呆れたものだ。ん? 試練も知らぬと?
なんと、『5の謎』『1の獣』『2の守護像』を相手に試練とも思わぬとは大した傑物。なに? どれもか? どの試練も見ておらぬと? おぬし、どのようにしてここへとやってきたのだ。この座に辿り着くまでにも大変な……普通に歩いてきた? そんな馬鹿な。
この場は大いなる遺産によって――、いや、壁が無いな? 外の景色が見えておる。どういうことだ? 大いなる遺産によって守られている魔房がこのような……。ぬ、土砂崩れ? そのような災害程度で――うん? まさか、そんなことになっていようとは。時の移ろいとは恐ろしいものだ。まさかあれだけ恐れられた魔房がこのような結果に。
あぁ、いや、確かに周囲の地脈の力が薄れておる、これでは守りの塚も維持できまい。獣も守護像もとうに崩れていたのか。まぁよい。失われた物を嘆いても仕方あるまい。いずれにせよ、そなたがこうして我を呼び出したのは変わらないのだから、思うままに望みを言うがいい。どうした遠慮する必要は無いぞ。こちらの想定外とはいえ、我の宿りし釣瓶を手にしたお主には願いを叶える権利がある。富も権力も、思いのまま願うがいい。
む、なぜそう固辞しようとする。なんでもいいのだぞ? 人間の夢ではないか。ここまで頑なな人間は初めて見た。なに? 代償が心配なのか? 命だと? そんなもの取るわけが無かろう。試練に打ち勝った褒美としてもたらされるものが命を奪うなど、何のための試練だと思っておるのだ。
ふむ。命が違うならば、死後の魂か、それとも将来の幸福か、と? 何をそんなに怯えているのだ。私は古の盟約に従い、そなたに奇跡を授けるだけの存在だ。見返りなど求めんし、そのような規約も存在しない。ただ、そなたが望むものを、望むままに差し出す。ただそれだけのこと。
なるほど、そんな上手い話があるはずがない、か。どうやらそなたたちの時代には、無償の善意を偽って人を嵌める悪質な者が横行しているようだな。私の言葉を詐欺師の口上と同列に扱われるのは心外だが、警戒する性質自体は責めまい。では、このようにしよう。形のある富や権力が恐ろしいのなら、もっと私的なものでも構わんのだぞ。
例えば、不治の病を患う者の命を救うとか、失われた肉体を取り戻すとか、そなたの個人的な悲願を満たすようなことだ。これなら他人に妬まれることもなかろう。……ほう、身内に誰も重病人はおらんし、五体満足だから必要ない、と?
実につつましいことだ。では、知恵はどうだ? 世界の真理や、万物の理を解き明かす至高の叡智をそなたに授けることも可能だぞ。学者や探求者なら、喉から手が出るほど欲しがるものだ。……それもいらぬか。出処の分からぬ情報を脳に流し込まるなど、気味が悪い?それに自分で証明する楽しみが消えるだけで無価値である、と。
よほど自分の足で歩くのが好きなのだなぁ。しかし困ったな。そなたが何も望んでくれぬと、私は何もできんのだ。願いを叶えて初めて、私の役目は終わる。何も壮大なことでなくてよいのだ。ほれ、そこに転がっているそなたの荷物を、一瞬で綺麗に片付けるとか、その程度の些細なことでも構わん。頼むから何か一つ、言葉にしてはくれまいか。
やめてくれ、と?大切な荷物を間違って消されてはたまらんと?この私がそんな失敗をするなど――、自分の知らぬ力など信用できぬと。むむ、そう言われると困ってしまうな。どうやらこの時代に私の使うような力は存在しないようであるし、おっと、待て待て、これ以上しつこく勧めるつもりはない。ないから、その釣瓶を乱暴に投げ捨てるようなことは止めてくれ。やれやれ、実に手厳しい。奇跡そのものと謳われたこの釣瓶を脅迫の材料にされたのは、長い歴史の中でも初めての経験だ。
分かった、これ以上は無理強いすまい。そなたのような無欲な人間には余計なお世話という物だろう。役目が果たせぬのは残念なことだが、崖の下に捨てられるよりは静かに眠る方が幾分かマシというもの。では、私は戻るとしよう。気が変わったら、いつでもその釣瓶に向かって我が名を呼ぶがよい。それではな、頑ななる者よ。
◇
