第31話 空を偽るもの
街道は、ひどく静かだった。
森を抜ける風が馬車の幌を揺らし、湿った土の匂いが低く流れていく。
輪郭だけがぼんやりと浮かぶ、夜とも朝ともつかない時刻――それだけで、世界は普段より少しだけ不穏に見えた。
御者台の近くで、サイカがふと目を細める。
「……止まれ」
短い声だったが、それだけで十分だ。
手綱が引かれ、馬車がきしみを上げて止まる。
アナがびくりと肩を揺らし、トウヤは反射のようにセリスの前へ半歩出た。
ユキは座ったまま視線だけを前へ向ける。
街道の先に、人影。
ひとつやふたつではない。
道の中央、左右の斜面、木々の間――こちらの進路を塞ぐように、いくつもの影が静かに立っている。
前に一度退いた連中。
だが、今度は違う。
隠れる気配はない。
最初からこの場所で仕留めるつもりで、道を塞いでいる。
ユキは小さく息を吐いた。
「……今度は逃がす気がないらしいな」
盗賊たちの奥、ひときわ高い岩の上に、ひとりだけ動かない影がある。
褐色の肌。
銀灰の髪。
長い耳。
黒衣を風に流し、逆手に握ったナイフを朝靄の中へ鈍く光らせていた。
《ソラネ》。
それを認めた瞬間、ユキの目が静かに細まる。
さらにその少し後ろには、上等な衣服を乱しもせず、薄い笑みを浮かべた男が立っていた。
セヴランだ。
「……やはり、あいつか」
サイカが低く呟く。
尾の先がゆるく揺れたが、そこに気負いはない。
むしろ、今度は最初から叩き潰すという静かな闘志があった。
セヴランは両手を軽く広げる。
「おはようございます。まさか、こんなにも素直にここを通ってくださるとは」
「朝から随分と趣味の悪い出迎えだな」
サイカが返す。
「ええ。前回の反省は、きちんと活かさねばなりませんから」
その声音は柔らかい。
だが言っていることは明確だった。
今度は逃がすつもりも、逃げるつもりもない。
そういう再戦だ。
(昨日はずいぶん無様に逃げたもんね)
シグレは今日も不敵に笑う。
「数は多いな」
「正面に八、左右に五ずつ。後ろにも回してる」
ユキが淡々と告げた。
「それと上に一つ。厄介なのは前と同じだ」
アナがごくりと唾を呑む。
だが逃げたいとは言わなかった。
耳はもう、前方だけではなく左右の森のざわめきまで拾っている。
馬車の内側から、セリスの気配が揺れた。
その不安を感じ取ったのか、サイカが振り返らずに言う。
「トウヤ。王女殿下を中心に守れ。アナはその補助だ」
「分かった」
「は、はい!」
「護衛は馬車の周囲に散るな。突っ込まず、崩さず、寄せて受けろ。正面は私が押す」
そこで一拍置いてから、サイカはユキへ視線だけを向けた。
「空の方は任せていいな」
ユキは立ち上がる。
「ああ」
それだけで十分だった。
セヴランは指をひとつ鳴らす。
「では、始めましょうか」
次の瞬間、盗賊たちが一斉に動いた。
雄叫びと共に前衛が雪崩れ込む。
左右からは弓と投擲刃が飛び、後列の何人かは王女の馬車へ回り込もうと林の影を走る。
前回よりも明らかに連携がある。
ただの数押しではない。
こちらの陣形を割るための動きだ。
けれど、それを真正面から受け止める者がいる。
サイカが一歩前へ出た。
「魔装顕現――《ドラグニル》」
蒼銀の鎧に、淡い光が走る。
龍人族としての膂力、耐久、反応、体幹、勘。
それらすべてが《ドラグニル》により押し上げられ、立っているだけで空気が変わる。
圧倒的強者の気配。
先頭の盗賊が斧を振り上げて飛び込む。
だが、サイカは避けない。
正面から受け止め、そのまま力で押し返した。
体格で勝るはずの男の足が浮いた。
斧ごと弾き飛ばされ、男が後ろの仲間を巻き込んで転がった。
「はあ、もう少し質を整えたらどうだ」
低く言い捨てながら、大剣が唸る。
一閃ごとに誰かが吹き飛ぶ。
受ければ腕が痺れ、逸らそうとすれば体ごと持っていかれる。
盗賊たちは複数で囲んでいるはずなのに、押しているのが自分たちなのか押し返されているのか、もう分からなくなっていた。
その後ろでは、トウヤが《ハクジュン》を展開している。
白い障壁が馬車の周囲に幾重にも重なり、飛来する矢を弾き、投げ刃の軌道を逸らし、回り込もうとした盗賊の足を止める。
ただ閉じこもるための盾ではない。
敵の進路を削り、守るべき場所へ近づかせないための壁だった。
「左から二人!」
アナの声が飛ぶ。
耳で拾った気配に合わせ、護衛がすぐさま動きだし、障壁に弾かれて僅かに態勢を崩した盗賊へ、剣が正確に入る。
別の一人が林の影から馬車へ迫ろうとしたところを、アナ自身が前へ出て止めた。
まだ動きは荒い。
洗練されているとは言い難い。
