第55話 お兄ちゃん
夜は、すっかり更けていた。
ユキたちは、リカナと村人たちを連れて、村長ダイクの家へ戻る。
誰も多くは話さなかった。
リカナはもう泣き叫んではいない。
けれど、小さな手はずっとアナの手を握り、時折もう片方の手を胸元に当てている。
まるで、そこにあるものを確かめるように。
少し歩くと、村長の家が見えてくる。
さらに近づくと、玄関先に人影が見えた。
村長―ダイクだ。
老人は寝間着の上に羽織を引っかけただけの姿で、杖も持たずに外へ出ていた。
夜気の冷たさなど気にしていないのか、家の前でずっと道の向こうを見つめている。
その目が、リカナを捉える。
「リカナ……!」
震えた声が漏れる。
次の瞬間、ダイクはよろめくように走り出していた。
「リカナッ!」
「おじいちゃん……!」
リカナもアナの手を離し、駆け出した。
小さな身体が、老人の胸に飛び込む。
ダイクはその場に膝をつき、リカナを強く抱きしめる。
「すまなかった……すまなかった、リカナ……!」
しわがれた声は、涙で滲んでいた。
「わしが悪かった……お前に、ちゃんと話してやれなかった……お前を一人で苦しませた……!」
「おじいちゃーん……!」
リカナも、老人の背中に腕を回す。
「わたしも……ごめ、ごめんなさぁい……! ひどいこと言って、ごめんなさい……!」
「いいんだ。いいんだ、リカナ」
ダイクは何度も首を振る。
「帰ってきてくれただけでいい。無事でいてくれただけで……それでいいんだ」
二人は、しばらくその場で抱き合っていた。
アナは完全に泣いている。
犬耳が力なく垂れ、両手で口元を押さえていた。
アイファは目を伏せて、何も口にはだしていなかったがその長い耳がかすかに揺れている。
ユキは黙って二人を見ていた。
しばらくして、シグレがユキの横に並ぶ。
そして、いつもの調子で小さく呟いた。
(ねえ、そろそろ中に入れてもらってもいい? 私、感動はしたけど少し寒いな)
「空気を読め」
(読んだ結果、寒いって結論になったんだけど)
ユキはため息をついた。
その声が聞こえたわけではないだろうが、ダイクがようやく顔を上げた。
「……す、すみません。皆様を外に立たせたままで」
老人はリカナの肩を抱いたまま、深々と頭を下げる。
「どうぞ、中へ。何もない家ですが、せめて暖を取ってください」
「助かる」
ユキは短く答えた。
家の中へ入ると、消えかけていた暖炉に薪が足された。
リカナは泣き疲れたのだろう。
ダイクの膝に頭を預けると、ほどなくして眠ってしまった。
赤く腫れた目元。
胸元に置かれた小さな手。
それでも、その寝顔は屋敷の地下で見たものより、ずっと穏やかだった。
ダイクは眠る孫の髪を、何度も何度も撫でている。
「――というわけで、今回の一件は魔女の福音の仕業だ」
ユキが静かに告げると、ダイクは顔を上げた。
「魔女の、福音……」
「ああ。死者に会える奇跡を餌に、人を集めていた。屋敷に現れた死者も、眠らされた村人も、全部その魔装による幻だ」
「……そうでしたか」
ダイクは苦しげに目を閉じる。
「奇跡などでは、なかったのですね」
ダイクはリカナの頭に手を置いたまま、深く頷く。
「この村が狙われたのは、きっと村の弱さです」
「弱さ?」
アナが小さく聞き返す。
ダイクは、眠るリカナを見つめながら言った。
「大切な者を失った者が、独りで泣いていた。わしも、村の者たちも、それを分かっていながら、どうすればよいのか分からなかった」
