第41話 自分の服
こんこん、と扉が鳴った。
まだ朝の光が窓辺に薄く差し込む程度の時刻。
宿の上等な寝台の上で、ユキは毛布を肩まで被ったまま、ぴくりとも動かない。
(ユキ、誰か来たよ)
頭の中に、シグレの声が響く。
「……知ってる」
こんこんこん。
今度は先刻より少し強く、扉が叩かれる。
ユキは眠そうに目元を擦りながら、ようやく身体を起こした。
寝癖のついた黒髪を雑に掻き、ため息まじりに扉へ向かう。
「朝からなんだ……」
鍵を外し、扉を開ける。
「おはようございます!」
そこには、朝から妙に元気なアナが立っていた。
犬耳をぴんと立て、尻尾まで嬉しそうに揺れている。
完全に、何かを楽しみにしている顔だ。
ばたん。
ユキは無言で扉を閉める。
だが、次の瞬間、どんどんどんどん、と扉が激しく叩かれる。
「なんで閉めるんですかーっ!」
「朝からうるさい」
「まだ何も言ってません!」
「その顔で大体分かる」
扉の向こうで、アナがむうっと頬を膨らませる気配がした。
(開けてあげなよ、ユキ。アナ、朝から可愛いよ)
「シグレは黙ってろ」
ユキはもう一度ため息をつき、渋々扉を開ける。
アナは両手を腰に当て、少しだけ怒ったような顔で立っている。
「サイカさんから頼まれたんです。今日は、アイファさんの服を買いに行くようにって」
「服?」
「はい。このままだと、アイファさん、どう見ても盗賊風じゃないですか」
それは否定できない。
本人は気にしていないようだったが、王都を歩くにはあまりにも目立つ。
「それで、どうせならユキさんたちも一緒にどうかなって思いまして」
「断る」
(いいねー)
ユキとシグレの声が、ほぼ同時に重なった瞬間。
アナがぱっと顔を輝かせる。
「シグレさん!」
(王都で買い物なんて、楽しそうじゃん。ユキ、たまにはいいでしょ?)
「よくない」
(どうせ部屋にいても、暇でしょ)
「俺は寝る」
(つまり暇ってことだね)
ユキは眉間に皺を寄せた。
アナは期待に満ちた目で見上げてくる。
シグレは頭の中で楽しそうに笑っている。
この時点で、もう断る方が面倒だった。
「……はぁ。準備する」
「やったあ!」
アナが嬉しそうに腕を上げた。
◇
少しして宿の前に出ると、すでにアナとアイファが待っていた。
アナは動きやすそうな外出着に着替えている。
明るい色合いの服に、腰には小物入れ。
王都の通りを歩くのが楽しみで仕方ない、と全身で語っていた。
一方で、アイファは昨日とほとんど変わらない。
褐色の肌に、銀灰の髪。
長い耳は相変わらずぴんと立っているが、身に纏う黒衣は傷だらけで、袖や裾にはほつれが目立つ。
汚れは落としてあるものの、どう見ても普通の旅人ではない。
「……何を見ている」
アイファが無表情のまま言った。
ユキは黒を基調にした簡素な服だ。
いつもの戦闘装束よりは普通の私服に近いが、それでも全体的に黒い。
本人に着飾る気はまるでない。
隣には、人の姿になったシグレが立っている。
長い黒髪に、澄んだ紅の瞳。
黒のワンピースに近い衣装は動くたびに軽く揺れ、胸元は少し開いていて、太ももまで覆う黒い靴下。
刃のような美しさと、どこか人懐っこい妖しさが同居している。
アナが満面の笑みで腕を上げる。
「それでは、行きましょー!」
「おー」
シグレが楽しそうに片手を上げる。
アイファは少し遅れて、周囲を見回したあと、小さく手を上げた。
「……おー」
「無理にやらなくていい」
「……そうなのか」
「いや、やっててもいいですよ! アイファさん可愛いです!」
「……可愛くはない」
アイファの長い耳が、わずかに赤くなる。
そこでユキは、ふと思い出したようにアイファを見る。
「アイファ。一応聞くが、お前、金は?」
「……持っていない」
「だろうな」
あまりにも予想通りの答え。
だが、アナが胸を張るようにして小さな革袋を掲げる。
「大丈夫です! サイカさんから預かっています!」
「サイカから?」
「はい。ちゃんと働いてから返すように、とのことです!」
「あいつも意外と世話焼きだな」
アイファはその革袋をじっと見つめた。
それをどう受け取ればいいのか分からないように、少しだけ黙る。
やがて、低く呟いた。
「……借りは、返す」
「当たり前だ」
ユキが歩き出す。
「服を買うだけだ。さっさと終わらせるぞ」
「そう言ってる人ほど、最後には荷物持ちになるんだよね」
シグレが笑う。
「ならない」
「大丈夫ですよ! ユキさん! 私も荷物持ちますから!」
「それは別に大丈夫じゃない」
そう言いながら、ユキたちは朝の王都へ歩き出した。
◇
王都の大通りは、すでに人の流れで満ちていた。
荷車を押す商人。
店先に布を広げる店主。
焼き菓子の匂いに釣られて足を止める子どもたち。
アナは興味津々という顔であちこちを見回していた。
アイファはその隣で、警戒するように視線だけを動かしている。
