第36話 彼女はもういない
「セラはもう、この世にはいない」
かつてユキは、何度も何度も、その言葉を自分に言い聞かせた。
あの人の声も、笑った顔も、少し困ったように自分を叱る表情も、すべてが過去だ。
ユキは、事実として知っていながら、それを胸の奥に沈めるまでに随分な時間をかけた。
だから、もう目を逸らすことはない。
セレスティアは死んだ。
あの人は、もうどこにもいない。
「……あっ、えっ」
アナが、小さく声を漏らす。
垂れた犬耳が震えている。
目は大きく見開かれ、何かを言おうとして、けれど言葉にならないまま唇だけが揺れていた。
サイカが、静かにアナへ視線を向ける。
「アナ。お前は村から出て、まだ間もない。ユキからも、はっきり断言されたわけではなかったのだろう」
その声は厳しいが、責める響きではない。
アナの純粋さをサイカは既に知っている。
「だが、お前も察していたはずだ」
「《置き土産》という言葉。そして、ユキの言動。そこから何を意味するのかを」
アナは、ただ、ぎゅっと胸元の服を握る。
サイカは逃がさないように、しかし傷つけすぎないように、一語ずつ告げる。
「聖女セレスティアは、すでに死んでいる」
風が、街道を抜けていく。
「そして、それは周知の事実だ」
「はい……」
アナの声は、今にも消えそうだった。
「でも、でも……もしかしたら、死者を蘇生する魔装だって、あるかもしれないじゃないですか……」
アナは縋るように顔を上げる。
「それこそ、《魔女の置き土産》だったら……!」
その言葉に、ユキの眉がわずかに動いた。
怒りではなく、痛みに近い反応。
ユキは少しだけ目を伏せる。
死者を蘇らせる力。
もしそんなものがあるなら、自分はそれを望まなかったと言い切れるのか。
一度も考えなかった、とは言えない。
だが、それでも。
「セラは、死者を弄ぶことは決してしない」
低く、そして強く、ユキは告げる。
「だが、俺も知らない置き土産が存在するのも事実だ」
「可能性として、完全にないとは言い切れない」
ユキの声はとても静かで、だからこそ、その奥にある重さが滲む。
「けど」
シグレが、そっと言葉を継いだ。
いつもの軽さはない。
黒髪を揺らし、紅の瞳をわずかに細める。
「私とユキが知っている聖女セレスティアなら、そんなものは作らないよ」
「たとえ、誰かがそれを心から願ったとしても」
死者を呼び戻す。
それは救いに見えるかもしれないけれど、それはきっと、残された者のための願いだ。
逝った者を再びこの世へ縛りつける力を、セレスティアは優しさとは呼ばなかったはずだ。
「……そう、ですよね」
アナの耳が、力なく垂れた。
「ごめんなさい、ユキさん。私なんかが……」
泣きそうな顔だ。
ユキは少しだけ視線を向ける。
「別にいい」
「でも……」
「お前が可能性として、そう思うのは自然のことだ」
シグレも一瞬だけユキを見て、ほんの少しだけ寂しそうに目を細めた。
沈黙が落ちる。
だが、それを長引かせなかったのはシグレだった。
「で、さっきの《イサナ》の話に戻すけど」
場の空気を変えるように、シグレは膝の上に置いていた手を動かした。
そして、何食わぬ顔で正座を崩す。
「……いてて。足しびれた」
「まだ、正座を解いていいとは言っていないが?」
サイカの声が落ちる。
シグレはぴたりと固まった。
数秒だけサイカと見つめ合い、それから視線を逸らす。
「もういいでしょ? それより、けっこう大事な話なんだけど」
「大事な話なら、姿勢を正して話せ」
「サイカ、意外と厳しい……」
「意外ではない」
シグレは不満そうに頬を膨らませたが、それでも完全に正座へ戻る気はないらしい。
ユキはため息をつく。
「話せ」
「はいはい」
シグレの表情が、変わる。
ふざけた空気が薄れ、紅の瞳に静かな緊張が宿った。
「《イサナ》のことだけど。おそらく、誰かが修復した。そこは間違いないと思う」
サイカの目が細くなる。
「修復、か」
「うん。あれは壊れていた。少なくとも、ユキが壊した時点では間違いなく終わっていた。私もそう感じていたから」
「では、聖女セレスティアが直した可能性は?」
アナがびくりと肩を揺らす。
だが、シグレは首を横に振った。
「ないよ」
即答。
「お母さんじゃない。絶対に聖女セレスティアじゃない」
その断言に、サイカがわずかに眉を動かす。
「根拠は?」
「私には分かるの。同じ、お母さんから生まれた置き土産としての性質……みたいなものかな」
シグレは自分の胸元に手を当てる。
「これはお母さんなら、死者を蘇らせないとか、一度壊した置き土産を直さないとか、そういう感情やイメージの話じゃない」
「その魔装が《置き土産》かどうかは、本能で分かる」
「たぶん、私だけじゃなくて、他の置き土産にも似たような感覚はあると思う」
ユキは黙って聞いていた。
シグレが、自分のことを置き土産だと口にするたびに、胸の奥がわずかに軋む。
