第8話 見えない糸
丘を下りるにつれて、村の音がはっきりと耳に届いてきた。
笑い声や子どもたちのはしゃぐ声。
鍋をかき混ぜる音に、薪の弾ける乾いた響き。
ミレル村は、思っていたよりずっと賑やかだった。
「……普通ですね」
アナが拍子抜けしたように呟く。
石造りの小さな家々が並び、井戸の周りでは数人の村人が立ち話をしている。
洗濯物が風に揺れ、焼き立てのパンの匂いがやわらかく漂っていた。
どこにでもある、穏やかな村の風景。
だが、その空気の中心でひときわ明るい声が弾ける。
「ほら、歩けてる!」
「すごい……本当に……!」
アナが反射的に駆け出し、ユキは歩幅を変えないまま後を追った。
人だかりの輪の中心にいたのは、若い女性だった。
淡い色のワンピースに、痩せた身体。
支えもなく、ゆっくりと足を前へ出している。
ぎこちない動きではあるが、確かに歩いていた。
その隣に立つ青年は、必死に笑っている。
「な? 言っただろ?」
「大丈夫だって」
女性の瞳はどこか焦点が合っていない。
だが周囲の誰も、それに気づいていない。
村人たちは涙を浮かべ、拍手を送っている。
「神様の御業だ!」
「奇跡だ……!」
アナの目が潤む。
「……すごい」
心から、そう思った。
だが。
ユキの視線は、別のものを捉えていた。
女性の背後。
陽光の中に、かすかな揺らぎ。
糸のような気配が、空気を震わせている。
本来、見えるはずのないもの。
刀の中で、シグレが低く呟く。
(これはアタリだね、お母さんの子供だ)
ユキは答えない。
青年が女性の手を握る。
「ほら、一緒に外に出られた」
「俺たち、また――」
その瞬間、女性の足がわずかに止まる。
ほんの一瞬の空白。
青年が、気づかぬほど僅かに手を引く。
女性はまた歩き出す。
ぎこちなく、わずかに遅れて動く関節。
まるで操り人形のように。
ユキの目が細くなる。
アナはまだ笑っている。
「よかったですね」
その言葉に、青年が振り向いた。
「……ああ」
目の奥に、わずかな歪みが宿る。
「奇跡なんだ」
「やっと……帰ってきた」
女性は何も言わない。
笑わない。
瞬きすら、どこか遅い。
風が吹く。
空気が、ほんのわずかに張る。
ユキの指が柄に触れる。
まだ抜かない。
まだ。
(ユキ)
シグレの声が、さらに低くなる。
(あのペンダントだよ)
アナは気づかない。
村人も気づかない。
青年も、気づいていない。
ユキだけが目を閉じ、そして静かに口を開いた。
「……その娘」
低い声に、青年が眉をひそめる。
「なんだ」
ユキは女性を見据えたまま言う。
「神経は戻ってないな」
空気が変わる。
青年の表情が固まる。
「何を言ってる」
焦点の合わない瞳。
自力では動いていない足。
「動かしてるだけだ」
村のざわめきが、少しずつ止まっていく。
拍手が消え、息を呑む音だけが残る。
青年の手が震える。
「違う」
掠れた声。
「これは奇跡だ」
ユキは一歩、前に出る。
見えないはずの力が、ぴんと張り詰める。
(ユキ)
シグレの声は静かだった。
(歪んでる)
青年が叫ぶ。
「やっと……一緒に歩けるんだ!」
「邪魔するな!」
その瞬間、女性の身体が不自然に振り向く。
関節の動きが、ほんのわずかに遅れる。
空気が強く引かれる。
ユキの目が冷たくなる。
さきほどまで賑やかだった村の空気が、音もなく凍り始めていた。