誰かの夫。
誰かの妻。
誰かの子。
誰かの親。
この村には、そうして死者を抱えた者が多すぎた。
「だから、あの屋敷に縋ってしまったのでしょう」
ダイクの声は、静かだった。
「ならば、これからは村人同士で助け合います。孤独をそのままにしないように。死者を忘れるのではなく、残された者同士で支え合えるように」
ユキは何も言わなかった。
それは、この老人が自分で選んだ答えだった。
ダイクは深く頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
「礼ならアナに言え」
ユキは言った。
「リカナを助けたいと言ったのは、こいつだ」
「えっ、私ですか!?」
突然名前を出され、アナの犬耳が跳ねる。
ダイクはアナへ向き直り、改めて頭を下げた。
「アナ様。ありがとうございました」
「い、いえ! そんな、私は、その……」
アナは慌てて手を振った。
「リカナちゃんが、戻ってきてくれてよかったです」
その言葉に、ダイクは目元を細める。
「今日は皆様もお疲れでしょう。どうかこの家でお休みください」
「そうさせてもらう。気遣い、感謝する」
ユキが答える。
隣では、アナがもう夢と現実の狭間を行ったり来りしていた。犬耳がゆっくり揺れ、目は半分閉じかけている。
アイファも壁際に座ったまま、こくり、こくりと頭を落としていた。
「お前ら、限界じゃないか」
「だ、大丈夫です……起きてます……」
「……私は、寝ていない」
そう言った直後、アイファの頭が小さくがくんと落ちた。
シグレが楽しそうに笑う。
(アイファ、寝てないって言いながら寝るタイプなんだね)
「ほら、休むぞ」
ユキは立ち上がる。
「夕暮れくらいになったらギルドに戻る。それまで休息を取れ」
「は、はい……」
「……分かった」
アナとアイファは、案内された部屋へ向かった。
ユキもまた、ダイクに用意された小さな部屋で横になる。
身体は疲れていた。
だが、眠りに落ちる寸前、胸の奥に残っていた痛みだけは、まだ消えてはいなかった。
◇
懐かしい夢を見た。
セラが泣いていた。
それは、ユキにとって初めて大切なものを失った日の夢だった。
セラの膝の上で、ユキは泣いていた。
何度も何度も、もう戻らない名前を呼んだ。
意味のないことだと分かっていながら、それでも呼ぶことをやめられなかった。
セラは、そんなユキを抱きしめていた。
けれど、いつものように優しく笑ってはいなかった。
セラも泣いていた。
静かに、声を殺して、ユキと同じように泣いていた。
初めて見るセラの涙。
その涙を見た時、ユキは幼いながらに思った。
もう二度と、この人にこんな顔をさせたくない。
セラだけは守る。
何があっても。
どんなものを敵に回しても。
もう二度と、セラの涙は見たくない。
そう誓った。
懐かしい夢だった。
そして、ひどく痛い夢だった。
◇
(おはよう、ユキ)
シグレの声が、頭の中に響く。
(もう昼過ぎだけどね)
ユキはゆっくりと目を開けた。
(その様子だと、あんまりいい目覚めじゃなさそうだね)
「……あいつの夢を見た」
ユキは低く呟く。
少しだけ濡れていた目元を指で拭う。
シグレは、すぐには茶化さなかった。
(セラの?)
「ああ」
ユキは身体を起こす。
夢の中の涙が、まだ胸の奥に残っていた。
「シグレ」
(なに?)
