第32話 誇りの果て
「使えませんねえ」
セヴランは、小さく息を吐いた。
呆れたようでも、苛立ったようでもない。
出来の悪い道具を見下ろすような、乾いた声音だった。
街道には、まだ戦いの余熱が残っている。
土は抉れ、砕けた枝が散り、刃の走った痕が朝の薄明かりに鈍く浮かんでいた。
肺の奥はまだ熱い。
指先の痺れも消えていない。
それでもユキは刀を握る。
その刀の先で、ダークエルフの女は荒い呼吸のまま顔を上げる。
褐色の肌は汗と土で汚れ、銀灰の髪は乱れて肩に貼りついている。
逆手に握っていたナイフには、もう先ほどまでの鋭さがなかった。
それでも、その瞳には、砕けかけた何かを、最後の最後で拾い上げようとする縋るような光を残していた。
「……弟は」
掠れた声だった。
「約束しただろう。弟だけは、助けると」
出会って初めて、ダークエルフが口を開く。
だが、その問いかけは空を切る。
森を抜けてきた冷たい空気が、血と土の匂いを低く撫でている。
その短い沈黙が、かえって言葉の重さを増していた。
セヴランだけが、つまらなそうに肩を竦める。
「ああ、あれですか」
軽い。
あまりにも軽かった。
「とっくに死んでますよ」
その瞬間、女の表情が止まる。
呼吸すら止まったのではないかと思うほど、綺麗に固まった。
理解が遅れたわけではない。
むしろ逆だ。
今、耳に入った言葉の意味を頭が正確に拾ってしまったからこそ、身体の方が先に拒絶した。
「……え」
喉が震える。
「なにを……言って……」
「ですから、死んでいると申し上げています」
セヴランは事務的に言った。
「あなたがこちらの指示に従っている間に、助ける方法がある、まだ間に合う、そう何度も言いましたよねえ?」
「ちゃんと働けば弟は返してやる、と」
薄い笑みが、その口元に浮かぶ。
「全部、方便です」
女の唇がひくりと引き攣った。
「う、そ……だ」
こぼれた声は、あまりにも頼りない。
否定したいのに、否定しきれない響きだった。
信じていないのではない。
もう、信じてしまっている。
だからこそ、その現実を口の中で認めることだけができない。
「嘘だ……!」
今度は少しだけ大きくなる。
だが、それでも悲鳴には届かない。
崩れ落ちる寸前の、ひび割れた声だ。
「嘘だ、そんなはずがない……! あいつは、生きているって……まだ助かるって、お前が……!」
「ええ、言いましたね」
セヴランはあっさり頷く。
「その方が、あなたは従順だったので」
どさり、と音がした。
「そういえば、あなたの弟君も死ぬ間際に似たようなことを口にしていましたよ」
「お姉ちゃんだけは助けてくれ、と」
セヴランはわざとらしく目を細める。
「まったく、なんとも美しい姉弟愛です。この不肖セヴラン、少し感動してしまいました」
わざとらしい表情に、ユキは思わず嫌悪を示す。
女の膝が地に落ちる。
支えようとした腕にも力は入らず、指先が土を掻くだけだった。
肩が小さく震えている。
泣いているわけでもない。
ただ、あまりに急に足元が崩れたせいで、何から壊れているのか自分でも分からなくなっているようだった。
「あ……あ……」
声にならない音だけが漏れる。
見ているのは目の前の男ではない。
もう、どこにもいない弟の姿だ。
助けるためだった。
取り戻すためだった。
誇り高い黒妖族である自分が、
盗賊と手を組むことも、こんな力の使い方に身を落とすことも、全部、飲み込んだ。
空を駆けるたびに削られていったのは矜持だったのか、理性だったのか、それとももっと別の何かだったのか。
そんなことはどうでもよかった。
ただ弟が生きているなら、それだけでよかった。
そのためだけに、刃を握っていた。
そのために、ここまで堕ちた。
なのに。
最初から、もう。
何も残っていなかった。
「あ……あぁ……」
女の喉がひきつる。
次の瞬間、堰を切ったように絶叫が迸った。
「――あ、ああ、あぁぁぁぁっ!! いや……いやぁぁぁぁぁっ!!」
裂けるような叫び。
胸の奥にかろうじて残っていた最後の支えが、音を立てて崩れた声だった。
