第34話 ツギハギの奇跡
「っ、全員耳を塞げ!」
ユキの叫びは、最後まで届かない。
叫びの前に、オルフェリオの指先で、白磁の笛が淡く光る。
「《イサナ》――魔装顕現」
オルフェリオが、祈るように名を呼ぶ。
次の瞬間。
ぴい、と。
ひどく澄んだ音色が、朝の街道に響いた。
どこまでも透明で、やわらかく、優しい音。
子どもを寝かしつける子守唄のように。
疲れ切った誰かの瞼へ、そっと指を添えるように。
「ユキさ――」
アナの声が、途中で途切れる。
振り返るより早く、彼女の身体が崩れ落ちた。
犬耳が力なく伏せ、膝から地面に沈む。
トウヤも、セリスを庇おうと半歩踏み出した姿勢のまま膝をつき、白い障壁が揺らぎ、薄く砕ける。
セリスは何かを言おうと唇を動かしたが、声になる前に瞼が落ちた。
サイカの大剣が地面を抉る。
「……っ」
龍人族の膂力をもってしても、抗えたのはほんの一瞬だった。
青銀の鎧が朝の光を弾き、尾がわずかに跳ねたが、次の瞬間にはその巨躯も片膝をつき、重い呼吸を落として動かなくなる。
周囲の護衛たちも同様に一人、また一人と武器を取り落とし、街道に倒れていく。
盗賊たちも例外ではない。
つい先ほどまで息を荒げていた者たちが、土の上で無防備に寝息を立てている。
立っているのは、ユキだけだった。
「……クソっ」
ユキは奥歯を噛み締める。
耳を塞ぐのは、ぎりぎり間に合った。
だが、頭の奥に、まだ音の残滓がまとわりついている。
瞼の裏を重く撫でるような感覚が、意識の底を引きずり落とそうとしていた。
それでも、ユキは倒れない。
刀を握る指に力を込め、正面の男を睨み据える。
オルフェリオは、感心したように目を細めていた。
「さすがですね。耳を塞ぐのは間に合いましたか」
穏やかな声だった。
「……どういうことだ」
対してユキの声は、低く掠れている。
「《イサナ》は、壊したはずだ」
その名を口にした瞬間、胸の奥が鈍く軋んだ。
かつて壊した置き土産。
もう二度と誰かを眠らせることはないはずだった魔装。
セラが安らぎのために作り、歪められ、そしてユキが終わらせたはずのもの。
それが今、目の前にある。
折れた跡を残したまま。
壊された事実を嘲笑うように。
「さあ」
オルフェリオは、白磁の笛を指先で弄ぶ。
「それは、貴方が知る必要のないことです」
「ふざけるな」
ユキが一歩踏み出す。
足元の土が、ぎり、と軋んだ。
刀の切っ先が、オルフェリオの喉元へ向く。
「《ソラネ》を置いていけ。《イサナ》もだ」
「おや、欲張りですね」
「黙れ」
「ですが、残念です。私はそろそろ、この辺でお暇させていただきます」
オルフェリオは、まるで訪問先で茶を飲み終えた客のように、軽く一礼した。
その態度が、ユキの神経を逆撫でする。
「俺が逃がすと思うか」
ユキの殺気が膨れ上がる。
朝の空気が冷たく沈み、倒れた者たちの髪がかすかに揺れた。
今すぐ踏み込めば届く距離ではない。
だが、届かない距離でもない。
ユキなら斬れる。
少なくとも、斬りかかることはできる。
その瞬間、頭の奥でシグレの声が響いた。
(ユキ、落ち着いて)
「……」
(今は、駄目)
ユキの指が、刀の柄を強く握り込む。
分かっている。
本当は分かっているからこそ、腹の底が煮えるようだった。
アナも、セリスも、トウヤも、サイカも倒れている。
護衛たちでさえ。
全員が意識を失い、無防備な身体を街道に晒している。
ここでユキがオルフェリオへ踏み込めば、彼らを守る者がいなくなる。
オルフェリオは、それを理解している。
そして、その上で笑っていた。
「刀に諭されては、貴方も立つ瀬がありませんね」
「……聞こえているのか」
「いいえ。ですが、表情を見れば分かります」
オルフェリオは柔らかく微笑む。
「貴方は今すぐにでも、私を斬りたい。ですが、そうすることはできない。とても分かりやすい葛藤です」
「……」
「私も、腕に自信がないわけではありません」
白い長衣の袖が、風に揺れる。
「ですが、正面から貴方に勝つことは難しいでしょう。魔女の弟子であり、《シグレ》を持つ貴方を相手にするには、少々分が悪い」
