第57話 願いを叶える祭り
次の瞬間、ギルドマスターの部屋は、ユキの殺気に包まれた。
空気が重く沈み、部屋の中にあったわずかな温度まで奪われていくようだった。
アナが息を呑み、アイファの長い耳がわずかに震える。
壁際の椅子に座っていたサイカでさえ、その気配を正面から受けて、わずかに目を細めていた。
「ユキ」
レイシアの声が、静かに響く。
「落ち着け」
「落ち着いてる」
ユキは短く答えた。
怒鳴りはしない。取り乱しもしない。
ただ、その声はひどく冷えていて、今この場に敵がいれば、迷わず斬っていたと思わせるものがある。
「セリスは無事なのか」
最初に出たのは、当然の問い。
アナの肩が揺れる。
「無事だ。人的被害も少ない。死者も出ていない」
レイシアは深く頷いた。
「少ない、か」
「負傷者はいる。眠らされた者もな」
「《イサナ》か」
「ああ。おそらくな」
アナの犬耳が、力なく垂れた。
以前、目の当たりにした眠りの魔装。
一度は壊したはずのそれを、魔女の福音は修復し、今度は王城の中で使ったのだ。
「サイカ」
ユキは視線を向ける。
「お前は、その場にいたのか」
「ああ」
サイカは悔しげに拳を握り、手から血が滲む。
「別任務で王都付近にいた。異変に気づいて駆けつけた時には、もう宝物庫の方で騒ぎが起きていた」
「追ったのか」
「追った。だが、止められなかった」
普段のサイカなら、口にすることさえ嫌がる言葉だ。
蒼銀の髪は乱れ、青銀の鎧にはいくつもの傷が走っている。
腕には包帯が巻かれ、頬には乾いた血の跡が残っていた。
それは、逃げおおせた者の傷ではない。
追い、阻まれ、それでも食らいつこうとした者だけが負う傷だった。
「オルフェリオがいた」
サイカは低く告げる。
「それと、もう一人」
「もう一人?」
「黒い外套の女だ。顔は見えなかったが、刀を使っていた」
その名も知らない相手を思い出したのか、サイカの目が鋭くなる。
「強いのか」
「強い。おそらく私よりもな」
アナが息を呑んだ。
サイカが自分より強いと認める。
それだけで、相手の異常さは十分伝わった。
「刀か」
ユキの声が、わずかに低くなる。
「どんな太刀筋だった」
「速い。だが、軽いわけではない。こちらの踏み込みに合わせて、最小限の動きで刃を差し込んできた。力で押すというより、こちらの動きを先に読んで潰してくる感じだ」
サイカは包帯の巻かれた腕を見下ろした。
「正面から打ち合っているはずなのに、気づけばこちらの間合いだけが削られていた。あれは、ただ者ではない」
「司教か」
「分からん。だが、オルフェリオが命令しているようには見えなかった。対等か、それ以上にも見えたな」
「……面倒なのが増えたな」
ユキは低く呟く。
レイシアが、机の上に一枚の紙を置いた。
「問題はもう一つある」
「まだあるのか」
「ああ、むしろこちらが本題だ。今朝から、王都の各所にこれが貼り出されている」
ユキは紙を手に取る。
まだ新しい紙だった。
端には告知印が押され、中央には太い文字が並んでいる。
――レノン武闘祭、開催。
優勝者には、望みを叶える秘宝を授ける。
力ある者よ。
願いある者よ。
その手で勝ち取れ。
「……望みを叶える秘宝」
アナが小さく呟き、アイファの表情も険しくなる。
ユキは、紙から目が話せなかった。
レノン。
その名が、妙に耳に引っかかる。
少し前、地下牢でミロが口にしかけた言葉がある。
魔女の福音の本拠地。
その名を、あの少年は確かに言いかけた。
――レ……。
最後までは聞けなかった。
口封じによって、ミロはそれ以上を語れなくなったのだ。
だが今、目の前にある張り紙には、その続きのような名が刻まれている。
レノン武闘祭。
偶然だと切り捨てるには、あまりにも気味が悪かった。
「ユキさん?」
アナが不安そうに顔を覗き込む。
「どうかしましたか?」
「……いや」
ユキは短く答え、張り紙に視線を戻す。
「このタイミングで、それか」
シグレの声が、頭の中に響く。
(露骨だね)
「ああ」
ユキは紙を机に戻す。
「罠だな」
「だろうな」
レイシアは否定しなかった。
「福音が主催か」
「表向きは違う。レノン商会が主催になっている。祭事や闘技興行に金を出している大商会だ」
「レノン商会」
ユキはその名を繰り返した。
また、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
レノン武闘祭。
レノン商会。