テントの防風布が、山背の乾いた風に叩かれてパタパタと小刻みに音を立てている。
机に向かった男は、ランタンの明かりの下でペンを走らせ、調査日誌のページをめくった。日誌の表紙には「地質植物生態広域調査・第4班」という味気ないラベルが貼られている。
男の正体は、この地域一帯で急速に進む原因不明の植生衰退と、それに伴う大規模な地盤沈下を調べるために派遣された自然科学の学者であった。
数時間前、土砂崩れで崩落した斜面の窪みで、奇妙な古い釣瓶を見つけた。それを拾い上げて土を払った瞬間、目の前に巨大な煙の塊が噴き出し、怪しげな大男の幻覚を見た。
過酷なフィールドワークによる極度の疲労と脱水が見せた白昼夢に違いない。もしくは薄汚れた骨董品の中に有害なガスか薬でも入っていたのか。そう考えた男は、一度は手にした釣瓶を拾った場所へと放置し、テントへと帰還した。
男は眼鏡を外し、目頭を強く押さえてから、再び机の上のデータシートに目を落とした。彼にはオカルトの知識も、おとぎ話のルールを考察する趣味もなかった。だからこそ、あの幻影が語った言葉の裏にある「仕組み」に気づく余地など、最初から存在していなかった。
日誌には、この数十年で急激に枯渇していった地脈の観測データが、冷徹なグラフとなって記録されている。
かつて、この地が豊かな大自然に覆われていた大昔、この山の内部には魔房と呼ばれた神殿が存在した。そこには、課された試練を突破した者に奇跡を与えるシステムが組み込まれていたが、当時は何の問題も起こしていなかった。周囲の広大な大地からごく一部の余剰な自然エネルギーを吸い上げて蓄え、それを源にして願いを叶えるだけの純粋な装置だったからだ。
奇跡のシステムを制作した者たちにも、そこに宿る魔人にも悪意は一片もなかった。ただ、試練を超えた勇者の願いを叶えるためだけに作られた、古代の忠実な仕組みにすぎない。
しかし、時代は変わった。
近代の乱開発や戦争、数多の自然破壊によって、大地の持つ基礎体力そのものが著しく低下した。それでもなお、主人の命令を受けていない古代のシステムは、その出力を落とすことなく、周囲のエネルギーを等しく吸い上げ続けていた。
周囲の植物は成長に必要な力を根こそぎ奪われて枯れ果て、土壌を繋ぎ止める根が失われたことで地盤は急速に緩んでいった。エネルギーの失われた土地では自然は十分に育たず、自然の恵みの乏しい土地では十分なエネルギーは生み出されないという悪循環。今回の土砂崩れも、自然災害などではない。システムが限界まで土地の力を搾り取った結果引き起こされた、必然の崩壊だった。
そして今、事態は最終段階を迎えている。
男が願いを口にせず、頑なに拒絶して交渉を打ち切ったため、魔人は釣瓶の奥へと引き下がった。願いを叶えて初めて役目を終えるシステムは、依然として「スタンバイ状態」を維持したままだ。
願いの権利は男の存在にロックされている。他の誰が触れても魔人を呼び出し、システムの停止を要求することはできない。
魔房が崩れ、数あるセキュリティが失われたとしても、奇跡の力に守られた釣瓶は周囲のエネルギーが存在する限り生き続ける。釣瓶は今も、これから先も、周囲の土地からエネルギーを汲み上げ続けるだろう。
そうしてエネルギーの失われた土地は力を失くして崩落を続ける。近いうちに男が釣瓶を置いてきた場所もまた沈み、釣瓶は誰の手も届かない地中へと姿を隠すだろう。誰の目も届かない地の底でエネルギーを奪い、奇跡のシステムを維持するためだけに動き続ける。
この地に生命を育てる力はもはや存在しない。かつての自然を取り戻すにはあまりにも手遅れであった。
男はペンを置き、コーヒーを口にして一息ついた。そうして身体を休めながら、スマホで明日の天候を確認し、頭の中で次の調査の予定を立てる。
彼には分からない。自分が未曾有の環境破壊の「唯一の停止スイッチ」を一度は握り、そしてそれを捨ててしまったという事実が。
そして、この足元の地下深くで、すべての生命力を無自覚に吸い尽くそうとする目に見えない渦が生まれ、さらなる大崩落が始まることも。
無知蒙昧