「アイファさん、そんなに周りを見なくても大丈夫ですよ?」
「……人が多い」
「王都ですからね!」
「敵が紛れやすい」
「今は買い物です!」
「買い物にも敵はいるのか」
「いません!」
本気で聞いているらしいアイファに、アナが慌てて首を振る。
ユキはそれを横目で見ながら、小さく息を吐いた。
敵だった時はあれほど厄介だった女が、今は王都の人混みに妙に馴染めず、少しだけ困った顔で歩いている。
それが、妙に不思議だった。
「そういえば、シグレさんの服ってどうなってるんですか?」
大通りを歩きながら、アナがふと首を傾げる。
「その服も、やっぱり魔装なんですか?」
「んー、半分正解かな」
シグレは自分の袖をつまむような仕草をした。
黒い布は、指先に合わせて柔らかく揺れる。
質感も、影も、風に揺れる動きさえ本物に見えた。
「これは私のイメージで作られてるの。実体があるように見えてるだけで、本当は服そのものじゃないよ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。みんなにそう見えるようにしてるだけ。じゃないと、刀に戻るたびに服だけその場に置きっぱなしになっちゃうからね」
「それは……困りますね」
アナが真面目な顔で頷いた。
たしかに、戦闘中にシグレが刀へ戻るたび、黒いワンピースだけが地面に落ちる光景はかなり間抜けだ。
しかも、本人は刀になっている。
回収するのはほぼ間違いなくユキになる。
想像したのか、アナの犬耳がぴくぴくと揺れた。
「つまり、ほぼ全裸に近いね」
シグレが楽しそうに言った瞬間、ユキの眉間に深い皺が刻まれた。
「言い方を選べ」
「事実だよ?」
「事実でも言うな」
「こら、ユキ。想像しない」
「誰がだ、ばか」
アナは顔を真っ赤にして、視線をあちこちへ泳がせている。
その隣で、アイファが真剣な顔のままシグレを見ていた。
「……服を着ていないのか」
「アイファも真に受けるな」
シグレは腹を抱えるように笑い、アナはまだ少し赤い顔のまま「不思議ですねえ」と呟く。
そんなくだらない会話をしながら歩いているうちに、目的の店が見えてきた。
大通りから一本入った場所にある、落ち着いた雰囲気の服屋だった。
一見するだけでも、多種多様な品があるのが分かる。
「ここなら、アイファさんに似合う服がありそうです!」
アナが目を輝かせて言う。
アイファは店の前で、少し足を止めた。
「……ここに入るのか」
「入らなきゃ買えないだろ」
「そうか」
店に入ると、布の匂いと革の匂いがふわりと広がった。
棚には丈夫そうなシャツやズボン、軽い外套が並び、壁には腰帯や小物袋も掛けられている。
店主らしき中年の女性が、にこやかにこちらを見た。
「いらっしゃい。旅用かい?」
「はい! この子の服を探していて」
アナがアイファの背をそっと押す。
アイファは一歩前に出され、無表情のまま固まった。
店主はアイファの黒衣を見て、少しだけ目を細めたが、余計なことは言わなかった。
さすが王都の店主というべきか、事情のありそうな客にも慣れているらしい。
「動きやすいものがいいかい? それとも街歩き用?」
「両方あれば嬉しいです!」
アナが答える。
ユキは適当に壁にもたれ、シグレは楽しそうに服を眺め始めた。
「アイファ。好きなものを選べ」
ユキがそう言うと、アイファは店内に並んだ服を前にして、ぴたりと固まった。
「……好きなもの」
「そうだ」
「任務に適したものではなく?」
「違う」
「潜入しやすい色ではなく?」
「違う」
「武器を隠しやすい形ではなく?」
「違う」
アイファは、困ったように長い耳を少し伏せた。
「……分からない」
その声は小さかった。
けれど、妙に重かった。
アナの表情が、ふっと変わる。
さっきまでの買い物を楽しみにしていた顔から、少しだけ胸の奥を痛めたような顔へ。
アイファは棚に並ぶ服を見ている。
だが、その目は何かを選ぼうとしているようには見えなかった。
ただ、命令を待つ兵士のように、次に誰かが出す指示を待っている。
何を着たいか。
どんな色が好きか。
どんな服が自分に似合うと思うか。
そんな問いを、きっと今まで誰にも向けられてこなかったのだ。
「じゃあ、一緒に選びましょう」
アナが優しく言った。
アイファが、わずかに顔を向ける。
「……一緒に?」
「はい。一人で分からないなら、一緒にです」
アナはにこっと笑った。
「アイファさんに似合う服を、一緒に探しましょう!」
アナが元気良く片手を上げる。
おー、とシグレも続いた。
「……おー」
そして、今度はしっかりと、極めて遠慮がちではあるが、アイファも腕を上げる。
アナは満足そうに頷き、シグレは楽しそうに笑った。
その二人の目が、店内に並ぶ服へ向けられる。
この時のアイファはまだ知らなかった。
これは、服を選ぶ時間ではない。
自分が、着せ替え人形にされる時間なのだと。




