第53話 残された少女
アナが目を覚ましたのは、それから少し後だった。
「……う、ん」
小さな声を漏らし、アナの瞼が震える。
「アナ」
アイファが呼ぶと、アナはぼんやりと目を開けた。
「アイファ、さん……?」
「無理に動くな」
「私、どうなって……」
アナは困惑の表情を浮かべる。
「《ミハル》を使いすぎて倒れた」
ユキが近づき、淡々と告げる。
「お前のおかげで、アイファは戻った」
「……よくやった」
その言葉に、アナの目がわずかに見開かれた。
ユキから労いの言葉が発せられるのは、それほどに珍しかった。
それから、アナはほっとしたように息を吐く。
「よかった……」
「よくはない。無茶しすぎだ」
「でも、できました」
アナは弱々しく笑った。
「アイファさん、ちゃんと戻ってきてくれましたから」
アイファの耳が、わずかに揺れる。
「すまない……面倒をかけた」
「友達ですから」
アナは当然のように言う。
するとアイファは言葉に詰まり、少しだけ視線を逸らす。
少しの後に、しっかりとアナの目を見つめ返した。
「アナ、ありがとう」
アイファの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑みと呼ぶにはぎこちなかったが、その耳はほんのり赤みがかっていた。
「それで……ミロさんは?」
アナが周囲を見回す。
ユキは少しだけ黙った。
それだけで、アナは察したようだった。
「……そう、ですか」
(口封じだよ)
シグレの声が、刀の内側から静かに響く。
(ユキが殺したんじゃない)
それは、アナへ向けた言葉だった。
誤解させないために。
そして、ほんの少しだけ、ユキを庇うために。
シグレは知っている。
ユキが、ミロを許していなかったことを。
それでも、殺すつもりまではなかったことを。
アナがユキをどう見るのか。
そんなことまで気にしてしまうくらいには、シグレはユキのことをよく見ていた。
アナは小さく息を呑む。
それから、ゆっくりとユキを見た。
「……分かっています」
弱々しい声だった。
それでも、そこには確かな信頼があった。
「ユキさんが、そんなことをする人じゃないって、もう分かっています」
ユキは何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに視線を逸らす。
(よかったね、ユキ)
「うるさい」
短く返す声は、いつもより少しだけ低かった。
ユキは、先ほどのシグレの説明に言葉を継ぎ足す。
「ミロが本拠地を言いかけた瞬間、《カナタ》が発動して殺されたんだ」
「そんな……」
アナの犬耳が、力なく垂れる。
「教団の仕込みだろうな」
(あの耳飾り自体が、首輪だったってことだね)
シグレが淡々と言った。
「許せません」
アナは小さく呟いた。
その声は震えていたが、恐怖ではない。
怒りが、確かに混じっていた。
ユキは地下へ続く扉の方を見る。
「行くぞ。まだ終わっていない」
ミロは死んだ。
《カナタ》も砕けた。
だが、眠らされた者たちはまだ地下牢にいる。
リカナも。
村人たちも。
幻の中に閉じ込められていた者たちも。
ユキたちは急いで地下牢へ戻った。
冷たい石段を下りるたび、湿った空気が肌に絡んだ。
先ほどまで漂っていた魔力の気配は薄れ、屋敷全体を覆っていた不気味な重さも、少しずつ抜け落ちていた。
地下牢に着くと、眠っていた村人たちが、一人、また一人と目を覚まし始めていた。
「ここは……?」
「俺は、確か……屋敷に……」
「母さんがいたんだ。死んだはずの母さんが……」
誰もが状況を飲み込めず、戸惑いの声を漏らしている。
夢から無理やり引き剥がされた者たちの顔には、安堵よりも混乱が濃かった。
その中で、小さな身体が跳ね起きる。
リカナだ。
「お母さん?」
幼い声が、暗い地下牢に響く。
「お父さん?」
リカナは辺りを見回した。
だが、そこに両親はいない。
あるのは、冷たい石壁と、目を覚ました村人たちと、傷だらけのユキたちだけだった。
「……どこ?」
誰も答えられなかった。
アナは唇を噛み、アイファは目を伏せる。
ユキもまた、すぐには言葉を探せなかった。
リカナの顔が、少しずつ歪んでいく。
「さっきまで、いたのに」
震える声。
「お母さん、笑ってたのに」
小さな手が、宙を掴む。
「お父さんも、リカナって呼んでくれたのに」
アナが息を呑み、アイファはただ拳を強く握った。
リカナの瞳から、大粒の涙がこぼれる。
「お母さん!」
叫び声が、地下牢に反響する。
「お父さん!」
誰も返事をしない。
「いや……いやぁっ!」
リカナはその場に崩れ落ちた。
小さな身体を折り畳むようにして、石の床に膝をつく。
「お母さん! お父さん! いやぁぁぁ!」
泣き叫ぶ声が、屋敷の地下に響き渡った。
幻は消えた。
死者は戻らない。
奇跡は、終わった。
けれど、残された者の痛みだけは、まだそこにあった。
「ねぇ」
掠れた声が、泣き声の隙間からこぼれ落ちる。
リカナが、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
大きな瞳は真っ赤に腫れ、頬には涙の跡がいくつも残っている。
小さな手は石の床を握りしめ、爪の間に汚れが入り込んでいた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
その呼び方に、ユキの胸の奥が軋んだ。
お兄ちゃん。
ただの呼び名だ。
リカナにとっては、屋敷に来た冒険者のひとりを呼ぶための、何気ない言葉だったのかもしれない。
胸の奥に、鋭い棘が刺さる。
「どうして?」
リカナが震える声で問う。
「どうして、お母さんもお父さんも、いないの?」
地下牢に、誰の声もなかった。
目を覚ました村人たちも、息を呑んだまま黙っている。
アナは唇を噛みしめ、泣きそうな顔でリカナを見ていた。
アイファは、何かを思い出すように目を伏せている。
シグレも、何も言わなかった。
リカナの涙だけが、ぽたぽたと石の床に落ちていく。
「さっきまでいたのに」
「…………」
「お母さん、リカナの頭、撫でてくれたのに」
小さな手が、自分の頭に触れる。
そこにはもう、誰かの手の温もりなど残っていない。
「お父さん、抱っこしてくれたのに」
リカナの声が、また崩れた。
「ねぇ、どうして? どうして消えちゃったの?」
ユキは答えられなかった。
幻だった。
そう言えばいいのか。
死んだ人間は戻らない。
そう告げればいいのか。
あれは魔装が見せた幻で、お前が見たものは本当の両親ではなかった。
そんな正しさを、この子に突きつければいいのか。
ユキは、黒刀を握る手に力を込める。
壊すことならできる。
魔装を斬ることならできる。
歪んだ奇跡を終わらせることならできる。
けれど。
終わらせた後に残る少女の痛みを、どうすればいいのか。
それだけは、まだ分からなかった。
「お兄ちゃん」
リカナが、泣き濡れた瞳でユキを見上げる。
「お母さんとお父さんは……もう、一緒にいられないの?」
その問いは、刃よりも深くユキを突き刺した。
地下牢の冷たい空気が、肺の奥に重く沈んだ。
誰も何も言えなかった。
幻は消えた。
死者は戻らない。
それでも、残された少女はまだ、奇跡の続きを探していた。