そう言いながら、オルフェリオは一歩だけ横へ動いた。
その先には、眠ったまま倒れているセリスがいる。
ユキの眉がわずかに動く。
オルフェリオは、それを見逃さなかった。
「ただ、この状況でしたら」
穏やかな声が、冷たく変わる。
「少なくとも、確実に五人は殺せます」
街道の空気が止まった。
「王女殿下を含めてね」
オルフェリオは、いやらしく笑った。
それは、初めて見せる露骨な悪意だった。
慈悲めいた微笑みでも、祈るような表情でもない。
相手の怒りを理解した上で、踏みにじることを楽しむ顔。
ユキの視界が、赤く滲む。
「……チッ」
舌打ちが、低く落ちた。
刀は下ろさない。
だが、踏み込むこともしない。
それが、今のユキにできる唯一の選択だった。
「賢明なご判断です」
オルフェリオは満足げに頷く。
「ご安心ください。貴方とは、いずれまた巡り会うでしょう」
「誰が、お前と」
「運命とは、そういうものです」
言い終えた瞬間、オルフェリオの姿がぶれた。
速い。
ただの神官ではない。
白い長衣が朝の光を引き裂き、風だけを残して距離を詰める。
ユキは即座に反応し、刀を振るう。
黒い軌跡が、オルフェリオの首筋へ走った。
だが、届かない。
オルフェリオは半身をずらし、刃の間合いを紙一重で抜けた。
そのまま、ユキの耳元へ顔を寄せる。
「今度は、貴方のよく知る彼女も一緒に」
囁きは、毒のように甘かった。
ユキの目が見開かれる。
「――ッ!」
刀が横薙ぎに走る。
だが、そこにはもう誰もいない。
白い長衣の裾だけが、風に溶けるように離れていく。
「おっと、怖い怖い」
数歩離れた先で、オルフェリオが肩をすくめていた。
手には《ソラネ》。
もう片方の手には、継ぎ目のある白磁の笛。
「では、さようなら。魔女の弟子、ユキ」
オルフェリオは、優雅に一礼する。
「貴方に、魔女のご加護があらんことを」
「セラを――」
ユキが踏み出す。
「魔女と呼ぶな!」
だが、その声が届くより早く、オルフェリオの気配が掻き消えた。
まるで最初からそこにいなかったかのように。
朝の街道から、白い影だけが消える。
残されたのは、眠り落ちた仲間たち。
倒れた盗賊たち。
そして、地面に広がるセヴランの血だけだった。
「……クソが」
ユキは吐き捨てる。
(ユキ)
シグレの声が、静かに響く。
(今回ばかりは、仕方ないよ)
「……分かってる」
(いくらユキでも、この状況じゃ、王女さんやアナたちを守れない)
「分かってる」
同じ言葉を繰り返し、ユキは深く息を吸う。
肺の奥が焼けるように痛む。
さっきまでの戦闘の疲労も、イサナの音色の残滓も、今さらになって身体を重くしてくる。
それでも、ここで崩れるわけにはいかない。
そして、ユキは、ゆっくりと息を吐いた。
「シグレ」
(なに?)
「戻れ」
ユキの手の中で、黒刀が淡く揺らぐ。
次の瞬間、刃の輪郭がほどけ、黒い霞のように広がった。
それは人の形を取り、長い黒髪と澄んだ紅の瞳を持つ少女の姿へ変わる。
シグレは肩を回すようにして、周囲を見渡した。
「うわ。見事に全滅だね」
「サイカたちを起こすのを手伝え」
「えー、結構いるけど」
シグレが面倒くさそうに唇を尖らせる。
周囲には、サイカ、アナ、セリス、トウヤ。
さらに護衛たちが何人も倒れている。
少し離れた場所には、盗賊たちも転がっていた。
全員が、穏やかな寝息を立てている。
つい先ほどまで殺し合っていた者たちが、同じ音色に眠らされた光景は、奇妙なほど静かだった。
ユキは盗賊たちへ一瞥を向ける。
「盗賊共は放っておけ」
「はーい」
シグレは軽く手を上げると、まずアナの方へ歩いていった。
ユキはその場に立ったまま、オルフェリオが消えた方角を見る。
《ソラネ》は奪われた。
イサナは、壊したはずだった。
そして、オルフェリオは最後に言った。
――今度は、貴方のよく知る彼女も一緒に。
その言葉が、胸の奥に棘のように残る。
「……魔女の福音」
低く、名を刻むように呟く。
「必ず、俺が壊す」
陽の光が、街道に差し込んでいる。
だが、その光は少しも暖かくなかった。




