第54話 胸の蓋
「お母さんとお父さんは……もう、一緒にいられないの?」
その問いに、ユキはすぐには答えられなかった。
リカナの姿に、かつての自分が重なる。
セラを失った日。
世界から色が消え、何もかもがどうでもよくなった日。
リカナよりも歳を重ねていたはずなのに、ユキは泣いた。
喚いた。
何度も名前を呼んで、それでも返ってこない声に、胸の奥をぐちゃぐちゃにされた。
どれだけ願っても、死者は戻らない。
それを、ユキは知っている。
痛いほどに、知っている。
「……ああ」
ユキは小さく、けれど確かに告げる。
「お前の父親と母親は、もう戻ってこない」
リカナの顔が歪む。
小さな唇が震え、瞳からまた涙が溢れた。
「やだ……」
「リカナ」
「やだよ……お母さん……お父さん……」
その声は、地下牢の冷たい石壁に吸い込まれていった。
アナは胸元で手を握りしめている。
今にも泣き出しそうな顔だった。
アイファも何も言わず、静かにリカナを見つめている。
ユキは一度、小さく息を吐いた。
どう言えばいい。
何を言えば、この少女は前を向ける。
そんなもの、ユキには分からなかった。
人の痛みに寄り添うには、ユキはまだ若すぎる。
セラのように笑うには、あまりにも不器用すぎる。
それでも、目の前の少女を放っておくことはできなかった。
ユキは膝を折り、リカナと目線を合わせる。
「リカナ。今は泣いていい」
「……っ」
「泣くなとは言わない。忘れろとも言わない」
ユキは、ぎこちなく口元を緩めた。
かつてセラが自分に向けてくれた微笑みを思い出す。
何もかもを包み込むような、優しい笑み。
けれど、真似ようとした瞬間、ユキはそれが自分にはできないことを悟った。
違う。
セラなら、もっと上手く言う。
もっと優しく、もっと温かく、この子の心に触れただろう。
自分は聖女セレスティアにはなれない。
ユキは、再びふっと息を吐いた。
貼りつけようとしていた仮面が、静かに剥がれ落ちる。
ならば、聖女の真似ではなく、自分の言葉で言うしかない。
「リカナ」
「……なに?」
「お前の母親は、どんな人だった」
リカナは涙で濡れた顔を上げた。
「お母さん……?」
「ああ。思い浮かべてみろ。お前が大好きだった母親を」
リカナはしゃくり上げながら、胸元の服を握った。
「お母さんは……いつも、優しかった」
小さな声だった。
けれど、その声は震えながら続いた。
「髪を結んでくれて……失敗しても、怒らなくて……笑ってくれて……」
「そうか」
「綺麗だった。すごく、綺麗だった」
ユキは頷く。
「父親は?」
「お父さんは……いつも、面白いこと言ってた。私が泣くと、変な顔して笑わせてくれた。力持ちで、かっこよくて……」
言葉が途切れる。
けれど、その顔には、ほんのわずかに思い出の光が差していた。
母の手。
父の笑い声。
三人で囲んだ食卓。
祖父の家で過ごした、何気ない時間。
もう戻らない時間。
けれど、確かにあった時間。
「よく覚えているじゃないか」
ユキは言った。
「お前は、二人が大好きだったんだな」
リカナは何度も頷いた。
涙が頬を伝い落ちる。
「うん……大好き……大好きだよ……」
「なら、忘れるな」
ユキの声は、静かだった。
「二人はもう戻らない。会うことも、声を聞くこともできない。けれど、お前が覚えている限り、二人がいたことまで消えるわけじゃない」
「……消えない?」
「ああ」
ユキは自分の胸に手を置いた。
「優しかった母親の姿も、かっこよかった父親の姿も、全部ここに刻め」
リカナは分からないという顔で、ユキを見つめる。
その時、シグレがそっと歩み寄った。
人の姿を取ったシグレは、リカナの後ろに膝をつき、小さな身体を包むように腕を回す。
「ここだよ」
シグレはリカナの手を取り、その掌を胸に当てさせた。
「ちゃんと思い出して。優しかったお母さん。面白くて、かっこよかったお父さん。大好きだった二人のこと」
リカナの手が、小さく震えた。
「胸の中に、しまうの?」
「しまうんじゃない」
ユキが言った。
「連れていくんだ」
リカナが目を見開く。
「連れて、いく?」
「お前がこれから歩く道に、二人の記憶も一緒に連れていけ」
ユキは、自分の胸に置いた手にわずかに力を込めた。
「そうすれば、二人はもう、どこにも行かない」
その瞬間、ユキの耳に声が聞こえた気がした。
――ユキ。
優しく、自分の名前を呼ぶ声。
ありえない。
分かっている。
それでも、胸の奥で、確かにセラの声がした。
ユキは目を伏せ、すぐに顔を上げる。
「どうだ、リカナ」
「……いる」
リカナは胸に手を当てたまま、小さく呟いた。
「お母さんも、お父さんも……いる」
「そうか」
「ここに、いる……」
涙はまだ止まってはいなかった。
けれど、先ほどまでのように、行き場をなくして崩れ落ちる涙ではなかった。
リカナは泣きながら、自分の胸を両手で押さえ続ける。
そしてユキが静かに問いかけた。
「二人は、お前に何か言っていなかったか」
「……え?」
「こうなってほしい。こうしてほしい。そんなお願いだ」
