『経由地なし』
投稿日時: 202X/04/04 14:21:04
投稿者: A・Iさん(18歳・男性・学生)
休日の昼下がり。私は街に出たついでに電子機器を扱う店を回っていた。最近タブレットPCを買ったのだが、一般的なUSBメモリが繋げられないことに遅まきながら気づき、USB変換アダプタを求めて彷徨う羽目になったというわけだ。
しかし、駅前の大型店舗をいくつか探してみても、置いてあるのは有名メーカー製の高いものばかりで、目当てのものが見つからない。こちらとしてはデータを移動できればいいだけなので、なるべく安くてシンプルなものがいいのだが。
こんな事なら通販サイトで済ませればよかったなと思いつつ、普段あまり外に出歩くタイプではない私としては、せっかくここまで来たのにという気持ちが勝り、引くに引けなくなっていた。
仕方なくスマートフォンの画面を開く。普段は電池を無駄に消耗するだけだと思ってオフにしている「位置情報」を渋々オンに切り替え、一度も起動したことのなかったマップアプリのアイコンを指で叩いた。
画面に表示された見慣れない検索欄に、試しに「PC機器」などの言葉を打ち込んでみた。
地図の上にいくつか赤いピンが立つ。私は画面に映る地図上の建物と、目の前にある本物の看板や建物の名前を目で照らし合わせながら歩き出した。使い方はよくわからないが、表示された目的地のピンと現在地を見比べて進んだら、少し離れた場所にある小さな店へと迷わずにたどり着くことができた。
心の中で小さく感心する。しかし、その店舗でもやはり求めていたアダプタは置いていなかった。
諦めきれない私は、画面の地図を指でスクロールし、さらにもう一店舗、少し離れた位置にある店を見つけた。
表示されている目的地に行くには、ここからだと少し遠回りであるように見えた。だが、よくよく見れば建物の表示が並んだ箇所の中にも細い線が伸びている。つまり、ここにも道があるということか。複雑に入り組んだエリアを突っ切るように進んだ方が、早く次の店に着けそうだ。
近道だと判断した私は、地図に描かれた細い線を頼りに、昼下がりの静かな路地裏へと足を踏み入れた。
いくらか進んだところで、私は目の前の風景と画面に表示された道に違いがあることに気づいた。
目の前に細い分かれ道がいくつかあるのに、スマホの画面上にはそれが描かれていない。まあ、いくら便利とは言っても、建物と建物の隙間にある細かい道の全てが網羅されているというわけではないのだろう。一人で納得し、私はそのまま歩みを進めた。
しかし、大通りと比べて目立った看板もない裏路地では、ひとつ角を曲がるのにも塀や建物の形を見比べなければならず、思った以上に手こずってしまう。どこをどう歩いているのかが曖昧になり、じわじわと足が重くなる。
こんなことなら横着せずに表の道を歩けばよかったなと、心の中で小さく後悔し始めたところで、唐突に少し開けた広い道へと出た。
そこは車が飛び交うような表通りではなかった。ビルが並んではいるものの、その全ては裏口の地味な姿をこちらに向けている。見た目通りの裏通りと言ったところだろう。
人目を惹く看板は一つもなく、人通りも全くない。表通りに植えられているような街路樹もなく、ただ無機質なアスファルトだけが広がっており、足元には放置されたわずかなゴミが力なく転がっている。太陽はまだ高いはずなのに、そびえ立つビルの影に遮られて日当たりも悪かった。
スマホのマップアプリに目を落とす。現在地を示す青い丸は、相変わらず点滅を繰り返していた。画面を見る限り、ここは表通りの一本裏手のようだ。並び立つビルの向こう側には、駅前から伸びる大通りがあるはずだが、その方向へと抜ける路地はしばらく先まで見当たらなかった。
画面と現実の景色を見比べる。目的地はこのまま真っ直ぐ進んだ先らしい。「もう少しだ」と心の中で気合いを入れ、歩みを再開した。
――アスファルトを蹴る自分の足音が響く。
ひとつ奥の通りに来ただけなのに、妙に静かだった。ここから表通りの様子は見えないが、休日の昼間なのだ。若者たちの賑やか声が響いてきてもおかしくないはずなのだが。
耳を澄ますと、一応、何かの音や遠くの声のようなものは聞こえたが、それらは全体的におとなしく、殆ど静まりかえっていると言ってもいいくらいだった。
