第45話 屋敷へ向かう道
ギルド《灯守の会》の受付ホールでは、出発の準備が進んでいた。
アナは腰の小物入れを何度も確認し、アイファは新しい灰色の服の袖口を気にしながら、壁際で静かに立っている。
シグレだけは、これから幽霊屋敷へ向かうというのに妙に楽しそうだ。
その中で、サイカがふと口を開いた。
「すまないが、私は付いていけないぞ」
「なんだ、怖いのか」
ユキがそう言った瞬間、サイカの拳がユキの頭に落ちた。
ごん、と鈍い音がして、ユキの頭がわずかに沈む。
「なんでサイカさんは一緒じゃないんですか?」
アナが、不安そうにサイカを見る。
サイカがいれば、多少の怪異など拳ひとつで吹き飛ばしてくれそうな安心感がある。
実際、本人もやりかねない。
だが、サイカは短く首を振る。
「私は別件だ」
「別件……ですか?」
「この件は、お前たちに任せる。危険だと判断したら、無理をせず戻ってこい」
「無理をする前提で言うな」
「この前、誰が一番無理をしたと思っている。お前に言っているんだ、ユキ」
ユキは少しだけ気まずそうに視線を逸らし、何もない所を注視する。
サイカは最後にアナの頭へ軽く手を置く。
「怖いなら、無理に前へ出るな。だが、お前の耳と鼻は役に立つ。自分にできることをしろ」
「は、はい!」
アナの犬耳がぴんと立つ。
「アイファ。お前もだ。勝手に飛び出すな」
「分かった」
「本当に分かっているか?」
「たぶん」
「たぶんでは困る」
サイカが眉間を押さえる。
「アイファ、サイカに怒られる才能あるね」
ふふっ、とシグレは今日も楽しそうだ。
◇
レイシアから受けた依頼は、近隣の村外れにある古い屋敷の調査。
夜になると窓辺に人影が立つ。
しかもその姿が、すでに死んだはずの人間に見えるという。
幽霊屋敷。
その言葉を聞いてから、アナの犬耳はずっと不安げに伏せられている。
「ゆ、幽霊って、本当にいるんでしょうか……」
「さあな。斬れるなら問題ない」
ユキが淡々と返す。
「斬れなかったらどうするんですか!」
「その時考える」
「考えるの遅くないですか!?」
アナの声が裏返る。
その横で、シグレが楽しそうに笑っている。
「大丈夫だよ、アナ。幽霊ってだいたい、気づいたら後ろに立ってるだけだから」
「それが怖いんです!」
「今も後ろにいたりして」
「ひゃっ!?」
アナが跳ねるように振り返った。
もちろん、そこには誰もいない。
ただ、受付ホールの壁と、呆れた顔をしたリーナがあるだけだった。
「シグレさん、やめてください……!」
「反応がいいからつい」
「ついで怖がらせないでください!」
アナが涙目で抗議する。
その隣で、アイファは真顔のまま首を傾げていた。
「……幽霊は、刃が通るだろうか」
その表情は、真剣そのものだ。
そうして、ユキ、アナ、シグレ、アイファの四人はギルドを後にする。
村までは、徒歩で半日ほどの距離だという。
王都ほど整えられた道ではないが、荷馬車が通る程度には踏み固められている。
両側には畑と低い林が続き、遠くには薄く森の影が見える。
最初のうちは、空も明るく、風も穏やかだった。
アナはまだ幽霊屋敷のことを気にしているらしく、時折、後ろを振り返っている。
シグレはそれを見つけるたびに、わざと足音を消して近づこうとするので、そのたびにユキが止めるくだりができた。
「そういえば」
しばらく歩いたところで、アナがふと思い出したように声を上げる。
「マスターのレイシアさん、お綺麗でしたねー。私もあんなふうになりたいです」
その言葉には、素直な憧れが滲む。
レイシアの美しさは、ただ顔立ちが整っているというだけではなかった。
穏やかなのに逆らいにくい。
笑っているのに底が見えない。
ああいう大人になりたい、とアナが思うのも無理はなかった。
だが、いやだからこそシグレは悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、あと何十年、いや何百年後かなー」
「なんでそんなこと言うんですかー!?」
アナが悲鳴のような声を上げる。
「私、そんなに時間かかりますか!?」
「綺麗になるだけなら、もっと早いんじゃない? でもレイシアみたいになるなら、すごい時間かかりそう」
「うう……シグレさんが時々すごく意地悪です……」
「いつもだろ」
ユキがぼそりと呟く。
「ユキ、何か言った?」
シグレがにっこりとユキを見つめた。
「何も」
アナが頬を膨らませる横で、ユキは淡々と言葉を紡いだ。
「だがあながち間違ってない。あいつは白妖族だ。年齢は百を余裕で超えてる」
「えー!」
アナの犬耳が勢いよく立った。
「百!? レイシアさん、そんなにお年上なんですか!?」
「少なくとも、人間の感覚で考える相手じゃないな」
「恐るべし、白妖族……」
アナは心底驚いたように呟いたあと、ふと黒妖族であるアイファへ視線を向ける。
「もしかして、アイファさんも……?」
「私はまだ十九だ」
アイファの即答。
「種族の中では、私はまだまだひよっこだ」
「十九!? 私十七なので、そんなに変わらないんですね!」
「そうなのか」
