第51話 友達だ
アイファの刃が、ユキの喉元へ滑り込む。
ユキは首をわずかに傾け、黒刀でその軌道を弾いた。
火花が散る。
地下牢の冷たい空気に、金属音が鋭く響く。
「アイファさん!」
アナが叫ぶ。
だが、アイファは反応しない。
銀灰の瞳はユキを見ているようで、見ていなかった。その奥に焼きついているのは、憎しみだけだ。
「セヴラン……!」
もう一度、アイファがその名を吐く。
逆手に握ったナイフが、低い位置から跳ね上がる。
ユキはそれを受け、流し、最低限の動きでかわす。
「おい、起きろ。俺はセヴランじゃない」
返事はない。
代わりに、アイファの踏み込みがさらに深くなった。
刃が黒刀を擦り、耳障りな音を立てる。
地下牢は狭い。
左右には鉄格子が並び、その向こうではリカナや村人たちが眠っている。
ここで大きく刀を振れば、誰かを巻き込む。アイファが無理に踏み込めば、眠っている者を盾にされる危険もある。
「面倒な場所で暴れるな」
一歩、後ろへ下がる。
アイファはそれを逃げと見たのか、獣のような速さで追ってきた。
ナイフが低く走る。
それをユキは黒刀で弾き、階段の方へ身体を流した。
「ユキさん!」
「リカナたちから離す」
短く言い、ユキはさらに後退する。
アイファは迷わず追う。
足音はほとんどない。だが、動きそのものは以前より荒い。
地下階段を駆け上がる。
古い石段に靴音が響き、湿った空気が背後へ流れていく。
ミロは逃げるでも止めるでもなく、楽しそうにその様子を見ていた。
「いいね。仲間同士で戦うのって、ちょっと悲しいけど、すごく綺麗だよね」
「黙ってろ」
ユキは吐き捨てる。
階段を上がり、古びた屋敷の廊下へ出る。
アイファは止まらない。幻の中で見ている敵を逃すまいと、身体ごと刃を押し込んでくる。
ユキはその勢いを受け流しながら玄関まで下がり、扉を蹴るように開いた。
夜気が流れ込む。
庭は静まり返っていた。
枯れた草が風に揺れ、朽ちた門が闇の中で黒く沈んでいる。
ここなら、戦える。
直後、アイファが庭へ飛び出した。
速い。
だが、粗い。
かつて《ソラネ》を使っていた時のアイファは、もっと静かだった。
空を足場にし、角度を殺し、気配を消し、こちらの意識の外から刃を滑り込ませてきた。
今のアイファは違う。
怒りに任せて踏み込み、憎しみに任せて斬りつけている。
刃は鋭い。身体能力も高い。けれど、そこにあったはずの冷静さが抜け落ちていた。
ユキは真正面から受け止め、低く言う。
「お前はその程度だったか?」
アイファの眉がわずかに動いた。
「《ソラネ》を使っていたお前は、もっと強かったぞ」
「黙れ……!」
アイファが叫ぶ。
ナイフが雑に横薙ぎに走った。
だが、ユキは半身でかわし、柄でアイファの手首を打とうとして、寸前で止める。
今のアイファに痛みで止まる理性があるとは限らない。
「俺は確かに、復讐しろと言った」
ユキは刃を受けながら続ける。
「だが、道具ではなく、自分の意思で来いとも言ったはずだ」
アイファの刃が、黒刀に噛み合う。
「お前はまた、魔女の福音の道具になるのか?」
その言葉に、アイファの瞳が一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに憎悪が塗り潰す。
「セヴラン……!」
見えていない。
聞こえていない。
そこへ、屋敷の入口からミロが顔を出す。
左耳の紫水晶が、淡く揺れている。
「無駄だよ」
ミロは歪んだ笑みを浮かべて言う。
「その子は幻の中にいる。君の姿は、一番憎い相手に見えてる。声もちゃんとは聞こえてないよ」
「随分と楽しそうだな」
「うん。仲間討ちって、見てる分には面白いから」
ミロは素直に頷いた。
「僕はこのまま、ここで見させてもらおうかな」
ユキは刀越しにアイファを見た。
「そうか」
黒刀に力を込め、アイファの刃を押し返す。
「なら、さっさと正気に戻れ。アイファ」
「……!」
「高みの見物を決めてるガキを、引きずり下ろすぞ」
(どうする? ユキ。峰打ちで気絶させる?)