「やっぱり、魔女の福音は……あいつが作ったと思うか」
その問いに、シグレは答えなかった。
いや、答えられなかった。
ユキの言う「あいつ」が誰なのか。
シグレには分かっている。
オルフェリオが残した言葉。
――今度は、貴方のよく知る彼女も一緒に。
ミロが言っていた、
顔を見たことがないという、女の教祖。
そしてなにより、
《イサナ》、《カナタ》が纏うセラに良く似た気配。
繋がってほしくないものばかりが、嫌な形で繋がっていく。
けれど、確証はない。
だからシグレは、軽口を叩けない。
ユキも、それ以上は何も言わなかった。
ただ、窓の外に広がる昼の光を見つめていた。
◇
夕暮れ。
村長の家の前に、ユキたちは揃っていた。
空は赤く染まり、村の屋根にも長い影が落ちている。
「世話になった」
ユキが短く言う。
「ありがとうございました!」
アナが深く頭を下げる。
「……ありがとう」
アイファも少し遅れて、ぎこちなく頭を下げた。
ダイクは穏やかな顔で首を振る。
「いえ。こちらこそ、村をお救いいただき、本当にありがとうございました」
その隣には、リカナが立っていた。
目の周りはまだ赤く腫れている。
けれど、夜の地下牢で見たような迷子の顔ではなかった。
ダイクが優しく促す。
「ほら、リカナ。皆様にご挨拶を」
「うん」
リカナは一歩前に出る。
「アナお姉ちゃん、ありがとう!」
「はい! リカナちゃんも、元気でいてくださいね!」
アナはすでに涙目だった。
「シグレお姉ちゃんも、ありがとう」
「どういたしまして。元気でね、リカナ」
シグレがひらひらと手を振る。
「アイファお姉ちゃんも」
「……私は、何もしていない」
「でも、一緒にいてくれたから」
その言葉に、アイファは少しだけ目を丸くした。
「……そうか」
長い耳が、照れたようにわずかに揺れた。
最後に、リカナはユキの前に立った。
そして、恥ずかしそうにユキの裾をちょんちょんと引っ張る。
「……なんだ」
ユキが腰をかがめた。
その瞬間。
ちゅ、と。
リカナの唇が、ユキの頬に触れた。
ユキが固まる。
アナの尻尾が、ぶんぶんと揺れた。
アイファの耳がぴくりと動く。
シグレは満面の笑みを浮かべている。
(ユキも罪な男だねぇ)
「黙れ」
ユキは低く返したが、頬に残った感触のせいか、いつもの調子ではなかった。
リカナは真っ赤な目で、それでもまっすぐに笑った。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
ユキは何も言えなかった。
「私、お兄ちゃんみたいに強くなるからね!」
その言葉に、ユキは少しだけ目を細める。
そして、リカナの頭に手を置いた。
「俺みたいにはならなくていい」
「え?」
「お前は、お前の父親みたいに強くなれ。母親みたいに優しくなれ」
リカナは目を丸くした。
ユキは静かに続ける。
「お前なら、もう大丈夫だ」
リカナの顔が、くしゃりと歪む。
けれど、その眼はもう逃げてはいなかった。
胸元に手を当て、小さく頷く。
「うん!」
ユキ達は村長の家に背を向け、帰路に歩き出す。
少し歩いたところで、背後から幼く、けれど大きな声が届いた。
「ばいばーい、ありがとー!」
リカナが大きく手を振っている。
アナは振り返り、両手をぶんぶんと振り返した。
「リカナちゃーん! また会いましょうねー!」
アイファも小さく手を上げる。
「……また」
シグレはにこにこと笑っていた。
少し歩いたところで、アナがぽつりと呟く。
「なんだか、私たちがついでみたいでした……
ほっぺにご褒美もらえませんでしたし……」
「……今回、私は本当に何もしていない」
アイファもなぜか少し沈んでいる。
ユキはため息をつく。
「拗ねるな。面倒くさい」
「拗ねてません!」
「……拗ねていない」
「同じ顔で言うな」
シグレが楽しそうに笑う。
(よかったね、ユキ。)
「うるさい」
ユキは歩き出す。
「ほら、帰るぞ。遅くなっちまう」
背後から、もう一度リカナの声が響いた。
「お兄ちゃーん!」
ユキは振り返らなかった。
けれど、その声はしばらく胸の奥に残っていた。
――お兄ちゃん。
遠い記憶の中で、誰かがそう呼んだ気がした。
ユキは小さく息を吐く。
そして、その声を振り切るように、ギルドへ続く道を歩き出す。