不自然なほどの活気のなさを頭の片隅で気にしながらも、私は地図が示す目的地の方向を目指して、そのまま歩き続けた。
『―――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!!』
突然、耳の奥を激しく掻きむしる、言葉にできない凄まじい音が響き渡った。私の身体は一瞬で硬直する。
あまりの衝撃に、自覚もないまま生存本能に従って道に這いつくばっていた。いきなりの事態に、何が起きたのかすら分からない。頭が真っ白になり、うまく働かないのだ。
数秒が経ち、ようやく思考が復帰する。強張った身体をゆっくりと動かして周囲を見渡すが、景色に目立った異常はなかった。
――いや、異常はあった。ようやく回りだした頭が、恐ろしい事実を突きつけてくる。あの激しい音は止むどころか、いまも絶え間なく重なり合いながら、鳴り響き続けているのだ。
何が起きているのか、判断すらつかない。巨大な金属がひしゃげ、ねじ切れる凄まじい破壊音。鼓膜を震わせる絶え間ない爆発音。何かが激しく吹き飛び、その破片がバラバラと豪雨のように降り注ぐ。遮るもののない大音響が幾重にも重なり合い、まるで目と鼻の先で、街全体が一斉に崩壊し続けているかのような錯覚さえ抱く。あらゆる災厄が一度に押し寄せたかのような、暴力的な音の嵐だった。
鼓膜が破れるどころではない。周囲の地表ごとすべてを吹き飛ばさんばかりの音の嵐が、絶え間なく鳴り響き続けている。
だが――その大破壊の音の隙間に、別の何かが混ざり合っていることに気がついた。
あまりの爆音に、最初はただの雑音の一部だと思い込んでいた。しかし、轟音の奥底からかすかに響く、甲高い人間の悲鳴を耳が捉える。一度そう自覚した瞬間、それは一つや二つではないことが分かった。何十、何百、何千ものおぞましい絶叫が、破壊音と重なり合い、太い束となって押し寄せてくる。あまりの音圧に意識が遮られ、いままで人間の声だと認識するのが遅れたのだ。
内側から恐慌状態が膨れ上がっていく。しかし、あまりの事態に思考のメーターが振り切れてしまったのだろう。脳の奥底には、妙に冷め切った目で情報を拾い上げている、もう一人の自分がいた。
――おかしい。これだけの爆音が響いているなら、空間を震わせる凄まじい「振動」があるはずだ。映画館の爆破シーンですら、身体を揺さぶるほどの音圧を感じるというのに。
それなのに、この場所には『それ』が一切ない。激しい音が絶え間なく鳴り響いているにもかかわらず、目の前のビルは微動だにせず、私の足の裏にも何の感触も伝わってこないのだ。
処理しきれない矛盾が脳を埋め尽くす。私は考えることを放棄し、ただ突き動かされるようにして、その場から走り出していた。
恐慌状態のせいでまともに走ることすらできない。もつれる手足をがむしゃらに動かし、何度も転びそうになりながら、がむしゃらに前へ前へと突き進んだ。
裏通りの景色は相変わらず静まり返っているが、それを怪しむ余裕はなかった。一つ表の通りに出れば、そこには凄惨な地獄が広がっているに違いない――その強迫観念だけが脳裏を焼き尽くしていた。この道は一本道だ。とにかく逃げる、それしかなかった。
視界の先で、裏通りが途切れる。私はその向こうを確認することすら投げ出し、勢い任せにそこへ飛び込んだ。
そして当然のように、私は地面へ派手に転倒した。
アスファルトに叩きつけられた痛みに呻く。だが、その強烈な痛みが、皮肉にも私の脳に冷水を浴びせた。いくらか冷静さを取り戻し、自分が置かれた異常な状況を思い出して、慌てて身を起こす。
「うおっ」
すぐ近くで、不意に男の驚く声がした。
慌てて顔を上げると、そこには見知らぬ通行人が立っていた。一人や二人ではない。そこは、休日の賑わいを見せる大通りだった。
派手に転んだ私に声をかけようとして、気まずそうにタイミングを逃す人。遠巻きに眉をひそめて通り過ぎていく人。完全に関わり合いを避けて素通りしていく人。視界に広がるのは、いつもの、ありふれた街の人間たちだった。
……音が、消えている。
耳を澄ましても、あの凄まじい破壊音はどこにもなかった。何千ものおぞましい絶叫も、金属がねじ切れる音も、何一つ聞こえない。黒煙が上がる様子もなければ、パニックになって逃げてくる人々の姿もない。ただ、穏やかな街の雑音があるだけだ。
