第3話 暴走する魔装
森の空気が変わった。
さっきまで木々のあいだを抜けていた風が、不意に止む。
代わりに、重く粘つくような圧だけが、じわりと肌へまとわりついてきた。
奥の暗がりで、枝が鳴る。
次の瞬間――
「グルァァァァァァッ!!」
咆哮が森を揺らした。
木々の隙間を押し広げるようにして現れたのは、キングゴブリンだった。
アナの数倍はある巨体。異様に膨れ上がった筋肉が肩や腕で盛り上がり、緑黒い皮膚は岩肌のように硬く、鈍い光を返している。
何より目を引いたのは、その手に握られた斧。
表面を這う、禍々しい魔力。
見ただけで本能が警鐘を鳴らすような、明らかに異質な気配を放っている。
「キング……」
アナの声が、かすかに震えた。
その時、キングゴブリンの背後で木々の奥が一斉に揺れる。
低い唸り声。
湿った土を蹴る足音。
次々と姿を現したのは、通常個体のゴブリンたちだった。
一体や二体ではない。
五、六――いや、もっといる。
キングゴブリンを中心に散開するその動きには、ただの魔物の群れとは違う統率があった。
(ユキ。あれ、嫌いなタイプの魔装)
シグレの声が低く落ちる。
「ああ。暴走しているな」
「ぼ、暴走?」
アナの問いに、ユキはキングゴブリンから視線を逸らさないまま答えた。
「不完全な魔装だ。力だけを無理やり増幅する失敗作。使い手も壊すし、周りも巻き込む」
その瞬間だった。
ドンッ!!
地面が砕けた。
キングゴブリンが突っ込んでくる。
速い。
あの巨体からは想像もつかない踏み込みだった。
同時に、背後のゴブリンたちも散るように駆け出す。
群れで包むつもりだ。
キングゴブリンの斧が、頭上高く振り上げられる。
死ぬ。
アナの思考は、そこで凍りついた。
だが次の瞬間、身体が強く引かれる。
轟音。
土煙。
ついさっきまでアナがいた場所を、黒い斧が叩き潰していた。
「立て」
短い声。
気づけば、ユキがアナの腕を掴んで引き寄せていた。
キングゴブリンの目は赤く濁り、理性の欠片もない。
周囲では、通常のゴブリンたちが牙を剥きながら、じりじりと距離を詰めてくる。
(完全にキレてるね)
シグレが淡々と呟く。
ユキはキングゴブリンから目を離さないまま、低く言った。
「アナ」
「は、はい!」
「雑魚はお前がやれ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……え?」
「数は多いが、動きは単純だ。落ち着いて見れば、お前でも捌ける」
「いやいやいやいや、無理ですって!」
「無理じゃない」
ユキの声は淡々としていた。
励ましもない。
優しい言葉もない。
だが、それは見捨てる声ではなかった。
できると判断した相手にしか向けない声音だ。
「死にたくなきゃ、頭と足を使え。囲まれるな。正面から来るやつから潰せ」
「そんな急に言われても……!」
アナが言い終えるより早く、ゴブリンが一体飛びかかってきた。
「――っ!」
反射的に剣を抜く。
金属音が響いた。
爪を弾き、よろけた相手の肩口へ、ぎこちないながらも刃を振り下ろす。
血が飛ぶ。
ゴブリンが悲鳴を上げ、地面へ崩れ落ちた。
「……た、倒せた」
「ひたるな。次」
ユキの声が飛ぶ。
その瞬間には、彼自身がキングゴブリンへ踏み込んでいた。
ギィン!!
斧と刀がぶつかり、衝撃が森全体へ響き渡る。
圧倒的な腕力。
まともに受ければ、人間の身体など一撃で潰れる。
だが、ユキは受け止めない。
体をわずかにずらし、刃の流れを逸らし、力を殺す。
空を切った斧の懐へ滑り込み、鋭く一閃。
赤い血が散った。
それでも、キングゴブリンは止まらない。
咆哮。
左腕が唸りを上げて振るわれ、背後の大木が粉砕された。
バキィッ!!
