第39話 立派な宿
「では、私たちはここで」
王城の前で、サイカが静かに足を止める。
白い石で築かれた城壁は、夕暮れの光を受けて淡く輝いていた。
高くそびえる尖塔。
正門に並ぶ衛兵。
磨き上げられた鎧の光。
王女が王都へ戻ってきたことで、周囲には護衛と侍従の気配が増えている。
セリス・ルシアは、その門の前で振り返る。
旅の途中で見せていた少女らしい表情は薄れ、王女としての顔に少しずつ戻っている。
それでも、ユキたちを見る目だけは、最初に出会った時とは違っていた。
「報酬は、ギルドを通して支払われるわ。ありがとう」
セリスはそう言って、ユキたちへ軽く頭を下げる。
王女が冒険者へ向けるには、少し丁寧すぎる仕草だ。
横に控えていたトウヤがわずかに目を見開いたが、何も言わなかった。
ユキはその様子を見て、小さく肩をすくめる。
「早く女王になれよ」
わざと意地の悪い声音。
セリスは一瞬きょとんとしたあと、すぐに眉を寄せた。
「そんなに、早くはなれないわ」
「知ってる」
「なら言わないでくれる?」
「急かした方が頑張るだろ」
「本当に性格が悪いわね、貴方」
いつもなら、そこでもっと棘のある言葉が返ってきただろう。
けれどセリスは、ふっと息を吐くように笑う。
「でもそうね。頑張る」
その目には、確かな輝きがあった。
ユキはほんの少しだけ視線を細める。
「そうしろ」
それ以上は言わない。
代わりに、サイカが一歩前に出る。
「殿下のご厚意で、今日明日は宿を取ってもらっている」
「宿?」
アナの犬耳がぴんと立つ。
「王都に来る機会も、そう多くはないだろう。せっかくだ。少しゆっくりしていくといい」
「やるじゃん、ちびっ子」
シグレの声が楽しげに響き、
その瞬間、セリスの眉がぴくりと動く。
「今からキャンセルしても良いのだけれど」
「シグレさん、だめですよ!」
アナが慌てて声を上げ、そしてそのまま、勢いよくセリスへ頭を下げる。
「セリス様、ありがとうございます!」
「……貴方は素直で助かるわね」
セリスは少し呆れたように言いながらも、満更でもなさそうに口元を緩めた。
「……私はどうしたらいい」
全員の視線が、アイファへ向いた。
急遽同行することになったダークエルフの女。
長い耳は、不安を隠しきれないようにわずかに揺れている。
本人も、自分がこの場にいることの不自然さを分かっているのだろう。
セリスは少し考えるように目を伏せる。
「貴方は急だったからね。部屋の手配はしていないわ」
「……そうか」
「誰かに同室してもらいなさい」
その言葉に、シグレが即座に笑う。
「やったね、ユキ。今夜は楽しめるね」
「なんでだ」
ユキが即座に突っ込む。
「ばかもの。私かアナに決まっているだろう」
サイカの呆れた声が飛ぶ。
「何を想像した」
「何も想像してない」
「目が泳いでいるぞ」
「泳いでない」
「ユキさん、顔が少し怖いです」
「アナまで言うな」
「ユキはむっつりだからねー」
刀の中で、シグレがからからと笑う。
セリスはそのやり取りを眺め、小さく息を吐く。
「……本当に騒がしい人たちね」
「貴方もその一因ではあるがな」
サイカが淡々と言う。
「サイカ」
「失礼しました、殿下」
まったく悪びれていない声。
セリスは呆れたように肩を落としたが、不思議と怒ってはいなかった。
旅の間に、この面々の騒がしさにも少し慣れてしまったのかもしれない。
サイカは姿勢を正し、セリスへ向き直る。
「では、殿下。またの機会に」
「ええ」
セリスは頷き、ユキたちを見渡し、そして最後に、その視線がユキで止まる。
「ユキ」
「なんだ」