だが、それでも怖さに飲まれず、役割を果たそうとしていた。
「上です、来る!」
アナの声と同時に、黒い影が落ちる。
だがそれは馬車ではなく、少し離れたユキへ向かっていた。
甲高い金属音が響く。
振り下ろされた《ソラネ》を、ユキの刀が受け止めている。
火花が散り、黒妖族の女は着地せず、そのまま空中で軌道を変えた。
右上へ跳ね、次の瞬間には背後から喉を狙う。
さらに踏み替え、今度は左斜め下から脚を払うような一閃。
速い。
鋭い。
しかも、一撃ごとに位置が変わる。
まるで空に見えない足場があるかのような動きだった。
ユキはそれを黙って捌く。
一歩引き、半身に流し、必要な分だけ受ける。
無理に追わない。
相手の速さを否定しようともせず、ただ視線だけは確実に追っていた。
(ユキ、前より落ち着いてるね)
シグレが念話で笑う。
「今は見てるだけだ」
短い返答。
だが、事実、その通りだった。
前回は途中で、黒煙と奇襲で視界ごと潰されていた。
だが今は違う。
見える。
見えてしまえば、速さそのものよりも、その速さを成立させている癖の方が気になり始める。
加速の前に、ほんの一瞬だけ姿勢が固まる。
反転のたびに、わずかな溜めがある。
空を自由に飛んでいるにしては、不自然だ。
再び《ソラネ》が閃く。
ユキの首筋を裂こうとした刃を、彼は紙一重で外した。
すれ違いざま、その瞳が相手の足元――正確には、足が置かれる“空間”を捉える。
「……なるほど」
女の動きが一瞬だけ止まる。
ユキはそこで初めて、薄く口元を歪めた。
「飛んでるわけじゃないな」
返答はない。
だが、その沈黙が答えだった。
「空に足場を作って、そこを蹴ってるだけだ」
女の目が細くなる。
「一歩ごとに踏み切りを刻んで、軌道を繋いでる。だから速くは見える。けど――」
ユキは刀を構え直した。
「自由じゃない」
今度の殺気は、さっきより分かりやすかった。
女が無言のまま踏み込む。
今までで最速の急襲。
一直線に喉元を貫こうとしたその一撃を、ユキは真正面から受けなかった。
刃を滑らせ、角度をずらし、勢いを殺す。
わずかに体勢の流れた相手へ、すぐさま鞘打ちを返した。
女は腕で受けた。
だが、その防御そのものが予想され、ユキはそこで追わず、一歩だけ深く踏み込む。
間合いが狂う。
見えない足場へ逃げようとした女の肘を、ユキの左手が掴んだ。
「っ――」
強引に引かれ、女の身体が地へ落ちる。
完全には崩れない。
受け身は取った。
だが立ち上がるより先に、刀が喉元へ突きつけられていた。
ぴたり、と。
動けば切れる距離。
女は膝をついたまま、ユキを睨み上げる。
逆手の《ソラネ》はまだ握っている。
だが、その刃が届く前に終わる位置だと、本人が一番よく分かっていた。
ユキは目を細め、冷たく言う。
「あいつはもっと自由に空を舞っていたぞ」
本来の持ち主が脳裏を過ぎる。
翼を失ってなお、空を諦めなかった少女。
澄んだ空に似合う青髪と、太陽のような笑顔。
彼女はいつも、空にいた。
空へ縋るのではなく。
空に許しを乞うのでもなく。
ただ、当たり前のように空と共にあった。
今目の前にいる女の飛び方は、それとはまるで違う。
確かに速さはある。
だが自由ではない。
空を駆けているようでいて、実際には落下を繋いでいるだけだ。
「お前は空を知らない」
女の呼吸が、わずかに乱れる。
「それは、生まれながら空を駆ける、彼らとの経験の差」
「なにより、空を駆けることの許された種族としての誇りとその在り方」
「天翼族でもないお前が、《ソラネ》を握ったところで、あいつと同じ空には届かない」
ユキの声が、さらに低くなる。
「ましてや、黒妖族としての誇りさえ捨てたお前が――」
女の耳が、ぴくりと震える。
「自由に空を駆けられるわけがない」
次の瞬間、ユキは刀を振り抜いた。
◇
その間に、周囲の戦況は傾く。
サイカの前では盗賊たちの前衛が完全に押し返され、トウヤの障壁は一度も破られていない。
アナの声が途切れず響き、回り込もうとした敵をことごとく潰している。
再戦のために仕掛けてきた布陣は、確かに前回より厄介だった。
だが、それでもこちらを崩すには届かない。
そして、その中心で《ソラネ》まで止まった。
もう形勢は見えている。
その時。
「……ここまでですか」
戦場に似つかわしくない、柔らかな声が落ちた。
全員の視線がそちらへ向く。
倒れた盗賊たちを一瞥し、喉元へ刃を突きつけられた黒妖族の女へ目を向けても、なお表情は変わらない。
「使えませんねえ」
その薄い笑みを崩さぬまま、セヴランは小さく肩を竦めた。