そして、ミロが言いかけた、レ、から始まる本拠地の名。
まだ繋がったわけではない。
だが、無関係とも思えない。
「裏で福音と繋がってる可能性があるわけか」
「ああ」
レイシアは張り紙を指で叩いた。
「王城から《アマネ》と《ツムギ》が奪われた直後に、願いを叶える秘宝を賞品にした武闘祭だ。偶然と見るにはあまりに出来すぎている」
「餌だな」
ユキが言う。
レイシアの声は冷静だった。
「おそらくな。それに、腕に覚えのある者、強い願いを持つ者が集まる。置き土産を試すには都合がいいのだろう」
アナが顔を強張らせた。
願い。
誰かを救いたい。
失ったものを取り戻したい。
強くなりたい。
認められたい。
人の願いは、時に弱さと隣り合わせにある。
だからこそ、魔女の福音はそこにつけ込む。
レイシアが言葉を続ける。
「それに、奴らの狙いは置き土産だ。おそらくユキのような、すでに置き土産を持つ者も招いているつもりなのだろう」
「俺は行く」
ユキは即答した。
「言われなくてもな」
「だろうな」
レイシアは短く頷いた。
「ギルドからも人を出す。サイカ、行けるか?」
「当たり前だ」
サイカは椅子から立ち上がろうとするが、その動きに合わせて、ユキがすぐに視線を向けた。
「座ってろ」
「なぜだ」
「怪我人だろ」
「お前にだけは言われたくない」
「うるさい」
サイカは不満げに眉を寄せたが、結局、椅子に座り直した。
アナが一歩前に出る。
「私も行きます」
ユキはちらりと視線を向けた。
「行くのはいい」
「はい!」
「だが、出るな」
アナの犬耳が、ぴたりと止まった。
「……え?」
「武闘祭には出るなと言った」
「で、でも、置き土産が関わっているなら、私も――」
「今回はお前には早すぎる」
アナの顔が強張る。
「連れていくのは構わない」
ユキは遮るように言った。
「だが、戦うのは許さない」
アナは言葉を失った。
ユキの声は冷たくはない。
けれど、そこに譲る気はなかった。
「今回集まるのは、腕に覚えのある連中だ。福音の奴らも紛れ込む。王城を襲った連中が絡んでいるなら、ただの試合で済むはずがない」
「……」
「お前はまだ、そこに立つ段階じゃない」
アナの犬耳が、少しずつ垂れていく。
悔しさはある。
けれど、反論できないことも分かっているのだろう。
それでも、アナは俯いたまま黙り込まず、ぎゅっと拳を握って顔を上げた。
「なら、私は何をすればいいですか」
ユキはわずかに目を細める。
「見てろ」
「見る、ですか?」
「ああ」
ユキは短く頷き、アナは小さく息を呑んだ。
「……学べ、ってことですか」
「そうだ」
少しだけ沈黙が落ちた。
やがて、アナはもう一度拳を握り直す。
「分かりました」
声は小さい。
それでも、折れてはいなかった。
「今回は出ません。でも、ちゃんと見ます。次に必要な時、足手まといにならないように」
「それでいい」
アイファが静かに前へ出た。
「私は出る」
ユキは視線を移す。
「お前は止めても無駄か」
「ああ」
アイファは迷わず頷いた。
「《ソラネ》を奪われたままだ。福音のことは、私にも関係がある。それに、私は戦える」
「幻に呑まれたばかりだろ」
「だからこそだ」
アイファの銀灰の瞳は揺れていなかった。
「次は、リクに恥じないように戦う」
ユキは少しだけ黙った。
止める理由はある。
だが、アイファはすでに戦場を知っている。
そう言う意味では、アナとは違う。
「勝手にしろ」
「そうする」
アナが二人を見比べて、少しだけ悔しそうに唇を結ぶ。
けれど、すぐに顔を上げた。
「アイファさん、頑張ってください」
「ああ」
アイファは小さく頷く。
「見ていてくれ」
「はい!」
レイシアが話を戻すように、机の上の張り紙へ視線を落とした。
「レノン武闘祭は七日後だ。詳しい参加枠は明日確認する。ユキ、アイファ、サイカ。アッシュたち。それと、もう一組こちらで出す」
「アッシュもか」
「放っておいても出るだろう」
「違いない」
ユキは短く返した。
机の上の張り紙が、明かりに照らされている。
望みを叶える秘宝。
その言葉が、ひどく安っぽく見えた。
「セラの形見は、そんなものじゃない」
ユキは低く呟く。
誰かの願いを叶えるために作られたもの。
だが、願いを弄ぶためのものではない。
歪んだ願いは争いを呼び、形見は罪となる。
ならば、罪に変えられる前に壊す。
「七日後」
ユキは張り紙から目を離した。
「福音の連中ごと、全部壊す」
その言葉のあとに、重い沈黙だけが残った。