「約束、忘れないわ」
王城の宝物庫に眠る、《アマネ》と《ツムギ》。
セリスが女王になった時、それをユキに譲るという約束。
ユキは短く答える。
「忘れるなよ」
「貴方こそ、生きていなさい」
「余計なお世話だ」
「ええ。余計なお世話よ」
そう言って、セリスは笑った。
護衛たちと共に王城の中へ戻っていく小さな背中は、まだ頼りなく見える。
けれど、それでも確かに、彼女は胸を張り、自分の足で歩いていた。
ユキはその背をしばらく見送る。
やがて、何も言わずに踵を返した。
こうして、王女護衛の任務はひとまず終わった。
◇
セリスに用意された宿は、王城から少し離れた大通り沿いにあった。
磨き上げられた木製の扉。
入口に飾られた花。
中から漏れる暖かな灯り。
受付に立つ従業員の姿勢ひとつ取っても、ユキたちが普段使う安宿とは明らかに違っている。
見るからに高級な宿。
アナは入口の前で完全に固まっている。
「……立派な宿ですね」
「立派すぎるな」
ユキも似たような顔で呟く。
「すごいね、ユキ。逆に寝られなさそう」
シグレが楽しげに笑った。
「分かるのが腹立つな」
「ユキさんでも、そういうこと思うんですね」
「俺をなんだと思ってる」
「どこでも寝られる人かと」
「否定はしない」
「しないんですね」
アナが少しだけ笑う。
サイカは宿の外観を見上げ、特に驚いた様子もなく頷いた。
「殿下が手配したなら、このくらいにはなるだろう」
「慣れてるな」
「王都の宿は何度か使ったことがある」
「冒険者って、こういう宿にも泊まるんですね……」
「普通は泊まらん。今回は殿下の厚意だ」
アナの耳がさらに緊張したように伏せる。
「急に泊まるのが怖くなってきました……」
宿に入ると、従業員はすでに話を通されていたらしく、丁寧に部屋へ案内される。
廊下は厚い敷物が敷かれ、足音すら柔らかく吸い込まれる。
壁には小さな絵が飾られ、窓からは王都の街並みが見えた。
ユキは自分の部屋に入った瞬間、数秒だけ無言になる。
柔らかそうな寝台。
整えられた机。
水差し。
灯り。
匂いのいい布。
荷物を置くための台まで用意されている。
「……落ち着かない」
「ほら、やっぱり」
シグレが楽しそうに言う。
「野宿の方が安心する」
「人としてどうなの、それ」
「お前に言われたくない」
ユキは部屋の中を一通り見回したあと、荷物を置いた。
罠の確認。
窓の位置。
出入口までの距離。
壁の薄さ。
宿に入ってまでそんなことをしている自分に気づき、少しだけ息を吐く。
最低限の確認を終えたところで、廊下からサイカの声がした。
「時間も時間だ。どうする。夕飯は一緒にどこか食べにでも行くか」
その言葉に、アナの耳が勢いよく立つ。
「いいですね! 王都のご飯……!」
「王都のご飯に夢を見すぎるなよ」
「見ますよ! 王都ですよ!」
声の位置からして、サイカの隣にはアナもいるらしい。
「まあ、せっかくだからな」
ユキは短く答え、扉を開ける。
「……了解した」
アイファも少し遅れて頷く。
サイカはアイファを見る。
「アイファは私の部屋だ。何かあっては困るからな」
「……分かった」
サイカはそう言って、廊下の奥へ視線を向ける。
「では、一時間後に宿の門の前で」
それぞれが頷き、各々の部屋へ戻っていく。
ユキは扉を閉める前に、ふと窓の外を見た。
王都の街並みは、夕暮れの中で少しずつ灯りを増やしている。
遠くに人の声が聞こえ、馬車の音が石畳を転がっていく。
戦場とは違う音。
「……本当に、落ち着かないな」
「いいじゃん。たまには」
シグレが笑う。
ユキは答えず、静かに扉を閉めた。