長い耳が震え、爪が土を掻く。
呼吸が乱れ、肩が上下し、それでもなお女は首を振る。
「いやだ……いやだ……っ」
壊れたように、何度も繰り返す。
「そんなの……そんなの、……」
そして、心身ともに傷つきすぎた彼女は、気を失ってしまう。
ユキはその姿を見下ろし、細く息を吐く。
すべてが繋がる。
あれほど執拗だった理由も、口を閉ざし続けた理由も、耳への侮辱にだけ微かに反応した理由も。
誇りを捨てきれないまま、捨てざるを得なかったのだ。
守るために。
もう、守れもしないもののために。
冷えた視線が、ゆっくりとセヴランへ向く。
「……そういうことか」
声は低かった。
押し殺された怒りが、その短い一言に沈んでいる。
「下衆め」
セヴランは肩を竦めるだけだった。
「心外ですねえ。使えるものを使っただけですよ」
そして、足元に膝をついたままのダークエルフを見下ろす。
「しかし、少々期待外れでした。ダークエルフなら、もう少し上手くソラネを扱えるかと思いましたが……亜人も、ピンキリですね」
ぴくり、と女の肩が震えた気がした。
握っていたはずの《ソラネ》も、その手からこぼれ落ちそうになっている。
(ユキ、今のうちに)
シグレの声が、頭の奥に落ちた。
(《ソラネ》を)
「分かってる」
短く返し、ユキは一歩踏み出す。
肺の奥がまだ焼けるように熱い。
魔力も体力も、余裕があるとは言えない。
それでも、ここで逃がすわけにはいかなかった。
あれはセラの置き土産だ。
これ以上、こんな連中の手に渡らせるわけにはいかない。
ユキの指先が、落ちかけた《ソラネ》へ伸びる。
その瞬間。
「おっと」
音もなく、セヴランの姿が割り込む。
「これは渡せませんね」
目の前にいたはずの距離が、消えている。
速い。
そう認識した時にはもう遅い。
白手袋の手が、するりと《ソラネ》を拾い上げている。
「――っ」
ユキは反射で刀を振るう。
だが、刃が届くより一瞬早く、セヴランは半歩ずれていた。
風を裂いた黒刃は空を切り、代わりに男の外套の裾だけをわずかに裂く。
「……あの方に怒られてしまいますので」
薄く笑うその声音に、ぞわりと嫌なものが走った。
ただの盗賊崩れではない。
ただの運び屋でもない。
こいつ自身が、すでに十分危険だ。
「逃がすか」
ユキが低く吐いた、その直後。
「遅くなってすまない」
背後から響いた低い声に、空気が張り直される。
重い足音と共に、サイカたちが街道へ駆け込んでくる。
青銀の鎧には戦闘の痕が刻まれていたが、その姿勢は少しも崩れていない。
大剣を肩口に構えたまま、サイカは真っ直ぐセヴランを睨みつけた。
後方にはトウヤとアナ、さらに護衛たちも続いている。
包囲は、十分。
「貴様」
サイカの声は低く、重かった。
「この状況で、逃げられると思うのか」
セヴランは《ソラネ》を手の中で弄びながら、くつくつと喉を鳴らす。
「さあ。やってみないことには、どうにも」
余裕を装った声音だった。
だが、その目は笑ってはいない。
値踏みするように、素早く左右へ走る。
前方のユキ。
後方のサイカ。
護衛の配置。
街道脇の森までの距離。
風向き。
地面の荒れ具合。
ほんの一瞬で、それらすべてを舐めるように見た。
ユキは目を細める。
こいつはまだ諦めていない。
追い詰められてなお、逃げ道を探している。
セヴランの重心が、わずかに落ちた。
呼吸が変わる。
外套の裾が、風もないのに揺れた。
来る。
そう察した瞬間。
「――いや」
別の声が落ちた。
低く。
静かで。
それなのに、この場にいる誰よりも鮮明に耳へ届く声だった。
「あなたには、出来ないでしょう」
次の瞬間。
ずぶり、と。
湿った音が、街道に響いた。
セヴランの身体が、ぴたりと止まる。
何が起きたのか、誰もすぐには理解できなかった。
次いで、男の喉元から鮮やかな赤が細く噴いた。
背後から突き出ていたのは、細身の長剣。
その刃は喉を貫き、その切っ先から朝の光を鈍く弾いている。
「……は」
セヴランの口から、掠れた息が漏れる。