リカナは涙を拭いながら、懸命に記憶を探した。
やがて、リカナの表情がわずかに変わる。
「お母さんが……言ってた」
「なんて?」
「リカナは、お母さんに似て優しい子で……お父さんに似て強い子になってくれたら嬉しいって」
きっと、思い出しているのだろう。
父と母に挟まれ、頭を撫でられながら笑っていた日のことを。
「そうか」
ユキは、リカナの頭に手を置いた。
「なら、その願いを叶えるんだ」
「願いを……?」
「ああ」
ユキの声は、少しだけ柔らかかった。
「二人がもうここにいないなら、お前が二人の願いを連れて歩けばいい」
リカナはじっとユキを見つめた。
「それが、お前にできる唯一の恩返しだ」
「私に……できるかな?」
「できる」
ユキは、迷わず言った。
「お前はもう十分、強い子だ」
その言葉に、リカナの目からまた涙がこぼれた。
けれど今度は、泣き崩れなかった。
小さな手で胸を押さえ、何度も何度も頷く。
「うん……私、頑張る」
「そうか」
「お母さんみたいに優しくて……お父さんみたいに強い子になる」
ユキは、そっと手を離した。
その微笑みは、かつての聖女には届かない。
届かないはずだ。
けれど、アナは涙を堪えきれない顔でユキを見ていた。
アイファも、何かを噛みしめるように目を伏せている。
シグレだけが、少しだけ寂しそうに笑っていた。
「じゃあ、戻るぞ」
ユキが立ち上がる。
「村長が待っている」
「……うん」
リカナはまだ泣いている。
それでも確かに、自分の足で立ち上がった。
「行こう、リカナちゃん」
アナが差し出したその手を、リカナは力強く握り返す。
アナの目にも涙が浮かんでいたが、彼女はそれを拭わず、リカナの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。
目を覚ました村人たちも、重い足取りで階段へ向かう。
やがて、地下牢から人の気配が消えた。
◇
薄暗い石造りの空間に、ユキとシグレ、アイファだけが残る。
「……ユキ」
アイファが近づく。
ユキは振り返らずに言った。
「悪い。少し一人にしてくれ」
「……分かった」
アイファは短く答えたけれど、すぐには動かない。
「ユキ」
「なんだ」
「ありがとう」
その言葉に、ユキの肩がわずかに揺れた。
アイファは胸元に手を当てていた。
「私も……少しだけ、前を向けそうだ」
ユキは黙っている。
「リクは、私に死んでほしいなんて願っていなかった」
アイファの声は、静かだった。
「復讐だけを抱えて、壊れていくことも、きっと望んでいなかった」
彼女の脳裏にも、弟の姿が宿っているのだろう。
お姉ちゃん、と呼ぶ幼い声。
もう戻らない。
けれど、消えたわけではない。
「私も、リクの願いを連れて歩いてみる」
アイファは、ぎこちなく微笑んだ。
「それを思い出させてくれて、ありがとう」
そう言って、アイファも階段を上っていった。
今度こそ、地下にユキだけが残される。
しばらく、ユキはその場に立ち尽くす。
やがて近くの段差に腰を下ろした。
胸の奥で、何かの蓋が開く音がする。
押し込めていたものが、ゆっくりと溢れ出した。
セラの姿が浮かぶ。
「もう、ユキったらしょうがないんだから」
困ったように笑う顔。
「こら、ユキ。それは違うよ」
真剣に叱る顔。
「ユキ、これやっておいてね」
面倒な雑事を当然のように押しつけてくる顔。
「ほらほら、ユキ。それじゃ全然駄目だよ」
剣を重ねるたび、容赦なくユキを叩き伏せて、それでも楽しそうに笑っていた顔。
そして。
「ユキ」
自分の名を呼ぶ声。
何度も聞いた。
何度も思い出した。
何度忘れようとしても、忘れられなかった声。
ユキは、今もなお、その声が好きだった。
どうしようもないほどに、好きだった。
そして、最後に浮かんだのは、あの日のセラだった。
「ユキ、お願いね」
悲しそうに、けれど優しく微笑んでいた。
「全部、全部壊して」
その願いを、ユキは胸に刻んだ。
刻んだはずだった。
なのに今さら、痛む。
「……っ」
喉の奥から、嗚咽が漏れる。
誰もいない地下牢で、ユキは顔を伏せた。
強くなったはずだった。
泣き尽くしたはずだった。
もう前を向いているはずだった。
それでも、セラは戻らない。
その事実だけは、何度受け入れても、胸の奥を抉ってくる。
「……ユキ」
柔らかな声がした。
気づけば、シグレが隣にいた。
人の姿を取った彼女は、ユキの背後に回り、そっと抱きしめるように腕を回す。
「大丈夫だよ」
ユキは答えない。
シグレは、子どもをあやすように、ぽんぽんとユキの頭を撫でた。
「ユキは強いよ」
その声は、いつもの軽い調子ではなかった。
「セラが願ったユキに、ちゃんとなれてる」
ユキの肩が小さく震える。
「だから、大丈夫」
シグレはそれ以上、何も言わなかった。
ユキも、また、深く口を閉じていた。
ただ、地下牢の冷たい空気の中で、二人だけの時間が静かに流れていく。
それは、そう長い時間ではなかった。
けれど、その短い間だけ、ユキは壊す者ではなく、失ったものを胸に抱えた一人の少年に戻っていた。