けれど、それを止めることはできない。
「《イサナ》からは、確かにお母さんの気配がした。でも、それだけじゃなかった」
シグレは、眠っている盗賊たちの方へ視線を流す。
その先には、オルフェリオが消えた森の影がある。
「お母さんじゃない。けど、よく似た気配が混じっていた」
「よく似た気配……?」
アナが不安そうに呟く。
シグレは頷いた。
「うん。例えるなら、同じ材料を使って、別の誰かが無理やり継ぎ直した感じ」
シグレは小さく頷く。
「たぶんね。あれはもう、純粋なお母さんの魔装じゃない。置き土産に、誰かの手が入ってる」
「……最悪だな」
壊したはずの魔装が、戻ってきた。
しかも、それはセラの手によるものではない。
誰かが、セラの魔装に手を入れた。
その事実だけで、ユキの内側に冷たい怒りが沈んでいく。
セレスティアの願いを歪めるだけでは足りず、その残骸にまで手を伸ばす者がいる。
「魔女の福音」
サイカが、重く呟いた。
「オルフェリオは、確かにそう名乗っていたな」
「ああ」
ユキは短く答える。
「そして奴は、《ソラネ》と《イサナ》を持って逃げた」
「追うか?」
サイカの問いに、ユキはすぐには答えない。
追いたい。
今すぐにでも森へ入り、あの白い男の気配を探し、首根っこを掴んで問い詰めたい。
セラの名を、魔女と呼ぶなと。
あの人の魔装に、勝手に触れるなと。
だが、ユキは奥歯を噛んで、その衝動を押し殺した。
「……いや」
絞り出すような声。
「王女の護衛任務が先だ」
サイカは、わずかに目を伏せた。
「賢明だ」
「分かってる」
「分かっていても、納得はしていない顔だな」
「当たり前だ。納得はしていない。だが、理解はしている」
ユキは吐き捨てる。
サイカはそれ以上何も言わなかった。
王都への道は、もう遠くない。
「とりあえず、この件はここまでだ」
サイカが全員へ視線を向ける。
「今は護衛任務の完了を最優先とする。負傷者の確認、盗賊の拘束、馬車の点検。それが済み次第、王都へ向かう」
その指示で、場が動き出した。
護衛たちは訓練された動きで盗賊たちを縛り上げ、トウヤは《ハクジュン》を傍らに浮かべたまま、セリスの状態を確認していた。
セリスはまだ顔色が悪いが、意識ははっきりしている。
アナも自分にできることを探すように、縄を運んだり、倒れた護衛に肩を貸したりしていた。
ユキはその輪から少し離れた場所に立っている。
視線の先には、眠ったままのダークエルフの女がいた。
褐色の肌には傷と土が残り、銀灰の髪は乱れている。
戦っていた時の鋭さは失われ、今はただ疲れ果てたように眠っていた。
逆手に握っていたナイフは、もうない。
《ソラネ》も、オルフェリオに奪われた。
彼女の手元に残っているのは、何もなかった。
「サイカ」
ユキは低く呼んだ。
「こいつはどうする?」
サイカの視線が、ダークエルフの女へ落ちる。
◇
皆が出発の準備を整える頃、ユキは一人、馬車から少し離れた場所に立っていた。
「ユキ」
誰にも聞こえない声で、シグレが呼ぶ。
人の姿を取った彼女は、いつものように隣へ並ぶのではなく、少しだけ後ろに立っていた。
「皆に言わなくてよかったの?」
ユキは答えない。
「オルフェリオが最後に残した言葉」
風が、二人の間を抜けた。
――今度は、貴方のよく知る彼女も一緒に。
あの囁きは、まだ耳の奥に残っている。
柔らかく、穏やかで、どこまでも冷たい声だった。
「あいつが言ってた、ユキがよく知る彼女。そして、《イサナ》に混じっていた、お母さんによく似た気配」
シグレの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「たぶん、あれは――」
「シグレ」
ユキの声が重なった。
短い一言だった。
けれど、その一言でシグレは口を閉じる。
ユキは振り返らない。
ただ、指先だけが、かすかに震えていた。
「あいつじゃない」
掠れた声。
いつものユキの声ではない。
敵を前にした時の冷たさも、仲間を守る時の鋭さも、セラの名を汚された時の怒りもない。
そこにあったのは、ただ拒絶だけ。
「あいつのはずがないだろう」
まるで泣きそうな子供のような声だった。
シグレは何も言わない。
言えるはずがない。
「……そうだね」
シグレは静かに歩み寄る。
そして、ユキの頭にそっと手を伸ばした。
普段のユキなら、その手をすぐに払いのけただろう。
「子供扱いするな」と、眉をひそめただろう。
けれど今は、動かなかった。
シグレの細い指が、黒髪を優しく撫でる。
「ごめんね、ユキ」
ユキは何も答えない。
ただ、俯いたまま奥歯を噛み締めていた。
「……行くぞ」
その声は、まだ少しだけ揺れていた。
けれど、足は前を向いている。
シグレはその横顔を見て、いつものように小さく笑った。
「うん」
二人は、仲間たちの待つ馬車へ歩き出す。
誰にも告げられない不安を抱えたまま。
それでも、止まることはできない。