木片が弾け飛ぶ。
(普通の斬り方じゃ、削りきれないよ)
「ああ」
短く応じながら、ユキは再び間合いを切った。
その間にも、アナの方では三体のゴブリンが扇状に広がっていた。
真正面から一体。
左右から一体ずつ。
「ひっ……!」
足が止まりそうになる。
けれど、頭にはユキの言葉が残っていた。
――囲まれるな。
アナはとっさに横へ走った。
木の根を飛び越え、斜めに位置をずらす。
正面にいた一体だけが先に追いつき、残り二体との間にわずかなズレが生まれた。
「このっ!」
踏み込み、剣を突き出す。
浅い。
だが、怯ませるには十分だった。
続けて横薙ぎ。
耳障りな悲鳴とともに、一体が倒れる。
「はぁっ……はぁっ……」
息が上がる。
腕が震える。
それでも、さっきよりは動けていた。
(やるじゃん、新人)
「い、今それどころじゃ……!」
叫んだ直後、残った一体が飛びかかってくる。
アナは半ば転がるように避けた。
土に手をつき、体勢を崩しながらも、振り向きざまに剣を振るう。
刃が首筋を裂いた。
ゴブリンが、どさりと落ちる。
「……っ、た、倒した……!」
安堵する暇はなかった。
キングゴブリンの方で、黒い斧が禍々しく光る。
刃から溢れた魔力が、脈打つようにキングゴブリンの全身へ絡みついていく。
筋肉がさらに膨張する。
血管が浮き、皮膚の下で何かが軋んだ。
「まだ強くなるんですか!?」
アナの悲鳴混じりの声に、ユキは目も向けず答える。
「副作用だ。使うほど壊れていく」
「壊れて……?」
「身体も、理性もだ」
キングゴブリンが地面を踏み砕いた。
巨体が一直線に突っ込んでくる。
速い。
重い。
空気そのものを押し潰すような圧力だった。
それでも、ユキは動かない。
代わりに、静かに深く息を落とす。
(やっと本気?)
「少しだけ」
そう呟いて、ユキは刀を構えた。
「――魔装顕現」
黒い魔力が、刀身を伝って静かに広がる。
空気が震えた。
森のざわめきが、一瞬で消える。
アナの肌が粟立った。
さっきまでとは、明らかに違う。
圧の質そのものが変わっていた。
「黒刀一閃」
ユキの姿が、ぶれる。
そして、消えた。
次の瞬間には、キングゴブリンの横へ回り込んでいる。
斧が振られる。
だが、遅い。
ユキはすでに懐へ潜り込んでいる。
腰を落とし、居合の構え。
(終わりだよ)
シグレの声が、静かに響く。
一閃。
黒い線が、森の中を走った。
時間が止まったような静寂。
ズン――
一拍遅れて、キングゴブリンの巨体が左右にずれた。
断面から黒い蒸気が立ち上る。
膨れ上がっていた魔力が行き場を失い、濁った熱となって空気へ散っていく。
巨体は、そのまま地面へ崩れ落ちた。
轟音。
地面が揺れる。
そして、ようやく森に風が戻った。
「終わった」
(かっこよかったでしょ)
ユキは、息一つ乱していないように見えた。
だが、刀を握る手だけが、ほんのわずかに力を込めている。
地面には、黒い斧が転がっていた。
持ち主を失ってなお、まだ禍々しい魔力を滲ませている。
「それ……どうするんです?」
アナが恐る恐る尋ねた。
ユキは数秒だけそれを見つめ、迷いなく答える。
「壊す」
刀が振り下ろされた。
ガキンッ!!
硬質な音とともに、斧が砕ける。
ひび割れた刃から黒い魔力が噴き出し、霧のように薄れて消えていく。
ユキは、ただ砕けた残骸を見下ろしていた。
完全に沈黙するのを確認してから、ようやく刀を収める。
アナは、その横顔を見る。
強い。
それだけではない。
「ユキさんって……何者なんですか?」
風が森を抜ける。
木々が揺れ、光がまだらに地面を撫でた。
ユキは森の奥を見つめたまま、淡々と答える。
「俺は、ただ魔装を壊して回ってるだけだ」
その声に飾りはない。
ただ、事実だけを口にした声音だ。
世界中に散らばった十二の魔装。
《魔女の置き土産》。
それを見つけ出し、壊す。
それがユキの旅であり、役目だった。
アナはまだ知らない。
この旅がどこへ向かうのかも。
その中心にいる、一人の女性のことも。
砕けた斧の残滓が、見えない霧のようにふわりと浮かび上がる。
そして、誰にも気づかれないまま――
森のさらに奥へと、静かに流れていった。




