第37話 自分の意思で
「おい、起きろ」
ぺち、と頬を叩かれ、ダークエルフの女はかすかに眉を動かす。
もう一度、ぺちり。
「……っ」
銀灰の瞳が、ゆっくりと開く。
女は反射的に身を起こそうとした。
だが、動けない。
両腕も両脚も、縄できつく縛られている。
「動けないだろ」
ユキは淡々と言う。
「あそこの馬鹿力が縛ったからな」
少し離れた場所で腕を組んでいたサイカが、片眉を上げる。
「ほぉ。私のことか」
「他に誰がいる」
サイカは呆れたように息を吐く。
ダークエルフの女は、そのやり取りを聞きながら、ゆっくりと状況を理解していった。逃げられない。戦えない。
《ソラネ》もない。
そして、セヴランもいない。
彼女の顔から、わずかに血の気が引いた。
ユキはしゃがんだまま、女を見下ろす。
「知っていることを吐け」
短い声と共に、ユキの視線は鋭さを増す。
「セヴラン。魔女の福音。オルフェリオ。《ソラネ》。お前が知っていることを全部話せ」
女は沈黙した。
数秒。
やがて、乾いた声が落ちる。
「……私は、道具だ」
自嘲でも、怒りでもない。
ただ、事実を読み上げるような声音だった。
「知っていることなどない」
ユキの目が細くなる。
「道具にしては、随分と弟のことで狼狽していたがな」
その言葉に、女の肩が揺れた。
「……黙れ」
「セヴランに握られていたのか」
「黙れ」
「弟を助ける、とでも言われていたか」
「黙れと言っている!」
女が叫ぶ。
だが、その声はすぐに力を失う。
目の奥に浮かんでいるのは怒りではない。
思い出したくないものを、無理やり目の前に突きつけられた者の顔。
ユキは静かに続ける。
「セヴランは死んだ」
女の呼吸が止まった。
「お前を見限った直後に、別の男に刺された。白い長衣の男だ。名はオルフェリオ。魔女の福音の一人らしい」
「……死んだ?」
女は呆然と呟く。
その声に、悼む響きはない。
あるのは、行き場を失った焦りだけだ。
「じゃあ……弟は」
ユキは答えない。
女は必死に身を乗り出そうとする。しかし拘束が邪魔をして、身体はほとんど動かない。
「弟はどこだ。あいつは、セヴランが……まだ助かると……言って……」
言葉が途中で詰まる。
彼女自身、既に分かっている。
セヴランがどんな男だったのか。
自分が何に縋っていたのか。
信じたかっただけで、信じられるものなど何ひとつなかったことを。
そこへ、記憶の底から声が蘇る。
――あなたがこちらの指示に従っている間に、助ける方法がある。
――まだ間に合う。
――ちゃんと働けば弟は返してやる。
何度も、何度も聞かされた言葉。
そして最後に、あの薄い笑みと共に告げられた言葉。
――全部、方便です。
―― とっくに死んでいますよ
弟だけが、彼女に残されたすべてだった。
そのすべてが、とっくに奪われていた。
女の唇が、ひくりと引き攣る。
「……う、そ……だ」
こぼれた声は、あまりにも頼りない。
「嘘だ……そんなはずがない……」
否定したい。
「嘘だ……!」
今度は少しだけ大きくなる。
だが、それでも悲鳴には届かない。
崩れ落ちる寸前の、ひび割れた声だった。
「嘘だ、そんなはずがない……! あいつは、生きているって………セヴランが……!」
誰も、すぐには言葉を挟めなかった。
朝の街道に、女の荒い呼吸だけが落ちる。
やがて、彼女は額を地面へ擦りつけるように俯いた。
「……私は」
掠れた声。
「私は、何のために……」
その問いに、答えられる者はいない。
ユキはただ、黙って女を見ていた。
やがて彼は、低く問う。
「名前は」
女は反応しない。
「おい」
「……アイファ」
ほとんど聞き取れない声だった。
「弟は」
アイファの肩が震える。
「……リク」
それだけ言って、彼女は唇を噛んだ。
血が滲むほど強く。
脳裏に浮かぶのは、姉を慕う弟の笑顔。
