第9話 月下の約束
青年が叫ぶ。
「やっと……一緒に歩けるんだ!」
「邪魔するな!」
つい先ほどまで賑やかだった村の空気が、音を失い、静かに凍り始めていた。
「待ってください!」
アナが慌てて二人の間へ割って入る。
「ここで争うのは……!」
その声に、周囲の村人たちがざわめいた。
「どういうことだ?」
「奇跡を否定するのか?」
向けられる視線に、まだ明確な敵意はない。
あるのは戸惑いと不安だ。
目の前で起きた奇跡を信じたい気持ちと、それを否定されるかもしれない恐れとが入り混じっている。
青年は女性を抱き寄せる。
まるで奪われることを、本能的に恐れるように。
「余所者が口出すな」
低い声だった。
怒りというより、追い詰められた人間の響きに近い。
失いたくないものに縋りついたまま、必死に牙を剥いている声だった。
ユキは刀を抜かない。
ただ、青年をまっすぐ見据えたまま言う。
「夜に話をしろ」
声は抑えられている。
だが揺れない。
「人目のないところで」
青年の瞳が、わずかに揺れた。
「……何を企んでる」
「彼女に何をする気だ」
ユキは答えない。
代わりに、静かに告げる。
「お前も分かってるはずだ」
その言葉に、青年の表情が一瞬だけ歪んだ。
ほんのわずかな迷い。
否定しきれない痛み。
だが、それはすぐに押し潰される。
「分からない」
声が強張る。
「これは奇跡だ」
女性の身体が、また一歩踏み出した。
ぎこちなく。
遅れて動く足。
わずかに引かれるような膝。
空気が、かすかに軋む。
(夜まで持たせる?)
シグレの囁きには、わずかに緊張が滲んでいた。
「持たせる」
ユキの返答は短い。
だが、迷いはない。
アナは青年をまっすぐ見つめる。
さっきまでの奇跡への感動は、もうない。
けれど目の前の相手を責めることもできなかった。
「……夜、少しだけ話をしてください」
静かに言う。
「誰にも見られない場所で」
青年はしばらく黙り込んだ。
村人たちは、不安げに三人を見比べている。
誰も何が起きているのか正しく理解してはいない。
ただ、ここで何かを壊してはいけないことだけは感じ取っていた。
やがて青年が、低く口を開く。
「森の外れだ」
その声は掠れていた。
「月が出たら来い」
それだけ告げると、女性を抱くように支えながら歩き出す。
夕陽の中で、見えない力が微かに揺れていた。
ユキは、その背を長く見送る。
(……泣いてる)
シグレの声は、かすかだった。
ユキは何も言わない。
ただ、青年の背中から目を離さなかった。
やがて夜が来る。
村はゆっくりと沈み、昼間の喧騒は嘘のように消えていった。
代わりに虫の声が満ち、遠くで犬が一度だけ鳴く。
月が昇り、白い光が、森の外れを淡く照らしていた。
ユキは歩き出す。
隣にはアナ。
腰の刀の中で、シグレは静かに気配を潜めている。
空気は冷たい。
だが、それ以上に張り詰めている。
月下の森は、まるで何かが壊れる瞬間を待っているかのように、静まり返っていた。




