第10話 歪んだ願い
月が森を白く照らしている。
枝葉の隙間から落ちる淡い光が、夜の地面にまだらな影を描いていた。
風は弱く、虫の声さえ遠い。
森の外れは、何かを待つように静まり返っている。
その中央に、青年はすでに立っていた。
隣には、静かに佇む彼女の姿。
月明かりを受けた横顔は白く、まるで眠ったまま立たされているように見える。
首元には、小さな銀のペンダント。
埋め込まれた青い石が、心臓の鼓動に合わせるみたいに、ゆっくりと脈打つ光を放っている。
「……来たか」
低く押し殺した声。
ユキは距離を保ったまま、視線をその首元へ向ける。
「それを、どこで手に入れた」
青年の指が、無意識にペンダントへ触れた。
「行商人だ」
短い答え。
アナが眉をひそめる。
「行商人……?」
青年は、小さく鼻で笑った。
「怪しい奴だったさ。でもな、俺には分かった」
月光の下で、その目だけがわずかに熱を帯びる。
「本物だってな」
ユキの目が細くなる。
「何を言われた」
一瞬だけ、青年は視線を逸らした。
「“願いを叶える品だ”って」
喉の奥で、乾いた笑いが漏れる。
「“触れて念じろ”ってな」
苦い。
自嘲にも似た響き。
「最初は信じなかった」
彼は言う。
「だが、どうすれば良かった?」
夜の森に、その問いだけが静かに落ちた。
彼女は動けない。
医者は首を振った。
もう元には戻らないと、希望はないと、そう言われた。
だから――
「俺は買った」
声が、低く沈む。
「有り金を全部渡した。足りなくて、借金もした」
ペンダントを握る。
その途端、青い石の光がわずかに強くなる。
「これを握って願ったんだ」
青年の声が震える。
「もう一度だけ、立ってくれって」
その言葉に応えるように、女性の足がゆっくりと動く。
ぎこちなく。
関節をひとつずつ確かめるように。
それでも確実に、青年の方へ寄っていく。
「立ったんだ」
青年の声が、さらに掠れる。
「俺の方に歩いた」
アナは息を呑む。
奇跡のような話だ。
そう聞けば、誰だって信じたくなる。
だがユキは、その裏側を知っている。
首元から伸びる光。
女性の身体に絡みつく細い糸。
それが青年の手へと繋がり、さらにその奥へ、濃い気配となって広がっていた。
(最初から、なにか仕組まれてるね)
シグレが低く告げる。
ユキは視線を逸らさず、青年を見つめる。
「それから」
青年の目が揺れる。
「……村のじいさんが倒れた」
ぽつり、と落とすように言った。
「腰をやって、動けなくなった」
夜気が、わずかに冷たくなる。
「じいさんは悲しんでた」
「だから俺は、触れた」
短い沈黙。
月光の中で、青い糸が細くきらめく。
「彼女と同じように、じいさんも動けた」
その言葉のあと、森は妙に静かだった。
「みんな喜んだ」
青年は言う。
「奇跡だって」
その目は揺れている。
肯定してほしいのか、否定しないでほしいのか、自分でもわからないまま縋っているような目。
「俺は間違ってない」
掠れた声。
「助けてるだけだ」
女性の瞳は虚ろなまま。
瞬きも遅い。
そこに“戻ってきた”人間の気配は薄かった。
ユキは低く言う。
「最初から、神経は戻ってない」
青年の呼吸が止まる。
「黙れ」
「分かってるだろ」
ユキの声音は静かだった。
責め立てるでもなく、見下すでもなく、ただ事実を置くように続ける。
「それは、動かしてるだけだ」
その瞬間、青年の指が強くペンダントを握りしめた。
青い光が、大きく脈打つ。
「分かってる!」
叫びだった。
初めて、取り繕わない声だった。
「でも立ってる!」
「動いてる!」
「俺の隣にいる!」
糸が一気に張り詰める。
夜の森が、ぴんと鳴った気がした。
青年の肩が震えている。
「もう一度動けなくなるくらいなら……」
声が掠れる。
それでも、言葉は止まらない。
「操ってでもいい!」
夜が、軋む。
その一言は、願いが完全に歪みへ傾いた瞬間だった。
アナが震えながら声を漏らす。
「それは……」
否定したい。
でも、その痛みごと切り捨てることもできない。
そんな声だった。
ユキが一歩、前に出る。
「無意味だ」
断罪ではない。
ただ、変えようのない現実を告げるような声。
青年の目が赤く染まる。
「お前に何が分かる!!」
叫びと同時に、ペンダントが強く輝いた。
「《トモエ》、魔装顕現!!」
青い光が爆ぜる。
首元から放たれた無数の糸が、一斉に夜の森へ広がっていく。
次の瞬間――
森の奥から、足音が響いた。
一つではない。
十。
二十。
それ以上。
月光の中へ、ゆっくりと村人たちが姿を現す。
目は虚ろ。
首元には、同じ淡い光。
糸が彼らを繋ぎ、操り、ひとつの群れのように束ねている。
額に汗を滲ませながらも、青年はペンダントを握り続けた。
「奪わせない!」
叫びと同時に、村人たちが一斉に踏み出す。
土が鳴り、圧が夜を満たす。
アナが剣を握った。
「こんなの……!」
斬れない。
相手は魔物じゃない。
村人だ。
傷つけることなんてできない。
ユキは静かに刀を抜いた。
月光を受けた刃が、白く光る。
「シグレ」
(うん)
「魔装顕現」
黒い魔力が、足元から静かに広がっていく。
青い光と、真正面からぶつかる。
夜が軋み、糸がさらに強く張り詰めた。
青年が叫ぶ。
「これは奇跡だ!」
「俺の……俺たちの!」
女性の身体が、ぎこちなく一歩前へ出る。
虚ろな瞳。
それでも確かに、ユキの方を向いていた。
ユキはその姿を見つめ、低く言う。
「……そいつは」
一歩、前に出る。
黒い光が、音もなく地面を這う。
「お前が持つべきものじゃない」
怒鳴りではない。
断罪でもない。
ただ、揺るがない確信だけがあった。
青年の瞳が揺れ、糸が震える。
そして次の瞬間――
村人たちが、一斉に踏み出す。
青い糸が、夜を覆う。