姉を見つけるたびに少しだけ明るくなる瞳。
――お姉ちゃん。
いつかの声が、耳の奥で壊れた。
アイファの目から涙が溢れる。
そしてユキは立ち上がる。
「アイファ、お前は俺たちの敵だ」
アイファは顔を上げない。
「王女を襲い、仲間を殺そうとした。それは消えない。許すつもりもない」
「……殺せ」
小さな声が落ちる。
「もう、何もない。さっさと殺せばいい」
「今は殺さない」
ユキは即答する。
アイファが、わずかに顔を上げる。
ユキは冷たい目で彼女を見下ろしていた。
「お前は復讐したいとは思わないのか」
「……復讐」
「セヴランは死んだ。だが、奴の組織、魔女の福音は残っている。《ソラネ》も《イサナ》も、奴らが持っていった」
シグレがユキの隣で、静かに目を細める。
「弟を餌にして、お前を縛って、最後には全部奪っていった。そういう連中だよ」
アイファの拳が、震えた。
拘束されたまま、指先だけが土を掻く。
「……許さない」
声は小さかった。
けれど、さっきまでとは違う。
底に、熱があった。
「セヴランも……魔女の福音も……絶対に許さない」
ユキは短く頷く。
「なら協力しろ」
アイファの瞳が、ゆっくりとユキを捉える。
「私を……使うのか」
「ああ」
ユキは迷わず答えた。
「だが、セヴランとは違う。従うかどうかはお前が決めろ。逃げれば斬る。裏切れば斬る。王女に手を出しても斬る」
「……容赦がないな」
「敵だからな」
ユキは淡々と言う。
「それでも復讐したいなら、自分の意思で来い。もう誰かの道具としてじゃない」
アイファは、しばらく黙っていた。
銀灰の髪が、朝風に揺れる。
長い耳がかすかに震えていた。
やがて、彼女は低く答える。
「……行く」
その声は、まだ弱い。
だが、確かに自分で選んだ声だ。
「私は、魔女の福音を皆殺しにする」
「殺すかどうかは俺が決める」
「なら……」
アイファは、涙に濡れた瞳でユキを睨む。
「壊す」
「それでいい」
ユキは、わずかに口の端を上げた。
それは笑みというより、同じ傷を持つ者を見つけたような、ひどく歪な顔。
サイカが息を吐いた。
「ユキ。本気で連れていくつもりか」
「手がかりだ」
「それだけではない顔をしているぞ」
「気のせいだ」
「お前は嘘が下手だな」
サイカは呆れたように言ってから、アイファの拘束へ手をかける。
その前に。
「一応、このアイファの処遇を決める決定権は私にあると思うのだけど」
「狙われた王女として、貴方達の依頼主として」
ユキの額に汗が滲み出る。
「ユキ、どうすんの」
「かっこよくアイファを仲間にしたつもりかもしれないけど、間違いなく、セリスの方が正しいよ」
シグレが小声でユキに呟いた。
ユキの汗が止まらない。
「はぁ、もういいわ。ここで、はい、処刑と言えるほど私は冷たくないわ」
それに、と加える
「貴方には、襲われはしたけれど、誰も殺されてないしね。黒妖族の最後の誇りかしら」
「こちらに死人がいない以上、最もアイファに危害を加えられていたユキが決めればいいわ」
「お前、そんな良い奴だったか?」
「……前言撤回していいかしら」
「悪かった」
「遅いわよ」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
サイカが拘束に手をかける。
「逃げるなよ。逃げれば私が捕まえる」
「……分かっている」
「分かっていない顔だ。私の馬鹿力は、貴様が思っている三倍は馬鹿力だ」
「それは……さっきので分かった」
アイファの拘束が、緩む。
ユキは踵を返す。
「行くぞ」
アイファはゆっくりと立ち上がる。
足元はふらついている。
武器もない。
弟もいない。
帰る場所も、信じるものも、もう残っていない。
それでも、彼女は歩き出した。
誰かの命令ではなく。
初めて、自分の怒りで。




