『乗換案内』
投稿日時: 202X/03/13 00:37:45
投稿者: I・Kさん(29歳・女性・会社員)
深夜二時。頭の芯が痺れるような残業を終え、私は帰路の電車に揺られていた。
車内には数人しかおらず、ガラガラに空いている。座席に深く腰掛け、車内の暖房に当てられているうちに、私はうつらうつらと眠りに落ちていた。
『――まもなく、終点……』
車内アナウンスの声に、重い瞼を無理やり持ち上げた時には、既に駅は目前となっていた。半分寝ぼけた頭で慌てて身なりを整え、電車が滑り込むと同時に、勢いよくホームへと降り立つ。
ドアが閉まり、電車がトンネルの闇の奥へと去っていく。ゴーッという駆動音が消え去ると、途端に無機質な静寂がホームを満たした。駅の灯りは冷たく灯っているが、周りには誰もいない。自分の足音だけが、やけに大きく響く。
改札へ向かうため、エスカレーターへと歩く。ホームの数メートル先、乗り口へ向かって、私と同じように疲れた足取りで歩いていく後ろ姿が小さく見えた。暗い色のコートを着た人影。
ポケットからスマホを取り出し、胸元で画面をタップした。スマホを操作しながら歩く。視界の端に先ほど見た前を歩く人の足元がちらりと映る。なんとなく一定の距離を保ったまま後に続き、エスカレーターへと足を乗せる。
ステップが規則正しく上っていく。私は手すりに半分寄りかかるようにして、ネットで見つけた長い怪談のまとめサイトをぼんやりとスクロールし始めた。深刻な疲労と眠気のせいで思考は完全に麻痺しており、ただ機械的に文字を追うだけの状態だった。
この駅は地下深くにあるため、改札に出るまでに何度もエスカレーターを上り継がなければならない。エスカレーターを乗り換える時だけ視界の端に映る影を認識し、意識が少しだけ前に向く。
コツン、コツン、と前の人が歩く音が響き、数秒遅れて、スマホを見つめたまま私も足を動かす。
コツン、コツン。
通い慣れた駅だ。画面から目を離さなくても、身体が次のエスカレーターへの歩幅を覚えている。また、規則正しい振動に運ばれる。視線の先にはスマホの文字。
繰り返し。繰り返し。
乗り換えるタイミングで、コツン、コツン、と前の人の足音。次に、コツン、コツン、と自分の足音。目線はスマホのまま、床に靴底が当たる音が響く。
コツン、コツン。
コツン、コツン。
……ふと、指が止まった。
長いページの文字をすべて読み切ってしまった。画面の一番下には「次のページへ」というリンクが表示されている。
その瞬間、ぼんやりしていた頭が急速にクリアになっていく。奇妙な感覚だった。このページの文字数を読み切るには、少なくとも数分かかっているはずだ。いくら無意識にエスカレーターを乗り換えていたとはいえ、これほど上り続けてもまだ改札階に着かないのは、どう考えても計算が合わない。
思考が覚醒すると同時に、もう一つの異常に気付いた。
私は今、エスカレーターのステップの上に立ち止まっている。一歩も歩いていない。
それなのに。
コツ、コツ、コツ、コツ。
エスカレーターを乗り換える時の足音が、耳の奥に残響のように残っているのだと、最初は思った。
しかし違う。思考がクリアになった今だからこそ、はっきりと分かる。この音は今もなお、現在進行形で足元から響き続けている。
心臓の鼓動が跳ね上がった。
電灯の明かりが照らす、自分の足元へと目を向けた。ステップの金属の隙間から、白く乾いた人間の手の骨がニョキニョキと無数に生え出ていた。
それが私の足首をがっちりと掴み、固定している。骨と骨が擦れ合い、突き当たる音が足の裏から伝わってくる。
コツ、コツ、コツ、コツ。
靴音の残響だと思い込んでいたものは、私の足を捉えている、この骨がぶつかり鳴らす音だった。
パニックになり、前を行く人に助けを求めようと、弾かれたように顔を上げた。
しかし、前方のステップ上には誰もいなかった。さきほどまで視界の端にいたはずの暗いコートの影はどこにも無い。
困惑して周囲を見渡した。
――いた。
だが、それは前ではなく、私の真上だった。あの人は天井に逆向きにぴったりと立ち、真下にいる私をじっと見下ろしていた。
あまりの光景に息を呑んだが、すぐに視界の歪みに気づく。あの人が立っているのは天井ではなく、私からは逆向きに見えるもう一つのエスカレーターだった。それは私とは完全に逆方向へ向かって、低く唸るような機械音を立てて動き通り過ぎて行く。
それを呆然と眺めていると、自分の上下・平衡感覚が急速に信じられなくなり、激しい眩暈がした。相手が逆さなのではなく、私自身が世界に対して真っ逆さまに吊り下げられているのではないか。なぜか急激にそのように感じられ、エスタレーターの上に立っているにも関わらず宙へ落ちるような感覚に襲われる。
その恐怖から逃れるように視線を正面へ戻した。
――エスカレーターの終着点は、どこにもなかった。
見慣れた駅の壁も天井も、すべてが消失している。ただ上下左右にデタラメに架けられ、交差し合いながらうごめく、無数のエスカレーターの網の目だけが、何もない巨大な空間にどこまでも広がっていた。
私が乗っているこのエスカレーターは、数メートル先からはステップの形すら維持していない。剥き出しになった無数の骨の手が、蛇のようにつらなって網の目の向こうに広がる闇へと続いている。
足が動かない。骨の手に固定され、一歩も動かせない。
声を上げても無限に広がる空間へ、空しく吸い込まれていく。
私が絶望に身をすくませている間にも、逆さとなったエスカレーターは冷酷に動き続ける。平衡感覚の消え失せた身体は、上っているはずなのに、まるで深い闇の底へと真っ逆さまに落ちていくように感じられる。
コツ、コツ、コツ、コツ。
私は私を掴む骨の階段に運ばれながら、終わりのない地下の暗闇の底へと、どこまでも上がり続けていく。
消息不明




