第33話 福音
「なぜ……?」
セヴランの唇から、掠れた声が漏れた。
朝の薄明かりを受けた刃の上を、赤い血が細く伝い、切っ先からぽたりと落ちる。
その背後に立つ男は、静かに微笑んでいた。
長身の男だった。
白とも、金ともつかない淡い髪が、肩にかかるほどの長さでさらりと揺れている。
白金と呼ぶには柔らかく、金髪と呼ぶにはあまりに冷たい。
整った顔立ちは穏やかで、薄く細められた瞳には、慈悲めいた光すら浮かんでいた。
だが、その微笑みに温度はない。
身に纏っているのは、司教を思わせる白い長衣。
清廉な白を基調にしながら、襟元や袖口には黒が差し込まれ、細い金の刺繍が祈りの文様のように縫い込まれている。
神に仕える者の装い。
けれど、目の前の男から感じるのは祈りではない。
もっと冷たく、もっと甘く、もっと始末の悪いものだった。
「貴方も、使えなかった。それだけですよ」
穏やかに告げる。
セヴランの身体がぐらりと傾き、膝から崩れ落ちた。
喉を押さえようとする指が空を掻く。
そして、口が何かを言おうとして、声にならない息だけをこぼす。
男はそれを見下ろしながら、わずかに首を傾げた。
哀れんでいるようにも見える。
祈っているようにも見える。
だが、ユキには分かった。
こいつは、何も感じていない。
「貴様……何者だ」
サイカが大剣を構え直した。
青銀の鎧が、朝の光を鈍く弾く。
声は低い。
だが、その奥には、明確な警戒がある。
男は血に濡れた剣を片手に持ったまま、胸に手を当て、深く一礼する。
まるで殺人の直後ではなく、晩餐会の席で名乗る貴族のように。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
柔らかな声。
「私は《魔女の福音》司教、オルフェリオと申します」
その名が落ちた瞬間、ユキの周囲の空気が変わった。
静かに。
けれど、確かに。
街道に残っていた朝の冷気が、一段深く沈む。
「……魔女の福音だと?」
ユキの声は低い。
刀を握る指に、ぎり、と力がこもる。
まだ肺の奥は焼けつくように熱い。指先にも痺れが残っている。それでも、胸の奥から湧き上がる怒りは、そんな疲労を押し退けるほど鮮明だった。
サイカが横目でユキを見る。
「知っているのか」
「置き土産の情報を探している時に、耳にしたことがある」
ユキはオルフェリオから目を離さない。
「セラを、偉大な魔女として信仰している連中だ。噂程度だったが、置き土産を巡る厄介事の裏に、奴らの影があるとも聞いた」
「ええ。大変よくご存じで」
オルフェリオは嬉しそうに微笑んだ。
「ただ、少し違います。」
「我々は厄介事など起こしておりません。ただ、魔女セレスティア様の遺された奇跡を、正しく世界へ広めているだけです」
「ふざけるな」
ユキの声が、鋭く落ちる。
「セラを、魔女と呼ぶな」
「おや」
オルフェリオは愉快そうに目を細める。
「やはり、彼女の仰っていた通りですね」
「魔女の弟子、ユキ。貴方は我々と同じく、魔女セレスティア様を深く慕っているはずですが」
「違う」
ユキが一歩踏み出す。
「セラは魔女じゃない」
切っ先が、オルフェリオへ向く。
「俺の師匠は、聖女セレスティアだ」
その言葉に、オルフェリオはますます笑みを深めた。
「素晴らしい」
うっとりとした声だった。
「実に、素晴らしい執着です」
「……何がおかしい」
「いいえ。ただ、安心したのです」
オルフェリオは穏やかに言う。
「貴方になら、いつか分かっていただけるかもしれない。世界が魔女と呼んだ偉大なる御方を、誰よりも近くで見ていた貴方なら」
「黙れ」
ユキの殺気が、さらに濃くなる。
その横で、サイカが低く問うた。
「なぜセヴランを殺した」
「簡単な話です」
オルフェリオは足元のセヴランをちらりと見下ろす。
そこに同情はなかった。
仲間を失った痛みも、怒りもない。
あるのは、不要になった書類を眺めるような、淡い関心だけ。
「彼も《魔女の福音》の同志ではありました。ですが、この状況で置き土産を失うわけにはいきません」
オルフェリオの手には、いつの間にか《ソラネ》が握られていた。
「貴方方を相手に、彼が逃げ切れる可能性は低かった。ならば、こちらで回収するのが最善です」
「つい先日も一つ失ったばかりですからね」
「ミレル村も、お前たちが……」
ユキの声が、わずかに低くなる。
オルフェリオは首を傾げた。
「ああ、あの村は、厳密には私ではなく、別の同志が関わった案件ですが」
「どうして……」
アナが震える声で呟く。
「どうして、あんなひどいことを……」
オルフェリオは、心底不思議そうにアナを見る。
「どうして?」
その問いの意味が分からない、とでも言うように。
「魔女セレスティア様の奇跡を、ほんの一端でも目の当たりにできたのです」
「むしろ、感謝していただきたいくらいですが」
アナの顔から血の気が引いた。
ユキの足元で、土が小さく軋む。
(ユキ)
シグレの声が、頭の奥に響いた。
(とりあえず、お互いの自己紹介は終わったみたいだね)
「……ああ」
ユキは刀を構え直した。
「《ソラネ》を渡せ」
「この状況で、貴様も逃げ切れるとでも思っているのか」
サイカも大剣を構える。
前にはユキ。
後ろにはサイカ。
周囲にはトウヤとアナ、護衛たち。
逃げ道はない。
少なくとも、普通なら。
オルフェリオは微笑んだまま、懐へ手を入れた。
「ええ。私には、これがありますので」
取り出したのは、小さな笛だった。
角笛のような粗野なものではない。
白磁にも似た滑らかな質感を持つ、指先ほどの細い笛だった。表面には金の蔓模様が繊細に走る。
だが、ユキの視線は、その中央で止まる。
笛の真ん中に、細い継ぎ目がある。
一度、完全に折れたものを繋ぎ直したような跡。
見間違えるはずがない。
それは、かつてユキが壊した置き土産だった。
シグレの声が鋭く跳ねる。
(ユキ! あれは――!)
「っ、全員耳を塞げ!」
ユキの叫びは、最後まで届かない。




