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『魔女の置き土産』ーー魔女と呼ばれた聖女の遺産を、弟子の俺がすべて破壊する  作者: キョウ
第3章 王女の護衛

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第32話 誇りの果て

「使えませんねえ」


セヴランは、小さく息を吐いた。


呆れたようでも、苛立ったようでもない。

出来の悪い道具を見下ろすような、乾いた声音だった。


街道には、まだ戦いの余熱が残っている。土は抉れ、砕けた枝が散り、刃の走った痕が朝の薄明かりに鈍く浮かんでいた。


肺の奥はまだ熱い。指先の痺れも消えていない。それでもユキは刀を握る。


その刀の先で、ダークエルフの女は荒い呼吸のまま顔を上げる。


褐色の肌は汗と土で汚れ、銀灰の髪は乱れて肩に貼りついている。逆手に握っていたナイフには、もう先ほどまでの鋭さがなかった。


それでも、その瞳には、砕けかけた何かを、最後の最後で拾い上げようとする縋るような光を残していた。


「……弟は」


掠れた声だった。


「約束しただろう。弟だけは、助けると」


出会って初めて、ダークエルフが口を開く。


だが、その問いかけは空を切る。


森を抜けてきた冷たい空気が、血と土の匂いを低く撫でている。

その短い沈黙が、かえって言葉の重さを増していた。


セヴランだけが、つまらなそうに肩を竦める。


「ああ、あれですか」


軽い。

あまりにも軽かった。


「とっくに死んでますよ」


その瞬間、女の表情が止まる。


呼吸すら止まったのではないかと思うほど、綺麗に固まった。


理解が遅れたわけではない。むしろ逆だ。今、耳に入った言葉の意味を頭が正確に拾ってしまったからこそ、身体の方が先に拒絶した。


「……え」


喉が震える。


「なにを……言って……」


「ですから、死んでいると申し上げています」


セヴランは事務的に言った。


「あなたがこちらの指示に従っている間に、助ける方法がある、まだ間に合う、そう何度も言いましたよねえ?」


「ちゃんと働けば弟は返してやる、と」


薄い笑みが、その口元に浮かぶ。


「全部、方便です」


女の唇がひくりと引き攣った。


「う、そ……だ」


こぼれた声は、あまりにも頼りない。


否定したいのに、否定しきれない響きだった。

信じていないのではない。もう、信じてしまっている。だからこそ、その現実を口の中で認めることだけができない。


「嘘だ……!」


今度は少しだけ大きくなる。

だが、それでも悲鳴には届かない。

崩れ落ちる寸前の、ひび割れた声だ。


「嘘だ、そんなはずがない……! あいつは、生きているって……まだ助かるって、お前が……!」


「ええ、言いましたね」


セヴランはあっさり頷く。


「その方が、あなたは従順だったので」


どさり、と音がした。


「そういえば、あなたの弟君も死ぬ間際に似たようなことを口にしていましたよ」


「お姉ちゃんだけは助けてくれ、と」


セヴランはわざとらしく目を細める。


「まったく、なんとも美しい姉弟愛です。この不肖セヴラン、少し感動してしまいました」


わざとらしい表情に、ユキは思わず嫌悪を示す。


女の膝が地に落ちる。


支えようとした腕にも力は入らず、指先が土を掻くだけだった。肩が小さく震えている。


泣いているわけでもない。

ただ、あまりに急に足元が崩れたせいで、何から壊れているのか自分でも分からなくなっているようだった。


「あ……あ……」


声にならない音だけが漏れる。

見ているのは目の前の男ではない。


もう、どこにもいない弟の姿だ。


助けるためだった。


取り戻すためだった。


誇り高い黒妖族である自分が、

盗賊と手を組むことも、こんな力の使い方に身を落とすことも、全部、飲み込んだ。


空を駆けるたびに削られていったのは矜持だったのか、理性だったのか、それとももっと別の何かだったのか。


そんなことはどうでもよかった。ただ弟が生きているなら、それだけよかった。


そのためだけに、刃を握っていた。


そのために、ここまで堕ちた。


なのに。


最初から、もう。


何も残っていなかった。


「あ……あぁ……」


女の喉がひきつる。

次の瞬間、堰を切ったように絶叫が迸った。


「――あ、ああ、あぁぁぁぁっ!! いや……いやぁぁぁぁぁっ!!」