シグレの声が、頭の中に響く。
現実的には、それが早い。
アイファを気絶させれば、一時的には止められる。
相手も殺さずに済む。
以前のユキなら、迷わずその選択をしたはずだ。
だが、ユキは短く息を吐いた。
「……アイファは、友達だ」
口にしてから、ユキは自分で少しだけ驚いた。
けれど、訂正する気にはならなかった。
「友達に手をかけたら、セラが悲しむ」
(……そっか)
シグレが、刀の中でにっこり笑った気がした。
(なら、しょうがないね)
その時、背後からアナの声が響く。
「ユキさん!」
地下から駆け上がってきたアナが、息を切らしながら庭へ飛び出してくる。
顔は青ざめている。だが、その目だけは真っ直ぐだ。
「私に考えがあります!」
「言え」
「アイファさんを、少しだけ動けなくしてください!」
(アナの言う通りにやってみようか)
「分かった」
ユキは即座に動いた。
アイファのナイフを受ける。
押し合う。
力の向きが真正面に集まった瞬間、ユキはわざと刀をずらした。
アイファの体勢がわずかに崩れる。
その隙をユキは逃さない。
ユキは踏み込み、アイファの手首を掴んだ。
強引に身体を捻り、背後へ回る。ナイフを握った腕を後ろへ固め、もう片方の腕で肩を押さえ込んだ。
「っ、離せ……!」
アイファが暴れる。
だが、ユキは動かさない。
「アイファ」
「セヴラン……!」
「今度、サイカに近接戦闘を教えてもらえ」
(今だよ、アナ)
「はい!」
アナが駆け寄る。
首元の小さな装飾具――《ミハル》を握りしめる。
そこからアイファに向かい、淡い光の糸が伸びた。
アナの手首と、ユキに押さえられたアイファの手首へ絡みつくように繋がる。
「ミハル、お願い……私だけじゃなく、アイファさんにも!」
アナは歯を食いしばる。
「ミハル、魔装顕現!」
淡い光が、弾けた。
普段の《ミハル》は、アナの五感を少しだけ押し上げる補助魔装だった。
匂いを拾いやすくし、音を聞き分けやすくし、暗がりでも僅かな変化に気づけるようにする。
だが、今は加減などしていなかった。
アナは自分の魔力を、ありったけ《ミハル》へ流し込む。
瞬間、世界が押し寄せた。
土の匂い。
夜風の冷たさ。
ユキの呼吸。
アイファの体温。
ナイフの金属臭。
ミロの耳飾りから漏れる甘い魔力の気配。
枯れ草が擦れる音。
地下から漂う眠った人々の匂い。
現実の情報が、暴力のようにアナとアイファへ流れ込む。
「うっ……!」
アナの膝が揺れた。
ただでさえ、五感の鋭い獣人の彼女には、その情報量は多すぎる。
頭の奥が焼け、耳鳴りが止まらない。
匂いが形を持って襲ってくる。
それでも、アナは叫んだ。
「アイファさん、ちゃんと見てください!」
アイファの瞳が揺れる。
「目の前にいるのは敵ですか!? それとも、仲間ですか!?」
アイファの喉が震えた。
「セヴ……ラン……」
現実と幻が、激しくぶつかる。
見えているのは、セヴラン。
けれど、鼻が知っている。
耳が知っている。
肌が知っている。
この呼吸は違う。
この魔力は違う。
この手の強さは、あの男のものではない。
「違う……」
アイファが奥歯を噛みしめる。
「違う……お前は……」
銀灰の瞳から、憎悪の濁りが少しずつ引いていく。
「アイファさん!」
アナが、最後の力を振り絞って叫んだ。
「目の前にいるのは、誰ですか!」
アイファは息を呑んだ。
そして、掠れた声で答える。
「……友達だ」
その瞬間、紫の靄が弾けるように消えた。
「よかった……」
アナが小さく笑う。
次の瞬間、糸が解け、《ミハル》の光が消える。
アナの身体がぐらりと傾く。
「アナ!」
アイファが反射的に腕を伸ばした。
ユキの拘束から外れた腕で、倒れかけたアナを受け止める。
アナは意識を失っていた。
それでも、その顔には安堵が残っている。
アイファはアナを抱え、しばらく何も言えなかった。
やがて、低く呟く。
「……すまない。面倒をかけた」
「ああ。本当にな」
ユキは刀を下ろさずに答える。
アイファはアナをそっと地面に寝かせた。
それから、ユキと並ぶように立つ。
二人の視線が、屋敷の入口に立つミロへ向いた。
「本当に何も仕掛けてこないとはな」
ユキが言う。
ミロは少しだけ目を丸くしていた。
だが、すぐにぱち、ぱち、と小さく拍手をする。
「うん。まさか《カナタ》を破るとは思わなかったよ」
紫水晶の耳飾りを撫でながら、ミロは楽しそうに笑う。
「なるほどね。《カナタ》より強く、五感を現実に繋げたんだ。視る幻と聞く声を、匂いと熱と痛みで上書きした。すごいなぁ」
「感心してる場合か」
「してるよ。だって、すごかったもん」
ミロは無邪気に言う。
「君たちの友情、ちゃんと見せてもらったよ」
その笑顔は、やはり歪んでいた。
「けど、頼みの魔装持ちの子は倒れちゃったね」
ミロの左耳で、紫水晶が再び淡く光る。
「もう一回、抗えるかな?」
「させると思うか」
ユキが地面を蹴った。
一瞬だった。
ミロが耳飾りに魔力を込めるより早く、ユキは距離を詰める。
ミロの顔から、初めて笑みが消えた。
「わ」
短い声。
ユキの黒刀が、ミロへ向かって走る。
狙いは耳飾り。左耳に揺れる紫水晶。
それを砕けば終わる。
だが。
刃が届く寸前、白い影が間に立った。
金の髪。
優しい瞳。
少し困ったように笑う口元。
ユキの腕が、止まる。
黒刀の切っ先が、白い衣の前でぴたりと震える。
そこにいたのは――聖女セレスティアだった。