何が起きたのか、いや、何が起きなかったのか。現実を理解し始めた瞬間、肉体の恐怖を上書きするように、猛烈な羞恥心が湧き上がってきた。何もないところで一人で狂ったように怯え、無様に転がっていたのだ。
周囲の冷ややかな視線に耐えかねて、私は予定していたルートなど放り出し、逃げるように歩き出した。
足早に歩くうちに、徐々に落ち着きを取り戻していく。しかし「結局あれは何だったのか」という疑問がどうしても頭から離れず、私は街角をぐるりと遠回りして、元の表通りの方へと戻ってみた。
新調した映画のゲリラ宣伝か。いや、そんな巨大なスクリーンはこの辺りにはない。大音量の街宣車だろうか。それにしても音が大きすぎるし、もしそうなら、今もまだどこかから音が響いていなければおかしいはずだ。
恐る恐る大通りを覗き込んでみたが、やはり、そこには何一つ異常はなかった。眩しい陽の光が照らす、賑やかな休日の風景が広がっているだけだ。
本当に、いったい何だったんだ。
どっと尋常ではない疲労感が押し寄せ、私は変換アダプタを買うことなどどうでもよくなり、そのまま自宅へと引き返した。
鍵を開け、自室に入り、上着を脱ぐ。住み慣れた部屋の安心感の中で――ようやく、私はスマートフォンの不在に気がついた。手にもって地図と現実を照らし合わせていたはずだった。あの裏通りで、恐慌状態に陥ったままがむしゃらに走り出したあの瞬間に、そのままどこかへ落っことしてきたのだ。
◇
翌日。私はスマートフォンを回収するため、再び昨日の街へと向かった。
あんな不可解なことがあった後だ。気は重かったが、現実的な被害があったわけではない。一晩明けて喉元を過ぎてしまえば、「昨日は妙に怯えてしまったな」という程度の感覚で、高価なスマートフォンを諦める理由にはならなかった。
幸いにも、端末は駅前の交番に無事届けられていた。
いくつかの確認事項を終え、引き渡されたスマートフォンの画面を点灯させる。大きな傷もなく、データもあの時のままだ。マップアプリを起動すると、現在地である交番の場所に、青い丸が当たり前のように収まっていた。
用件は済んだ。しかし、交番を出た私の足は、吸い寄せられるように昨日と同じルートを辿っていた。
検索欄に目的地の店を入力する。近道へ入ろうとしたのも、地図に映らない細い道へ足を踏み入れたのも、すべて昨日と同じだった。アプリに名前の表示がない建物が並んでいるのも同じだ。
私は昨日をなぞるように、画面と現実の景色を見比べながら歩みを進めた。
しかし、昨日と全く同じ道を進んだはずなのに、あの裏通りには出なかった。複雑な細い路地を抜けた先は、昨日、私が転びながら飛び出した大通りに直接繋がっていた。
私は足を止め、スマートフォンの画面を見返す。画面の地図をどれだけ凝視しても、昨日は確かに表示されていた、あの車も通れるほどの裏通りがどこにも見当たらない。細い道の表示はある。名前のない建物もある。ただ、昨日のあの通りだけが、現実の景色にも、アプリの画面上にも、初めから存在していなかったのだ。
音だけの話なら、疲労による幻聴で片付けられた。だが、道そのものが消失しているとなると、話は根底から覆る。私は昨日、確かにあの場所を死に物狂いで走り、転び、今もこうして体に痛々しい傷を負っているのだから。
私は諦めきれず、周辺の路地を何度もぐるぐると歩き回った。しかし、あの灰色のアスファルトは二度と姿を現さなかった。出口が昨日と寸分違わぬ場所なのだから、見間違いや迷子であるはずがなかった。
これは、どういうことだ。
得体の知れない違和感が、胸の奥にじわじわと堆積していく。すでに終わったことだ。今まさに襲われるような恐怖ではない。すべてが過ぎ去った後に、静かに首を絞められるような恐怖だった。
――いや、違う。
ふと、最悪の仮説が脳裏をよぎり、息が止まった。
もし、あれが現実の出来事だったとしたら。
私がスマートフォンを落としたのは間違いなく、あの、現実には存在しないはずの『誰もいない裏通り』の中だ。
だとしたら――一体誰が、あの場所で私のスマホを拾い、交番に届けたというのだ。
胸の奥の澱みが、一気に冷たい塊となって背筋を駆け上がる。
交番へ引き返し、それを確かめる勇気は、もう私には残されていなかった。
思考停止