裂けるような叫び。


胸の奥にかろうじて残っていた最後の支えが、音を立てて崩れた声だった。

長い耳が震え、爪が土を掻く。呼吸が乱れ、肩が上下し、それでもなお女は首を振る。


「いやだ……いやだ……っ」


壊れたように、何度も繰り返す。


「そんなの……そんなの、…」


そして、

心身ともに傷つきすぎた彼女は、気を失ってしまう。


ユキはその姿を見下ろし、細く息を吐く。


すべてが繋がる。


あれほど執拗だった理由も、口を閉ざし続けた理由も、耳への侮辱にだけ微かに反応した理由も。


誇りを捨てきれないまま、捨てざるを得なかったのだ。


守るために。もう、守れもしないもののために。


冷えた視線が、ゆっくりとセヴランへ向く。


「……そういうことか」


声は低かった。

押し殺された怒りが、その短い一言に沈んでいる。


「下衆め」


セヴランは肩を竦めるだけだった。


「心外ですねえ。使えるものを使っただけですよ」


そして、足元に膝をついたままのダークエルフを見下ろす。


「しかし、少々期待外れでした。ダークエルフなら、もう少し上手くソラネを扱えるかと思いましたが……亜人も、ピンキリですね」


ぴくり、と女の肩が震えた気がした。

握っていたはずの《ソラネ》も、その手からこぼれ落ちそうになっている。


(ユキ、今のうちに)


シグレの声が、頭の奥に落ちた。


(《ソラネ》を)


「分かってる」


短く返し、ユキは一歩踏み出す。


肺の奥がまだ焼けるように熱い。

魔力も体力も、余裕があるとは言えない。それでも、ここで逃がすわけにはいかなかった。


あれはセラの置き土産だ。これ以上、こんな連中の手に渡らせるわけにはいかない。


ユキの指先が、落ちかけた《ソラネ》へ伸びる。


その瞬間。


「おっと」


音もなく、セヴランの姿が割り込む。


「これは渡せませんね」


目の前にいたはずの距離が、消えている。


速い。


そう認識した時にはもう遅い。白手袋の手が、するりと《ソラネ》を拾い上げている。


「――っ」


ユキは反射で刀を振るう。


だが、刃が届くより一瞬早く、セヴランは半歩ずれていた。風を裂いた黒刃は空を切り、代わりに男の外套の裾だけをわずかに裂く。


「……あの方に怒られてしまいますので」


薄く笑うその声音に、ぞわりと嫌なものが走った。


ただの盗賊崩れではない。

ただの運び屋でもない。


こいつ自身が、すでに十分危険だ。


「逃がすか」


ユキが低く吐いた、その直後。


「遅くなってすまない」


背後から響いた低い声に、空気が張り直される。


重い足音と共に、サイカたちが街道へ駆け込んでくる。青銀の鎧には戦闘の痕が刻まれていたが、その姿勢は少しも崩れていない。

大剣を肩口に構えたまま、サイカは真っ直ぐセヴランを睨みつけた。後方にはトウヤとアナ、さらに護衛たちも続いている。


包囲は、十分。


「貴様」


サイカの声は低く、重かった。


「この状況で、逃げられると思うのか」


セヴランは《ソラネ》を手の中で弄びながら、くつくつと喉を鳴らす。


「さあ。やってみないことには、どうにも」


余裕を装った声音だった。

だが、その目は笑ってはいない。


値踏みするように、素早く左右へ走る。前方のユキ。後方のサイカ。護衛の配置。街道脇の森までの距離。風向き。地面の荒れ具合。ほんの一瞬で、それらすべてを舐めるように見た。


ユキは目を細める。

こいつはまだ諦めていない。

追い詰められてなお、逃げ道を探している。


セヴランの重心が、わずかに落ちた。


呼吸が変わる。

外套の裾が、風もないのに揺れた。


来る。


そう察した瞬間。


「――いや」


別の声が落ちた。


低く。静かで。

それなのに、この場にいる誰よりも鮮明に耳へ届く声だった。


「あなたには、出来ないでしょう」


次の瞬間。


ずぶり、と。

湿った音が、街道に響いた。


セヴランの身体が、ぴたりと止まる。

何が起きたのか、誰もすぐには理解できなかった。


次いで、男の喉元から鮮やかな赤が細く噴いた。

背後から突き出ていたのは、細身の長剣。

その刃は喉を貫き、その切っ先から朝の光を鈍く弾いている。


「……は」


セヴランの口から、掠れた息が漏れる。

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