アイファは少しだけ不思議そうにアナを見た。
「ただ、見た目的にはあと何十年かは、あまり変わらないだろうがな」
「良いなー!」
アナが羨ましそうに声を上げる。
「私も今のまま、ずっと若くいたいです!」
「……そんなに良いことではない」
アイファの声が、少しだけ低くなった。
「祖母が言っていた。長く生きるということは、数え切れないほどの友人を見送るということだと」
風が、道端の草を揺らした。
さっきまで軽かった空気が、ほんの少しだけ静かになる。
アイファの表情は変わらない。
だが、その言葉の奥には、彼女の生まれた場所や、失ってきたものの影があった。
アナは気まずそうに耳を伏せた。
「……たしかに、そうですね」
羨ましい。
その一言だけで済ませられる話ではないのだと、アナにも分かったらしい。
少しの沈黙。
それを破ったのは、やはりアナだった。
「そういえば、ユキさんはおいくつなんですか?」
「ユキは二十二だよーん」
ユキが答えるより早く、シグレが楽しそうに言う。
「まだまだ子供だよーん」
「なぜお前が答える」
「いいじゃん。減るものじゃないし」
「お前のせいで、俺の何かは確実に減っている」
「何が?」
「気力だ」
シグレはくすくす笑った。
アナは感心したようにユキを見上げる。
「二十二歳なんですね。もっと大人っぽい気もしますし、でもたまに子供っぽい気もします」
「後半はいらない」
「す、すみません」
「でも分かる」
シグレが頷いた。
「ユキ、変なところで子供だもんね」
「黙れ」
「たとえば、セラのことになるとすぐ怒るところとか」
ユキの足が、わずかに止まりかけた。
だが、すぐに何事もなかったように歩き出す。
アナはその横顔を見てから、今度はシグレへ向き直った。
「シグレさんは、何歳になるんですか?」
その聞き方に、シグレが少しだけ目を瞬かせた。
いつ作られたのか、ではない。
何歳になるのか。
魔装としてではなく、ひとりの相手として尋ねられた言葉だった。
シグレはほんの少しだけ黙った。
それから、嬉しそうに笑った。
「生まれてからなら、もう八年か九年くらいかな。ん? いや、もっとかも」
「分からないんですか?」
「うん。あんまり気にしてなかったから」
シグレは自分の黒髪を指先で軽く揺らす。
「それに私は、お母さんを基に作られてるからね。私を辿れば、お母さんの分も歳に入るのかな?」
「入るわけないだろ」
ユキが即答した。
「えー、冷たい」
「お前はお前だ」
短い言葉だった。
シグレは一瞬だけ目を細め、それからいつもの調子で笑った。
「へー」
アナが首を傾げる。
「セラさんは、おいくつくらいだったんですか?」
その名が出た瞬間、ユキの表情が少しだけ静かになった。
シグレが、代わりに答えた。
「たしか、もう覚えてないって言ってたよね。セラもエルフだったから」
「そうだったんですか!? 初耳です!」
アナが驚いて声を上げる。
アイファも、わずかに耳を動かした。
「聖女セレスティアは、エルフだったのか」
「ああ」
ユキは短く答えた。
「ギルドマスターも、同胞って言ってたね」
シグレが言う。
ギルドマスターであるレイシアは確かに、セレスティアのことを偉大なる同胞と呼んだ。
そして、魔女ではなく、聖女と。
その言葉を思い出したのか、ユキの目が少しだけ細くなる。
「セラは、あまり自分の年齢を言いたがらなかった」
「女心だね」
「たぶん違う」
「じゃあ何?」
「面倒だったんだろ。聞かれるたびに説明するのが」
シグレは少し考え、納得したように頷いた。
「あー、セラならありそう」
アナは不思議そうに二人を見ていた。
ユキとシグレが話すセレスティアは、世界が語る魔女とは違う。
恐ろしい存在でも、争いを生んだ災厄でもない。
少し面倒くさがりで、けれど誰かのために手を伸ばしてしまう人。
「へー、そうだったんですねー」
アナはそれを、少しずつ知っていく。
道はやがて、畑の多い平地から、森へ続く細い道に変わっていった。
木々の影が濃くなり、風の音も変わる。
葉擦れの奥に、鳥の声が混じっていた。
けれど村が近いはずなのに、人の気配はどこか薄い。
アナの犬耳が、ぴくりと揺れた。
「……なんだか、静かですね」
「ああ」
ユキも周囲へ視線を向ける。
アイファが低く言う。
「警戒している気配がある」
「村全体が、か」
「たぶん」
「たぶんでは困る」
「……かなり」
ユキは小さく息を吐いた。
シグレが、さっきまでの軽い笑みを少しだけ薄める。
「幽霊屋敷の噂、思ったより村に効いてるのかもね」
「噂だけならいいがな」
ユキは前を見た。
森の隙間の向こうに、小さな村の屋根が見え始めている。
そのさらに奥。
木々に半ば隠れるようにして、古びた屋敷の影が、かすかに立っていた。
まだ遠い。
けれど、そこだけ空気の色が違って見えた。
アナが喉を鳴らす。
「……あそこ、ですかね」
「たぶんな」
ユキは刀の柄に軽く指を置いた。
幽霊か、魔装か、人間か。
まだ何も分からない。
ただひとつだけ確かなのは、誰かが消えているということだけ。
それだけで、ユキが背を向けない理由には十分だった。




